15.最終章:凱旋門賞編 L'Arc de gloire  これまでのあらすじ  クラシック級での菊花賞、シニア級一年目での天皇賞春、宝塚記念とG1レースを三勝し、  年末の有馬記念こそ惜敗に終わったものの、同世代のスターウマ娘に負けず劣らずの活躍をしたメジロ家のウマ娘メジロファーゴ。  年も明け、偉大なる先人メジロマックイーンの後を追うように天皇賞春の二連覇へと歩みを進めようした矢先、  メジロ家がレースの世界にメジロのウマ娘を輩出することを今後取りやめるという発表を聞いてしまう。  今や、トゥインクルシリーズ現役のメジロ家最後のG1ウマ娘となったメジロファーゴ。  思い起こされたのは、幼き日にメジロのおばあさまより言い渡された”終わり”を見届けろという言葉。  受け継いできた誇り、受け継ごうとしてきた歴史に”終わり”を突きつけられた彼女はメジロ家の禁を犯すことを決意する。  それは、メジロの総帥が禁じたとされる海外遠征。目指す先は仏のロンシャン芝2400mG1レース凱旋門賞。  いずれ訪れる終わりを座して待つより、最後まで抗うことを彼女は選んだ。  メジロの新たな至宝としての地位を盤石にした春の天皇賞の連覇達成。  勢いに乗り凱旋門賞線の前哨戦にと挑んだバーデン大賞にて、ドイツのクラシック級ウマ娘デインドリーム相手の敗北。  己を見失いかけるような出来事に直面しつつも、誰かにとっての永遠となる為に走り出した日の誓いを胸に、メジロファーゴはついにその舞台にやって来た。  凱旋門賞の舞台へ……  ---  すべてのウマ娘が目指す夢の舞台『凱旋門賞』。  異邦のターフは日本のウマ娘の前に立ちはだかり、悉くその脚を怯ませていった。  それでも諦めなかった者だけが辿り着ける栄光、その勝利を歌うための凱歌。  『L'Arc de gloire』  この凱歌がいつか……彼の地に響き渡ることを願う。  ――トゥインクルシリーズ、ウイニングライブの作詞作曲者からのメッセージ。  パリロンシャンレース場。  凱旋門賞ウィークエンドの大目玉にして、世界の強豪ウマ娘達が目指す栄光の舞台、第五レース凱旋門賞パドックが迫るロンシャンレース場に黒いリムジンが到着する。  降りて出てきたのは芦毛のウマ娘、メジロ家のウマ娘のメジロファーゴ。  これまでの戦績は16戦9勝(9-4-1-1-1)。  勝ちレースは天皇賞春連覇、宝塚記念、菊花賞(GⅠ)日経賞・セントライト記念・スプリングS(GⅡ)ラジオNIKKEIステークス(GⅢ)。  容姿は長身、細身かつ細面、甘い表情で微笑めば人間の女性もウマ娘も等しくドキリとさせるであろう彼女は、並々ならぬ決意と闘志を漲らせてロンシャンレース場へとたどり着いた。   「メジロムサシ、こちらがトラブルに直面していたところを送っていただきありがとうございます」  続けて降りてきてリムジンの主に礼を告げたのはメジロファーゴに付き添っている若き青年のトレーナーだ。 「かまわんよ。メジロ家かつ、栄光の門の向こう側を目指すもの……私にとっては二つの意味で可愛い後輩のためだ」  メジロムサシと呼ばれたウマ娘はそれに応える。  かつて凱旋門賞に挑んだメジロのウマ娘、メジロムサシ。  現在のメジロの総帥の国内のレースに専念するという考えに反発して、彼女はメジロの屋敷を出た。  そして、凱旋門賞を目指すウマ娘達を生涯かけて支援することを選んだのである。  トラブルに見舞われたメジロファーゴ一行の現場に居合わせ助けに入ったのも、そうした所以からだ。 「総帥に、メジロのおばあさまに会いに行かれるのですか?」 「ああ、負けを認めに行く。