「ねえねえねえ!聞いたカナロア!?」 愛しい妻の慌てたような声に呼ばれて、僕は顔を上げてすぐそばの妻と相対する。いつものニュースを伝える声ともどこか違っていた。 「どうしたの?」 「マジンちゃん…亡くなったって…」 テレビのリモコンを危うく取り落とすところだった。 「マジンってあの子だよね…野球大好きの」 「うん。病気でもうすぐにだって…さっきネットニュースになってたの」 マジンプロスパー。僕もムーンも何度か一緒に走ったことのあるウマ娘だ。とある有名野球選手の出資を受けていて、彼の所属チームを応援していた。 一度なんでそんなに熱中しているのか聞いたことがあったっけ。いつも野球を中心に考えているくらいには、彼女は熱狂的だったから。 『どうして、ですか。私は野球が好きだからですよ。先生が選手だからとか、そういう理由ではありません』 『うーん?何の説明にもなってなくない?』 『…チームであり個人。野球は一人ではできないですが、一人でやらなくちゃいけないんです。レースも…おっと、今日も試合ですね』 その日交わしたのが、僕と彼女で野球観戦の理由を論じた唯一の会話だった。何年も前のことなのに、なぜかよく覚えていた。 意味がわからなかったからだ。 「亡くなった…そうなの…まだ若いのに」 「なんかガンだったかな?手の施しようもなかったって」 「怖いね…」 かつて何度か話したこともある友人の死という出来事は、しかし現実味のないものとして感じられた。 昨日の野球の試合を、彼女は見届けずに死んだのだろうか。なんとなく生まれたその思いつきが、私の心に根を張った。 ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー 何も変わりのないある秋の日だった。その日は何事もなく午後を迎え、私は家で家事に勤しんでいた。また今日も夕方になって、夜になる。 カナロアの帰りを待ちわびていると、電話が鳴った。 【もしもし、ロードカナロアさんのお宅でしょうか?】 「はいもしもし、そうです。ハクサンムーンですけど」 【ああ…奥様ですね?すぐ来ていただきたいのです】 「へっ?あの…どこから電話ですか?」 【東京大学医学部附属病院です】 聞き慣れぬ硬質な響きが私を動揺させた。病院?カナロアが? 「あの!カナロアに何かあったんですか!?」 【奥様は出先で倒れたところを搬送されました。現在、意識がありません】 目の前が真っ暗になった。 どうやって準備をしたのか、気が付けば私は病院の廊下を走っていた。ぐるぐると視界が回る。それはいつもの心地の良いものじゃない。 病室がたくさん並ぶ廊下を駆け抜ける。消毒液の匂いがきつい。まるで陳列された棺桶のようで…私は嫌な想像を振り払う。 「カナロアぁー!!」 「待ってください!」 「今は治療中で…」 「通して!!通してよ!!カナロアが!!!」 ベッドに横たわり無数の機械に繋がれたカナロア。今日の朝まで元気だったのに、今は青い顔をしてぴくりとも動ここうとしなかった。 「…ご家族の方ですね?」 手前で押さえていた医者の一人が進み出た。初老の真面目そうな医者だった。 「…はい」 「ご説明することがございます。こちらへいらっしゃってください」 通路を渡って診察室に入ると、医師はカルテを広げて眉根を寄せる。 「カナロアは…どうなっちゃったんですか…?お願いします…治してください」 「…奥様は、ガンです」 言っていることの意味がよくわからない。ガン?ずっと健康だったのに? 「悪性腫瘍が肺から発症、肝臓と胃に転移したようで…非常に危険な状態です」 「なっ…何言って…バカなこと言わないでください!!カナロアは助かるんですよね!?」 「…落ち着いてよく聞いてください。この進行度の症例の生存率は、極めて低い。残念ですが…今のうちに整理を…」 「何で!?何でですか!?カナロアがなんで、なんでこんなことにならなくちゃいけないんですか!!」 「私も…数回このような患者さんを見送ってきました。動揺するのは致し方ないことです」 「返して!!カナロアを返してぇ!!!!治してください!!絶対に!!!」 「…最大限努力します」 その夜、ロードカナロアは死んだ。どの治療も効果を挙げることなく、一度も目を開けることもなく。最期の語らいさえ、私には許されなかった。 ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー 何件ものメール。鳴り続けてしまいには叩き壊した受話器。ひび割れたスマホ。