「ふー。気持ちよかった」 脱衣所には誰もいないのに、つい声が出てしまう。一日中歩いたあとの身体にはお湯の温かさがよく沁みて、疲れているはずなのに心地いい高揚感が宿っていた。 今日もよく歩いた。綺麗なものもたくさん見た。お湯に浸かりながらその景色を思い出すと、心から満たされていると思える。 今日もいい旅だったと思いながら一日を終える、こういう時間が好きだった。 そんな素敵な旅の連れをいつまでも待たせては悪いから、部屋着を纏って脱衣所を出た。同じように疲れを癒した彼と、旅の思い出を語りながら眠りにつきたかった。 「ごめんね?お風呂先にもらっちゃった」 彼にもお風呂に入ってほしくてそう声をかけたのだが、返事はなかった。 その代わりに、彼はソファーに横たわって規則正しい寝息を立てていた。 「あはは。今日はちょっと歩きすぎたかな」 今日、彼は疲れたとも休憩とも言わなかった。きっとそれは、彼なりのささやかな矜持と気遣いだったのだろう。アタシと過ごす時間に、不純物を差し挟まないように。 「ありがとう。 今日も楽しかったよ」 起こさないようにそっと言ったけれど、聞こえていてほしいとも思う。夢の中にも、入れるものなら入ってみたくて。 気づけば彼の頭を膝の上に乗せていたけれど、起きる素振りは少しも見られない。こんなに疲れ果てるまで付き合ってくれたと思うと、それがひどく愛おしかった。 少し伸びてきた彼の前髪に指を通す。容姿に惚れ込んだわけではないけれど、こうして見ると意外にも整った顔をしているように思えて、見慣れているはずなのになんだか楽しい。好きな相手を綺麗だと思い込みたくなっているだけなのかもしれないけれど、こうして堂々と品定めをして愛でられる機会は早々ないから、それはそれで面白いものだ。 「あ…ふふっ」 眠っているのをいいことに頬に遠慮なく触れると、アタシの手に頭を寄せて甘えてくるのが可愛らしくて仕方ない。起きているときなら絶対にしない反応を、思うさま楽しんだ。 きみは恥ずかしがると思うけど、今は甘えん坊なきみを味わっていたい。 起きてるときにかわいいって言ったら、きっときみは拗ねてしまうだろうから。 いつもしっかりしているきみがこんなに甘えてくるのが楽しくて、今度からは少し早起きしてきみの寝顔を楽しむのもいいかなと、本気で思ってしまう。小さな子供がぬいぐるみを抱いて眠るみたいに、差し出したアタシの手を自分の手で包んで、大事そうに胸の前で抱えるきみを見ていると、余計にそう思った。 普段のしゃんとしているきみが好きだから、そんなきみが甘えてくるのが愛おしい。眠るだけで人はこんなに簡単に変身できるのだと思うと、夜が来るたびにアタシの知らないきみに会える気がして、なんだかわくわくする。 きみと一緒にいて、寝顔だって何度も見てきた。 そうしているうちに、いつの間にかきみのことが好きになっていた。 眠っているきみと起きてるきみ。アタシが恋をしたのはどっちだろう。 そう本気で思ってしまうくらい、アタシはどっちのきみも好き。 でも、それだとひとつ困ることがあるんだ。 起きてるきみの言葉を聞くと、眠るきみを愛してあげたくなる。 なのに眠っているきみが好きになるほど、起きてるきみに浮気がしたくなる。 ひどいわがままだと自分でも思う。けど、それでもいいよね。きみが好きだから、どんなきみも愛したくなっちゃうんだもん。 起きてるきみが紡いでくれるたくさんの愛の言葉も、無邪気にアタシを愛してくれる眠るきみの仕草も、アタシは誰にも渡したくない。 瞼に触れてそっと睫毛を爪弾いていると、その下の瞳がゆっくりと開いた。 「あ。起きた」 アタシの好きなきみがいなくなる。でも、また別のきみが来てくれる。そう思うと、目を覚ます瞬間が少し寂しくて、嬉しい。 起きたばかりのきみの瞳はまだとろりと蕩けていて、いつの間にかアタシに膝枕をされていることも、頬に思うさま触れられていることもあっさりと受け入れてくれる。何度愛し合っても初々しい恥じらいが抜けないきみも好きだけれど、むき出しの愛情を穏やかに受け止めてもらうのも悪くない。 「おはよう」 「ん…ごめん、寝ちゃってたか」 「気にしなくていいよ。寝てるきみ、かわいかったし。 ああいうの、好きだな」 ちょっとからかうとばつが悪そうにそっぽを向くけど、顔が見たくてもう一度こっちを向かせた手は、逆らわずに受け入れてくれる。 そんなきみに今日も夢中だ。愛されることも愛することも、アタシの好きなかたちで受け入れてくれるきみに。 「…起きてる俺は嫌い?」 寝ていたときの自分に嫉妬して、少し気恥ずかしそうに微笑むきみに。 ゆっくりと首を横に振って、耳元に唇を寄せる。 「大好き」 アタシの気持ちを話して聞かせてあげられるのは、起きてるきみだけだもの。 だから、もっといっぱい愛してよ。 寝ても覚めてもずっと、アタシが好きって伝えてほしい。 きみのことを、もっともっと好きになるために。