正しいのはあちらで、私のやり方は間違っていたということを伝えにな。それでようやくケジメを付けられる……」  ファーゴに声をかけられて、メジロムサシは自嘲するように言葉を零した。 「私は、スピードシンボリの偉大な挑戦を人々から忘却させたくなどなかった。かの老雄には”永遠”でいてほしかった。  私が彼女に続いたように、凱旋門賞に挑戦し続けるウマ娘がいる限り、誰もが彼女を思い返す……そのことを信じ、積み重ねた蹄跡がいつか彼の地に勝利を穿つのだと挑戦を募り、希望をちらつかせて多くの者達を斃れさせた。  メジロの現在の総帥、彼女に向かって死んだ男の夢を抱いて老いて行けと罵った私自身が、同じような妄執に囚われていたのはなんと皮肉なことだろうな……」  己の歩んできた人生を悔恨するように、メジロムサシは言葉を吐き出す。 「結局、海の外への夢を見続けた私は何も遺せず……国内に夢を見せ続ける道を歩んだ向こうは、君をこの地へと送り出す余裕まであった。何より、私はこの年になるまで気付けなかったよ……夢を見続けることは、多くの人間にとって”疲れる”」  メジロムサシは自分の胸元を苦渋に満ちた表情で握りしめた。  見た目はまだ若く見えるのに、彼女はこの時だけ疲れ切った老人のようだった。 「例えば、大地を揺るがすような未曾有の災害に見舞われた時……築き上げたはずの人の営み全てが押し流されるような出来事に直面し、明日自分がどうなるかもしれぬと絶望している人々がどうして夢など抱けるだろう。  そこに希望と挑戦を煽ろうとする姿のなんと滑稽に写ることだろうか……今なら、メジロの総帥が前総帥の国内に専念せよという願いを受け継いだことの意味がよく分かる。  絶望に沈む人々の心の支えになるのは、無謀な挑戦ではなく手が届く希望、いくら時が過ぎようともそこに確かに在り続ける変わらぬ夢と憧れの姿だった。多くの人々が望む……”永遠”の姿だ」  生涯かけて自分がしてきたことは、無謀で無意味な徒労であったと彼女は長い旅路の果てに思ってしまっていた。 「私もあちらも、”永遠”を求め道を歩んだことは同じだと言うのに、私は結局、他人を自分自身の妄執に付き合わせて道連れにしてきただけに過ぎなかった。凡俗が不相応な夢など抱くものではなかったよ……時代を作り、後続に何かを託し残すことが出来るのは君のように”特別”な者達だけなのだから」  肩を落としながら言葉を吐き出し切ると、メジロムサシは顔を上げて促す。 「急ぎだと言うのに引き止めてしまったな。これから凱旋門賞に挑む君にとっては、私の夢も妄執も不要なものだ……行きなさい」 「……これは、僕の独り言です」  メジロファーゴは自身のトレーナーを伴って会場に向かいかけた脚を止めて、メジロムサシに背を向けたまま言葉を紡いだ。 「僕はメジロ家で初の三冠ウマ娘にはなれませんでした、ダービーウマ娘にもなれませんでした。これまでやって来たことは全てメジロの誰かがやって来たものだった……”特別”なんかでは、なかった」  菊花賞の制覇と第十走目での天皇賞春の制覇。人々はその様を見て、メジロファーゴをメジロマックイーンの再来と呼んだ。  唯一無二の存在になることが出来なかったからこそ、いつまでもついて回るマックイーンのようだという評判をうっとおしく思わなかったことが一度もないといえば嘘になる。  誰かのような何かではなく、自分になりたいと……ずっと思ってきた。  そして、思った所で手が届かぬ無力さも、悔しさもそれ以上に味わってきた……。 「最初に志した挑戦は全て潰えて、自分は特別でもなんでもない事実だけが突きつけられた。無力さと悔しさに膝を折って、俯いて、何者にもなれずに行先を見失ってあがく僕を照らしたのは……他の誰でもない。