崖の上から、天から地へ伸びる白い剣を眺める。 認識阻害マスクで覆われるそれは、本来ならダークエリアの境界近くのこの位置であってもその姿を見られることはあり得ない。彼女が白い逆さ塔の目視に成功しているのは、その身に投与した関係者用のワクチンの影響によるものだ。 可能な限りの準備はできた。桃色の髪の少女は電子戦闘プログラムを収めたサーバーを握りしめる。 「時間だ」 「ええ」 青い仔犬の呼び声と共に、作戦が始まった。 ただ一人、己の運命との決戦が。 Alert。 ファイブエレメンツ社のデータ管理センター、その中枢部に設置されたモニターの全てが警戒色に塗りつぶされる。警報が喧しく鳴り響き、その中で管理部門の社員が血相を変えて駆けずり回っていた。 「被害状況は!!」 「メインサーバー前で抑えています!ですが防壁が保ちません!!」 「攻撃者特定は不能、時限式の自己複製botを用いた多重攻撃と思われます」 「解析してカウンターワクチンを打て!戦闘部門からの連絡はどうした!!」 「通信インフラを重点的に寸断されています繋がりません!本社とも不通です!」 「botがプログラム構成を変更しています!カウンターの第一波を無効化されました!」 「肉入りか?いや自己学習性のウイルスを使って……!?」 戦闘部門の幹部の一角が欠け、その対応の調整に意識が向いていた瞬間を狙った攻撃だった。無論、デジタルワールド内からの襲撃こそ最も厳重に網を張って対応していたはずだが、 その網の内側……社内ネット内部からの攻撃でこの「天沼矛」が本社及びその他の部門と切り離され、デジタルワールド内の孤島と化していた。それが事実であった。 「攻撃者特定……!これは戦闘部門のエージェントです!今も活動中の……!?」 「活動記録はフェイクだ!そいつの頭を足がかりにして壁の内側に攻撃を仕込まれている!履歴を洗え!」 「ダメです!捜査班がカウンターを受けました!追えません!」 種明かしは、当の社員本人―――のクリアランスを踏み台にしたセキュリティ内側からの破壊工作。どれだけ外壁を硬く仕上げても、内部に通ずる鍵を握られたら防ぐ手立てはない。 しかもそれを気取られないように捕らえたエージェントの偽装活動データを送り続けて、勘付かれたら攻勢プログラムの苗床に仕立て上げて置き土産にした。 「外でも異常事態には気づいているはずだ。とにかく本社との連絡を復旧させろ、これ以上は籠城に……」 「……外部コネクタ周辺が掌握されています……!門を開いたらここも、本社も直接影響に晒される……!!」 皮肉にも、ネットワークから切り離されたことでマルウェアの感染拡大を防いだ形になる。が、これを全て取り除くまで天沼矛側も本社側もアクセスを復旧させることはできない。文字通りの籠城だ。 明らかに情報戦、それもデジタルワールド内のそれに手慣れている。同時に我がFE社の内部に精通し、自慢の戦闘部門も最重要セキュリティに守られた本社も回避して天沼矛へ直接攻撃を行う者。 「何者だ……我々の実験の、亡霊なのか……?」 だとしたら、もはや神に祈りすら届かないだろう。 天沼矛内、メインゲート周辺には内部の警備部隊が続々と展開され、侵入者の急襲に備えた布陣を敷き始めた。 これまでの攻撃は全て肉抜きのものだ。高度に自律化されたプログラムだが、それだけでは内部のデータへの攻撃は行えない。社内ネットの寸断自体が目的の撹乱作戦という意図は明白だ。 本命は必ず生身で来る。それがどれだけの規模であったとしても、天沼矛の最後の門を絶対に通すわけにはいかない。 「何が来ると思う?」 「ヤクザよりは穏当に来て欲しいね」 警備員同士軽口を叩き合いながらも、その表情は強張りを隠せない。攻撃者も一連の撹乱の結果として正門を固められるのは自明だろうから、この布陣を打ち破る大軍勢で攻めてくるのは予想に難くなかった。 というより、それ以外に考えられなかった。この天沼矛においてネズミを通しかねない余計な開口部は存在しない。文字通り剣のように継ぎ目のない施設の中で、正門だけが唯一の出入り口なのだから。 ―――その通りであったが、それ以外は予想を外れた。 突如、地面が大きく揺さぶられた。配置したサイボーグ型デジモンが大きくよろめき、警備部隊は脚を地面に付けられずに宙に舞った。そして間もなく床面に叩きつけられる。 