全てが霞の向こうにあるようだった。 葬儀はいつの間にか終わっていた。一体どうやって手続きをしたのか、全く思い出せなかった。何よりそんなものどうでもよかった。 私自身の身体だってそう。手を動かして足を動かす、その実感がもう思い出せなくなっている。今は夜なのか。光が見えるから、多分夜ではないのだろう。 あの日からずっと、私の時計は壊れたままだ。今まで生きているのがわからない。生きている意味?そうだ。生きている意味なんてない。 私のせいで、カナロアは死んだのだから。 毎日一緒にいたのに。夜を共にしてもいたのに。カナロアの身体の異常に気付くことができなかった。私しか気付けなかったのに。 私のせいだ。 私でなければ。 私がいなければ。 私が生きていたから。 私が生きているから。 カナロアは死んだんだ。 死ななきゃ。 浴槽に湯を貯める。確実に死ななきゃ。私は手首を切る刃物を探した。戸棚から一本のナイフを手に取った。これなら切れる。 そう思った瞬間、私の脳裏に思い出がよみがえった。 『それじゃせーの、サンドイッチ、作るぞー!』 『おー!』 『という訳で、お願いします先生!教えて!』 『んー、仕方ないなあカナロアは♪』 テレビで見た創作サンドイッチ。それを作りたいと言い出したカナロアに私は料理を教えたんだった。 『猫の手だよ!猫の手!それ危ない!』 『猫の手?にゃ、にゃあ…』 『…あっはっは!!猫ってそういうことじゃないよ!』 『えーっ!?全然わかんないよ…』 出来上がったサンドイッチは不格好だけどおいしかった。しばらく二人の間でサンドイッチがブームになったんだっけ。 「…うええええっ!!!!」 ダメだ。こんなことを考えていて…死ぬなんて、できない。包丁を投げ捨てて、私は縛るものを探した。あった。ロープを見つけた。 『ねえームーンー、これでいいー?』 『オッケー!離していいよ!』 日曜大工の一貫で工事の真似事をしていた時があった。このロープはそのとき使ったものだ。 『堅いロープだよねー、全然…千切れな…っ!』 『そうだねー…ふふ、これで縛ったら逃げられないね』 『怖いこと言わないでよー!?』 「あ…うあ………」 ロープを取り落とした。よろよろと家の中に戻る。あれも、これも、あれも。全部、全部。家の中のものは、カナロアとの思い出でいっぱいだ。 「うああああああああああ!!!!なんでぇ!!死なせて…早く、もう死なせてよ…おねがい……」 できない。だってこんなことしたら、カナロアが泣いちゃう。もう、私が慰めてあげられないのに。 違うんだ。慰めてほしいのは。 私のほうなのに。 私はずっと、カナロアに支えられて生きてきたのに。 なんで忘れてたのかな。 罰? これは罰なんだ。 ずっとずっと忘れてた。 当たり前のもののように、私は世界で一番大切なものを、毎日貰ってたっていうのに。 ごめんなさい。 ごめんなさい。 だからお願いです。 カナロアを返して。 それさえあればもう何もいらない。 お願い。神様。ようやく気付けたのに。 ロードカナロア。私は貴方を愛しています。 貴方なしじゃ生きられない。 生きられないのに。 お願いだから。 助けて。 …-ん。…ムーン。ねえってばー… 「っ!?!」 「うわっ!?急に跳び起きてどうしたの」 「カナロア…?なんでいるの?」 「きゅ、急にひどいこと言うなあ…今日はお昼からお出かけでしょ?昨日ムーンが言ってたのに、ここですやすや寝てるんだから」 私の眼の前にいるのは、間違いない。私がよく知ってるカナロアだった。ちょっと戸惑った顔のカナロア。 部屋はいつも通りだった。午後の光が差している部屋は、何事もなかったように平和そのものだった。 「それじゃあちょっとかかるかな?僕は玄関のところで待ってるから…」 「待って!!!」 「うあああっ!?」 立ち上がろうとしたカナロアを、私は腕を掴んで必死に引き留めた。 「行かないで!!ずっとここにいて…一人にしないで…」 「どうしたのムーン!?泣いてるよ…?」 「お願い…いかないで…」 カナロアはやがて、私をぎゅっと抱きしめてくれた。柔らかく暖かいカナロアの身体。生きている。心臓の鼓動が感じられる。 それだけで涙が溢れ出した。一度堰を切ったらもう止まらなくて、私はひたすらに泣いていた。 「うあああああああああ…うえええええええええん…」 「よしよし…大丈夫だよ…僕がずっと、君といっしょだから…」 カナロアの言葉がどんな音楽より優しくて、私は何度もいかないで、と駄々をこねて抱き着いていた。空はもう夕方になっていた。