先を走ってきたメジロの先達と先輩方だった。  それでも見上げた憧れ達に向かって己を恥じるようでは自分ではありたくないのだと、ただ必死に、愚直に、遥か彼方にある後ろ姿と残された蹄跡をなぞって、たどっていく内に……いつの間にか僕はなっていたんだ。かつて自分も見上げていた憧れ達の一つに」  メジロのウマ娘といえばと問われた時にマックイーンより先にファーゴの名を挙げる人々が出てきた。  トゥインクルシリーズを志す幼いウマ娘達に憧れているウマ娘は誰かと問われた時、ファーゴの名前をいう子供達がたくさんいる。  昔は良かったと、過去への郷愁を誘うだけだった古い夢と憧れは、時が流れる内にいつの間にか新しい夢と憧れへと姿を変えていた。 「辿り着くまでに半ばで斃れた者達も途絶えた道も多くあるけれど、全てが僕に繋がったからこそ僕はここにいる───メジロムサシ」  振り返って、ファーゴは偉大なる先達の名を呼ぶ。 「貴方がスピードシンボリに導かれ、辿り着き歩んだ”道”もまた僕に繋がった。この奇跡と挑戦は、最後なんかじゃない。この道は、いつか誰かが来た道で……そしてこれからも沢山の人が目指す憧れと栄光への道だ!」 「……っ!」  奇妙なことに、メジロムサシはメジロファーゴの背に多くのウマ娘の姿を幻視した。  自分がスピードシンボリに憧れその背を追ったように……メジロファーゴの背を追って、これからも大勢のウマ娘が栄光の門に挑み続ける。  そんな未来を、誰もが目指し憧れる輝きを……メジロファーゴの中に幻視した。 「羊蹄山の深雪の中に降り立ったメジロの始祖達が紡いだ物語は、海の彼方向こうフランスの地で名を馳せたシェリルの走りと、誰よりも遠くへ行きたいというその心を受け継いだ者がロンシャンの地に帰還を果たすことで一度終わりを迎える……」    どこからか運ばれてきた柔らかな風が、彼女達の間に吹き抜けた。永い永いメジロのウマ娘達の物語とその旅路の終わりを祝福し、惜しむように…… 「そして、そこから始まるのは僕の……いいや、”私”が紡ぐ物語だ」  瞬間、柔らかに吹き抜けた風はやがて強くなりメジロファーゴの勝負服をはためかせた。 「メジロムサシ様。新たに紡がれる永遠の物語の開幕を、これより先は役者ではなく一観客としてごゆるりと照覧あれ。かつて、”メジロアサマ”と共に黎明の時代を照らしたメジロの二つの輝きのお二方を、退屈させることなどいたしません。開幕ベルが鳴るのを、どうか聞き逃さぬように」  そう言って、新しい白い勝負服を翻し、メジロファーゴは凱旋門賞出走を控えたウマ娘達が集う記者会見場に入っていった。  その姿と背中は、若き日の旧友の姿……メジロの総帥の姿を思わせた。 「蝦夷富士の麓(れい)降り注ぐ七光り 永遠(とわ)に刻みしその名彼方へ……か」  即興の和歌を詠み、愉快そうに笑ってメジロムサシは若者達の後ろ姿を見送った。 「メジロ家という七光りに照らされていたはずの若い娘がいつの間にか、メジロの誰よりも輝いている──なんの心配もいらないようだよ、アサマ」  かつて自分と共に、メジロの僚友同士と並び称されたそのウマ娘の名をメジロムサシは呼んだ。 「私達の夢も想いも全部あの子が継いで、繋いでくれる。かつては仲違いし、お互いに違う方向を向いて歩み、分かたれたはずの私達の道は……最後の最後に、あの子に向かって繋がっていた」  どんな物語もいつかは終わる。終わってしまう。  惜しまれようと、見向きもされなかろうと、様々な形で役目を終えて時の流れの中に朽ちていくことだろう。  