そして、落雷が間近に落ちてきたような轟音が鼓膜を埋め尽くし、隊員間の会話を遮断した。悲鳴と呻き声が連鎖する中で、ある隊員が何かに気がついた。 「おい!さっきの音……あれ、マスドライバーの発射音じゃないか……!?」 「何だと……管理センター!!状況知らせ!!」 隣にいた隊員が管理部門へ怒号を飛ばす。帰ってきた返答は予想通り、最悪の状況だった。 「攻撃者が天沼矛内部に侵入!敵は掌握したデータ転送マスドライバーで突入した模様!」 データ転送マスドライバー。マス(質量)の名を残してはいるが、その実態は大容量のデータを本社に送るにあたって構築された大型転送装置である。 ただ、デジタルワールド内ではデータが質量的振る舞いを見せるのだから、その構造は現実のそれに似通っていく。つまり質量体のようなデータを加速して"投射する"わけだ。 ダークエリア境界線上ともあれば相当な僻地と同義であり、このマスドライバーの存在が本社への研究成果の直送に役立っていた。それが、今文字通りに天沼矛へと牙を剥いた。 警備部隊が正門に戦力を集中させていた隙に、攻撃者は余裕綽々で天沼矛の外にあるマスドライバーを掌握。データ保護用の弾殻の中に入って天沼矛の土手っ腹に自分自身を撃ち込んだのである。 その加速力と弾殻の強度で外壁は損壊。内部階層にまで直接のダメージを受けた。何より、無傷での侵入に成功させられた。 地震に見舞われた管理センターの中で、椅子を支えに立ち上がった社員が声を絞り出す。 「侵入者を、特定しろ。警備部隊を内部へ呼び戻せ……」 警備部隊への発報と共に、モニターが天沼矛の内部を映し出した。ちょうど弾殻が止まった位置の部屋だ。 桃色の髪、深い赤色の衣装、連れているのは青い犬のようなデジモン。その特徴をスキャンして―――管理部門の予想を外れ、嫌な想像通りの結果が返ってきた。 「あれは、ここで行われていた実験の被検体です。"エインヘリアル"の脱走者……」 「コードネーム、"クラースナヤ"……!」 帰ってきた、赤い亡霊が。 廊下の中を数人の警備員とデジモンが駆ける。警備員といってもその服装は幾重にも重ねられた防壁が陸軍兵士のようなフル装備として具現化されており、手元にある角形は攻勢プログラムを展開したウィンドウである。 敵を見つければこのウィンドウからプログラムを発射して敵を射抜く。それでも倒れないならば引き連れたデジモンを使って叩き潰すのみ。散々掻き回されたが、相手は所詮単騎だ。幾らでもやりようはある。 そう自分に言い聞かせた兵士のゴーグルが、赤い影を捕らえた。 武器使用は自由、既にそう聞かされていた。警告の必要もない。ロックオン、発射。ウィンドウから飛び出した光の矢が直進して、赤い影を撃ち抜いた。 獲った。その確信は、一瞬遅れて訂正された。撃ち抜かれ大穴が空いた赤い影が揺らめくと、ノイズとなって呆気なく消滅する。 「デコイを撃破、次」 本物ではない。件の敵……クラースナヤは侵入後もデコイを用いてこちらを撹乱しようとしている。自分たちを振り回した隙に火事場泥棒を働くつもりか。 「隊長、管理部門に連絡を。取り逃す前に正門の完全封鎖を願います」 「ガンマ1よりセンター。正門封鎖。敵の無力化まで開けるな」 後は虱潰しに各階層を洗っていけばいい。外壁の修復も急がれている以上、天沼矛はいくら入ったところで袋の鼠だ。 「後は敵の抵抗次第ですが……各実験室に影響が出る可能性は」 「やむを得んが、いざとなったら身体を使ってでも止めろ。ここでは死ぬ心配もないからな」 部下の懸念に隊長が答える。死ぬ心配がない、というのは無論不死身を意味することではない。ただ、デジタルワールド内の彼らの肉体であるデータにはFE社の技術を応用したプロテクトが施されている。 致死的なダメージに対して自動で保護モードに入り、生存に必要なデータのみが殻に篭った状態で残る。この状態では身動きも思考もままならないが、それ以上の攻撃を受け付けないし、救助されれば生還可能という画期的なものだ。 故に、抵抗があればこちらは遠慮なく肉盾を使って制圧してみせる。というのが隊長の考えであった。それに余計に施設の被害を増やすようでは業績にも響く。 その瞬間、隊員の一人が足元に何かが転がって来たのを目に入れた。整備された廊下の中で、自発的に転がるものは、 「警戒!」 