俺に兄弟はいない。  姉が一人、妹が二人いたが、男の兄弟……いや、兄弟に限らず親戚一同においてすら年近い男の肉親に縁が薄い人生だった。  だから学友達から兄の横暴さ、弟の生意気さ、男兄弟のやかましさ……そんなものを語られても俺はそれに共感できず、寧ろ羨ましいとすら思っていた訳だが……。 「よう哉の字(かなのじ)。今日も今日とて気怠げだな」 「背中を叩くな稀の字(まれのじ)……頭に響く……。手前こそなんでそんなに元気なんだ……?」 「うちは代々酒に強くてなぁ、あれくらいなら軽いもんよ」 「羨ましい限りだ……。あぁ……くそっ……頭がいてえ」  成人祝いだ、と俺とあいつが分隊中から酒を注がれ尽くしたその翌朝。  小川に向かってうずくまる俺と、その背を叩くあいつ。  もう、七年も前の話だ。  俺がまだ、戦地にいた頃。  あの戦争が、まだ終わっていない頃。      「ほら水だ、飲め」 「おお悪いな……ぶふッ!? 手前、これ酒じゃねえか!!」 「うっひひひっ! 騙される方が悪いんだよ哉の字ぃ!」 「手前、今日こそはぶん殴って――おぼろろろろろ」 「げぇッ!? 軍医殿! 平田軍医殿!! 紫藤が吐きました!!」  ああ、もし兄弟が居たのなら。  それはこんなにも気の置けない日々なのか。 「哉の字、この草が悪酔いに効くらしいぞ」 「本当かよ……」 「まあ騙されたと思って囓ってみろ」 「……手前が毒なんざ渡すわけはねえか。…………お、本当だ。結構いけるなこれ」 「…………」 「苦味こそあれど爽やかな感じだ。ヨモギに近い……なんで手前が驚いてんだよ」 「いや……あっさり食いやがって、と思ってな……」 「なんで手前が渡して来たものを前に逡巡する必要があんだよ。食っても大丈夫なものしか出してこねえだろ手前は」 「……はっ、言ってろ」  ああ、もし兄弟が居たというのなら。  それはこんなにも愉快な日々なのか。 「生きてるか、稀の字……」 「どうにか、な……。肩を掠めて行ったが問題はない……お前は?」 「俺は……たぶん脚かな……」 「お互い無様に生き残っちまったって訳だ……」 「……はん。運良くと言えよ笑えねえ……」 「はっ、そうだな……運良く、生き残れたな……」  ああ、もし。  もし、兄弟が居たのなら。  それはこんなにも鮮烈な日々なのか。  ……だが。  それも総ては、過去のことだ。 ──────────────────────────────────────  ……あつい。  ぼくは額の汗をぐいと拭ってそう呟く。  やはり、観察日記なんて外で描くべきではなかった気がする。  かあさまがおっしゃるには今年はことさら暑いらしいのだから、なおさらだ。  しずねえさまならきっと「瑞稀さん、網で捕まえてお部屋で描けばよろしいのでは無いですか?」と言うのだろう。  ぼくだってそれくらいは考えた。こんな日なたで膝の上でノォトを広げているよりは、自室で風鈴の音でも聞きながらじっくり描いた方が良い出来になるに違いない。いつ飛び去ってしまうか、そんなことを怯えながらスケッチをするよりは良いだろう。    ……でも、いざ網を手に樹の前に立ってみると、網に対してその羽は大きすぎるように見えた。  それに、大紫が力強く羽ばたく様子を見ていると……。 「……うん。閉じ込めてしまうのは、かわいそうだもの」  別段、観察日記なんてどこででも描けるのだ。  評価が付けられる訳でもない。  なら、ぼくはこれで良い。    それにほら。  かごの中よりも、きっと外で羽ばたく方が、あの羽は艶やかだ。    ――そんなぼくが羽の白い斑点をどう表現するかに思い悩み始めた頃、その声は来た。   「こんにちは、少年」 「……こんにちは」  びっくりした。  声をかけられたことに、ではない。   「……初めまして」  ぼくに声をかけてきたそのお兄さんが、この御繰村の人ではなかったからであり、その人が――。 「――なるほど、君は村長さんの家の子だな」 「……え?」  この村の人ではないにもかかわらず、ぼくの立場を、あっさりと言い当ててしまったからだ。 「俺は紫藤智哉。東京で探偵業を営んで……」 「探偵さんですか!?」 「お、おう……そんなに珍しいか? いや珍しいかそりゃ」  すごい。「あら、探偵さんみたい」と思っていたら本物の探偵さんだ。  紫藤智哉、しどうともやさん。  東京からのお客さん。  そして、探偵。     探偵。  それは複雑に絡み合った、事件という名の紐を解きほぐし、その中のたった一本の緋い糸――すなわち真相――を抜き出す崇高なる研究者のことだ。    ……うん、ぼくの美化した妄想が挟まっているのは知っている。  この二十世紀も半ばを過ぎた現代日本において事件を解決に導くのは警察の仕事であって、素人の探偵がその捜査に口を出すなどと許されることではない。  それはぼくだってわかりきっている。  けれど、それはそれだ。 「そんな綺羅綺羅とした目で見られてもなあ……。俺はしがない私立探偵だ。ミステリィの探偵とは違うからな」  紫藤さんはぼくの生家――長縞家に用向きがあって東京からはるばる出向いて来たのだという。  家へと案内を頼まれたぼくは小脇にクレパスの箱とノォトを抱えて紫藤さんの隣で歩き出す。  ……背が高い人だな、と思った。  ぼくより頭が三つほど上だから……百七十センチメヱトルの……後半くらい?  すらりとした体型で歩幅が大きい。  全力で走ったらさぞ早いだろうな、とぼんやり思う。  ……あ、でもぼくが隣で歩きだしたら一歩一歩の速度を遅くしてくれている。  ぶっきらぼうな口調ではあるけれど、この御繰村でぼくの横に並んで歩いてくれる人なんてほとんど居ないのだ。一番一緒に居る機会が多いしずねえさまは後ろについてくることばかりで横に並んでくれない。  だから、一緒に歩いてくれるのは、なんだか……むずむずする。  でも嫌いではない。 「平時の業務は専ら失せ物探しだぞ。フィクションと一緒にしてくれるなよ?」 「でもぼくが誰なのかすぐさま推理していたじゃありませんか。すごいです、まるでホオムズ先生みたいだ」 「ホームズぅ? 止してくれ、簡単な連想ゲヱムだ」   すごい、本物だ……!  本当に「簡単な推理だ」って言った……! 「……やめてくれ、今のは口が滑った」  紫藤さん自身も今の発言が「それらしい」自覚があったのか、顔を手で覆って視線を背けてしまう。  この時点でぼくは既に確信していた。  ぼく、この人好きだ……! 「……いや、本当に簡単ではあるんだ。農村部の特徴と言ってしまえばそれまでだが、この御繰村では日常的に洋装をしている層が少なく見受けられる。そして診療所も、交番もこの村そのものには無い。よってこの村においてそれを着ているような層は限られる訳で、たとえば君の生家である長縞家だ。長縞家は製鉄業界に強いコネを持ち、特に神戸への伝手が大きいと聞く。洋装にも慣れているだろう。無論、ただ洋装をしているからと言って君が長縞家の人間だと判断した訳じゃない。服の折り目が整えられていたこと、履き物が子供用のきっちりした物であること、そして君が抱えているそれ、クレパスの箱はサクラの新しいものだ。あっちの文房具屋で見た記憶がある。それを持っているのは村の中でも外との出入りが活発に行われる家、かつ裕福な家の者に限られる。一つ一つの要素だけならば他の者でも該当するだろうがここまで全部当てはまっているならば十中八九確信できた。そして最後に――」  そんな風に指を折りながら理由を説明してくれる紫藤さんにぼくはすっかり魅せられていた。最初こそ恥じらっていたにも関わらず、興が乗り始めたのかあっという間に加速していく言葉はどれも的を射たもので、事実この村でぼくと同じ年代の子は皆もっとくたびれた格好をしている筈だ。ぼくの服は使用人の人達が毎日電気アイロンをかけている上に、芝浦製作所の最新式電気洗濯機まで導入しているのだから、良くて手回し、或いは洗濯板を使った洗濯と比べればどう足掻いたって差は出るだろう。    そして最後に、最後になんだろう?  言葉の続きを待っている中で。 「――――――――あら? 瑞稀さん、お客様ですか?」 「あ、しずねえさま! はい! 東京から来られた紫藤さんです! 探偵さんなんですって!」  道の向こうから歩いてきたしずねえさまに声をかけられて咄嗟にそちらへ振り返る。そういえばそろそろお昼時だ。ぼくを迎えに来てくれたのかもしれない。 「……紫藤様?」  なのに、しずねえさまは紫藤さんの顔を見て、その動きを止めてしまう。  その反応は、「なぜあなたがここに」と言わんばかりで、不吉な客人を見たような顔をしていた。 「……やあ、静稀さん。お久しぶりですね」  六……いや、七年ぶりかな。  そう呟いて、紫藤さんは足を止める。   「――最後の理由はな、少年」  ぽん、と頭の上に置かれる手。 「俺は、君に似た男を知っているからだ。君の、従兄弟に当たる男」 「いとこ、ですか……?」 「そうだ。長縞、智稀。わかるかい?」 「は、はいっ。ともにいさまですよね。……あんまり、記憶はありませんが……」 「そりゃあ君は三歳か二歳の筈だからな。……稀の字、いや智稀とは戦地で一緒だった」  呟いたのは寂しそうな顔だった。  おじいさまのことを話すかあさまとどこか似ている気がしてぼくは何も言えなくなってしまう。 「俺はな、少年。あいつの遺品を返しに来たんだ」   「っ!」  息を呑むしずねえさま。  そんな、まさか、なぜ今更……。とでも言うかのような驚愕に歪んだ表情。   「しずねえさま?」 「……瑞稀さん、蒔稀様を呼んできてくださいますか」 「かあさまを? どうして……」 「ごめんなさい、理由は話せません。ですがどうか、お早く」 「は、はいっ」  滅多に見ない顔にぼくも驚くが、しずねえさまに「どうしたのですか?」と聞く間もなくかあさまを呼んでくるように促される。  その声があんまりにも切羽詰まったものだったからぼくは何も言えず、紫藤さんに背を優しく押されて走り出して――背後で行われている会話も耳に入らないまま、家へと駆け込んでいくのだった。   ――なぜしずねえさまがぼくを急かしたのか。  ――なぜ紫藤さんがこの村にやってきたのか。  ――返しに来た遺品とはいったい何なのか。  まだこの時のぼくは何も知らないままで、けれど。  目も眩むような日差しの中。  空の向こうの雲が、嵐の到来だけを感じさせていた。  続く