けれども、いつか遠い未来で誰かが拾い上げてくれたのなら……同じ道を歩む誰かが現れて、自分の成し遂げられなかったことを誰かが成し遂げてくれるということを信じることが出来るのなら……安心して、自らの物語の幕を下ろすことが出来る。 「だから、あの子の言う通りに特等席で新しい物語の始まりを見届けてやろう。”メジロの巨人の系譜”がロンシャンの大地を均す様だ、さぞ見ごたえがあるだろうさ。お互いに全てを見届けて、舞台の上での役目を終えたのなら……私達はまた、親友同士に戻れるのかな?」  メジロムサシのその問いかけに答えるものはいなかったが、ロンシャンに吹く風は穏やかに彼女の頬をなでて行った。  ◆  第90回凱旋門賞出走ウマ娘達の記者会見会場。  世界各国から集まった強豪ウマ娘達が、付き添うトレーナー達がコメントや所信や決意表明を求められて答えていく。  歴史上数えるほどしかいない凱旋門賞を連覇したウマ娘に名を連ねるために、今年も自分は挑戦者でありたいと答えている前年覇者であるイギリスのウマ娘ワークフォース。  そして…… 「敬愛するファインモーション、そしてピルサドスキー両王女殿下に! アイルランドのウマ娘として私は祖国に勝利を齎しに来たっ!」  それに対抗するように声高らかに叫ぶのはアイルランドのウマ娘、セントニコラスアビー。 「伝統と文化、つつしみと礼儀。私達が誇れるものは確かに多い、だが自己満足に陥って多様性を否定すると成長も進歩もなく時代に取り残されてしまう……日本でエリザベス女王陛下の名を関したレースを制覇して来たからこそ。私はこの言葉を肝に命じておりますわ」  彼女達に挟まれて氷の女王のごとく冷たい視線を放っているアイルランド出身で、イギリスのトレセンに所属しているウマ娘スノーフェアリーがいた。 (あれがスノーフェアリーさん。昨年日本のエリザベス女王杯を蹂躙した雪の妖精にして、トリプルティアラウマ娘アパパネさんをあしらった女傑。まるでアンデルセンの”雪の女王”みたい……)  バ場の違いをもろともせず、”すんごい脚”などと呼ばれるほどの恐ろしい末脚を繰り出して日本のティアラ路線ウマ娘達を破った海外からの刺客の姿に畏怖を抱いたのは日本のウマ娘ヒルノダムール。 「ふうん、ではスノウ。日本のウマ娘をよく知るであろう君に今年もやってきた挑戦者達になにか言うべきことはあるかい?」 「少しばかり長い怪我と療養で、凍てついた私の心を熱くさせてくれることを期待しておりますわ。相手がどこの国のどなたであろうと、張り合いがないのはつまらないですもの」 「ゲルダの涙が溶かしてくれるのは少年の心だけだものねぇ、寂しい女王様の心を溶かすのはレースだけと」 「……何か? 仰りたいことがあるのでしたら言ってみてはどうですか? デインドリーム」  スノーフェアリーは茶々を入れてきたデインドリームをじろりと見つめた。 「ふんっ、じゃあよく聞きなさい。本バ場入場したら私が一番にゲートに入ってやるから、あんた達はゆっくり準備をしてくるといいわ。一番先にゲートに入るのは私、そして一番先にゴール板を駆け抜けるのも私よ!」 「おやおや、ドイツのリトルプリンセスが早く我々と踊りたいと駄々をこねているぞ。誰が彼女をダンスホールの中央までエスコートしてさしあげる? こちらはごめんこうむるけどね」  ワークフォースが冗談めかして言うと、周囲に失笑の声が上がった。 (みんな口も性格も悪っ!? 欧州ってこんな感じなんですかナカヤマ先輩!!) 「……」 (こっちもこっちでなんかそういう雰囲気じゃない……)  物憂げな顔でスミレの花を眺めているナカヤマフェスタの姿にヒルノダムールはこちらに助けを求めても無駄だと悟った。 (早く来ないかなぁ……ファーゴさん。