部隊全員が固まり廊下の前後と上下に警戒の目を向けた―――しかし、すぐにそれは意味を為さなくなった。白い煙が、全員の視界を塗り潰して塞いだからだ。 「複製式スモーク……!?視界不良!無闇に動くな!」 数式を無数に複製して遅延した処理が煙のように視界を遮断するスモークは、デジタルワールド内では比較的普及した幻惑手段だ。しかしこれはジャミングに比べて敵味方の区別をつけることができない。 なぜ、こんな原始的な……?隊長はその思考に気を取られて、 喉に迫った刃が、差し込まれるまで気が付かなかった。 「!?っあっあっあ゛あ゛ぁ゛ぁぁぁぁ!!」 喉を切り裂かれながらも、デジタル処理された悲鳴が廊下を突き抜ける。プロテクトに保護された肉体は確かに致命傷を受けて保護モードを展開したが、 その肉体が物言わぬ人形に変わるまでの間、痛覚を防ぐことはなかった。故にその絶叫は文字通り致命に至る断末魔となった。 「ひっ、あっ……!!」 その悲鳴に、一人が呑まれた。電子投薬と精神調律で平静を保たれているはずの兵士の一人が、事前の指示を無視して攻勢プログラムに火を入れる。 発砲、着弾。それを他の隊員が咎める前に、煙の中を赤い影がゆらりと動いた。 「……ぐぁっ、あぁ……!!」 その姿を視認した隊員の目が見開かれると、今度は別の誰かの悲鳴が響いた。痛ましさが背筋を掻き乱し、呼吸は短く早く繰り返される。 発砲、発砲、発砲。命中、呻き声。 「やめろ!撃つな!同士討ちになる!!」 まだ理性を保っていた隊員が、決壊寸前の統制を保とうと呼びかけた。まだ煙が晴れない中を手を伸ばして――― その手首が、裂けていることに気がついた。 「あ……何で……俺の、手」 「―――"エッジスラッシュ"」 少女の声が聞こえた。そう知覚した次の瞬間に、煙の中から溢れ出した爆炎が隊員の身体を吹き飛ばした。 そこからは、完全な恐慌だった。全員が叫び、撃ち、デジモンに手当たり次第の攻撃を指示して、とにかく自分だけが生き残ろうとして、 ―――誰一人、生き残らなかった。その殆どは同士討ちだった。 「ガンマ壊滅……全員が保護モードで救援を……」 管理センターのオペレーターは、その状況を絶望的な眼差しで見つめていた。結果的にクラースナヤは最初の数名を無力化しただけだ。 ただその際に、わざと痛みの絶叫が良く響くようにして、隊員の中から比較的ストレスに弱い者の暴走を誘発。そこから連鎖的な恐慌に繋がるよう、的確に切り裂いていった。 ガンマ隊の壊滅現場には既に彼女の姿はない。デジモンに乗っての移動だが、既に成長期から成熟期に移行して天沼矛内を駆け回っている。 とにかく、追跡を。最終的な狙いを特定して戦力を集中させなばならない。だが、次に彼女が見つかったのは、最悪に最悪を重ねた場所だった。 「クラースナヤを発見!!場所は―――実験体収容室です!!」 「……!?デルタとイオタを向かわせろ!大至急だ!!」 オペレーターを束ねる管理者の顔が、明確に青ざめた。 実験体収容室は、過去の天沼矛内で行われた実験の産物が保管された部屋。その中には実験を施されたデジモンなどの動体も含まれている……実験の影響で危険な性質を帯び、しかし処分すらできず閉じ込めるしか無かったものも含めて。 咄嗟に実験体脱走時の手順を参照し、緊急脱出プロトコルを展開しようとして、管理者はあることを思い出した。 今、天沼矛はネットワークから切り離されている。加えてクラースナヤの捕縛のために正門をロックしたばかりだ。それは、つまり――― 「実験体が脱走しました!!B-103、及びD-667、更に―――」 「対精神防護を準備しろ!デジタルハザード警報を出せ!ガンマを回収して実験体収容室へ」 「え……まさか、我々が実験体の対処を……!?」 「違う!収容室の中に逃げ込め!ロックを復元して鍵を閉めるんだ!!」 この天沼矛が、実験体の闊歩する地獄に変わった瞬間であった。管理者は最も生き残る公算が高い選択として、自分たちが収容室内に閉じ篭もることで影響から逃れることを決断した。 最早、実験データの保護も何もクソ喰らえだ。ただ死にたくない。あの地獄が恐ろしい。 現場の警備部隊も、天沼矛も、そのウィークポイントとなる場所を集中的に狙われ、実質的に瓦解を初めていった。 混乱が渦巻く廊下の中を、赤の名を与えられた被験体が駆ける。 赤い地獄が来る。