この世界対抗の嫌味の応酬に日本勢代表として毒気を抜かれるようなお利口さんで無難なコメント一つでもして場を白けさせに来て欲しいのですが……)  胃がキリキリ痛むような気持ちを味わいながらヒルノダムールは心の中でこの場にいないメジロファーゴの到着を願った。      ───主役は遅れてやってくるとは、誰が言ったのか。  その芦毛のウマ娘は当然のように遅れて、この場に姿を表した。 「メジロファーゴだ、メジロファーゴがようやく会場に来たぞ」 「うおっ、新しい勝負服だ……白いな」 「遅れてくるなんて珍しいな、何かトラブルでもあったんだろうか」  メジロファーゴはどよめく人々を見回し、記者達の質問に答えるために席についている出走ウマ娘達の姿を認めると、彼女達の方に向かって歩き出した。 (来たなっ! 日本勢の大本命!)  記者会見場に姿を表したメジロファーゴを見て、密かに興奮したのはワークフォースだった。  昨年ナカヤマフェスタ相手に僅差まで追い込まれたこの凱旋門賞前年覇者は、そのナカヤマフェスタ相手に勝ち越し続けているファーゴが来ると聞いて楽しみにしていたのである。  ファーゴを破って見せることで、自分の強さがより揺るぎない形で証明されるからだ。  欧州と日本のウマ娘での強さの比較が難しくなる要因の洋芝のバ場適性の有無についても心配はいらない。ドイツのレース場の重バ場で二着に入れるほどの能力があって適正がないということはないだろう。 (ここは遅れてきた彼女を寛大に出迎えて度量の大きさと余裕を示すとするか……)  大げさに立ち上がって、ワークフォースは出迎えようと何か言いかけたが、それよりも先にファーゴが言葉を発した。 「デインドリーム」  不意に発したその言葉は、先ほど周囲から失笑を買っていたドイツのウマ娘デインドリームの名。  遅れたことへの謝罪や釈明もなく、そして多くの強豪を差し置いて、何故真っ先にデインドリームの名を呼んだのか……意図を測りかねて、首を傾げる記者達や群衆に構わずメジロファーゴは、会見席の中央に向かって歩きながら続ける。 「シャレータ、スノーフェアリー、ソーユーシンク、セントニコラスアビー、メオンドル、サラフィナ、シルヴァーボンド」 (あの芦毛の日本ウマ娘、何をしている? 突然名前を言い始めた?) 「ガリコヴァ、ヒルノダムール、ナカヤマフェスタ、ワークフォース、テストステロン、トレジャービーチ、リライアブルマン、マスクドマーベル……」  ここまでされてようやく、周囲はメジロファーゴがやっていることを理解した。 (ウマ番号順というわけではないようですが……これは、自分以外の全員の名前を言っている?)  そう、あの当然のように遅れて姿を表した芦毛のウマ娘は自分以外の凱旋門賞出走ウマ娘全員の名を読み上げているのだ。  メジロファーゴは名前を読み上げる度に出走ウマ娘一人一人の顔を見ていき、自分以外の全ての出走ウマ娘の名を読み上げ終えてから…… 「……」 「何よ?」  最後にデインドリームをもう一度見て、メジロファーゴはマイクを持って記者会見場の全員に向かって話しかけた。 「紳士淑女の皆様、そして出走ウマ娘の方達。所用があって会場入りが遅れてしまったから、僕のレースへ決意表明は手短に───」  一呼吸置いて、メジロファーゴは出走ウマ娘全員に向かってこう口にした。 「───君達が、今日僕のバックダンサーを務めてくれるウマ娘達なんだろう? よろしく頼むよ」  場が凍りつく。 「La victoire est à moi.(勝つのはこの僕だ)ちゃんと、センター以外の振り付けは覚えてこれたかい?」  呆気にとられたもの、一瞬何を言われているのか理解しかねたもの……しかし、次の瞬間には彼女達はそれぞれの国の言語で、同じ意味の言葉を発した。 「「「「調子のんなっ!!!」」」」  英語、アイルランド語、仏語、独語での怒号が一斉に飛んだ。 「無難なコメントで白けさせるどころか火に油ぁっ!!! 私達もバックダンサー呼ばわりですか、この頭メジロマックイーン!! 全身メジロ!!」  メジロファーゴの過激な所業にヒルノダムールも叫んでいた。 『誰よりも遠くへ』  時は満ちた   永きに渡る序曲は終わり  終止符を打つための戯曲が流れ出したのだ  先達が敗れては散りまた目指し   無謀だと言われ続けたその物語の大団円  観衆達よ、開幕ベルを聞き逃すな   栄光の門への道は今拓かれた  我が征く先はその向こう  遥か彼方にある  ──URA「名ウマ娘の肖像」メジロファーゴ  第十四話、L'Arc de gloire  終  ---  1.序章 The Last line  かつて、日本で格式のあるレースを制したウマ娘がいた。  やがて彼女は自身を導いたトレーナーと結ばれたが、彼は共に栄光を掴んだ妻よりも早くこの世を去ってしまう。  彼が死の際に妻に言い残したことは唯一つ、『私達の子や孫、一族で天皇賞を勝て』  その日から、彼女とその一族にとって天皇賞は特別なものとなった。  メジロの高祖と呼ばれるウマ娘の伝説より  菊花賞、宝塚記念、そして天皇賞春の制覇を成し遂げたメジロファーゴは同世代のスターウマ娘にも負けず劣らずの注目を受けていた。  ここの所、有力な競争ウマ娘の輩出という点でやや不振が続いていたメジロ家が再び快挙を成し遂げたということもあり…… 「今年の天皇賞春での連覇は視野に入れているのですか?」 「今年の秋天にも出られるんですよね!?」 「年末有馬! 年末有馬! 年末有馬!」  このようにファーゴの元に今後の出走予定について、かかり気味の無許可記者達からの取材が連日舞い込む始末である。  G1を3勝するほど場数を踏んだとは言え、ファーゴは期待がかかると緊張してしまうのか差し切るためのキレ味がにぶるとという弱点を抱えている。  あまりこういった世間の熱気に過度に触れさせたくはない。 「先だって申し上げている通り、本人の希望と体調次第で今後の出走予定を決めるつもりです。それと、取材は事前に許可を取るようにしてください」  いい加減記者達には怒鳴りたかったが、ファーゴの手前そんなことをするわけにもいかない。  記者達には引くつかせた笑顔で丁寧に応対して、退散させた。 「今後の展望かぁ……」 「トレーナーさん、これから子供達に会うんですからあんまり難しい顔はしないでくださいね?」 「あぁ、すまない。次の予定は競争ウマ娘に憧れる子供たちとのふれ合いイベントだったかな? それもメジロ家全員で」  メジロ家のリムジンに乗り込んで一息をついているとファーゴがたしなめてくる。 「はい、あんまり怖い顔だとこれから向こうで合流するドーベルも怖がってしまいます」 「それは気をつけないと、君のお嬢様に失礼がないようにするよ」  ⏰テケテケテケテン(場面転換のアレ) 「あ、めじょふぁーごだ! あくしゅしてください!」 「はいどうぞ、それと”メジロファーゴ”だよ」 「つぎのレースもおうえんしてるから、がんばってね! めじょふぁーご!」 「ありがとう、それと”メジロファーゴ”ね」  イベント会場にたどり着くと子供達に囲まれてわいのわいのと握手を求められるメジロファーゴ、  別のところで子供達に囲まれているメジロマックイーンも”めじょまっきーん”などと呼ばれてその都度”メジロマックイーン”と訂正している。 「僕調べだと”まっきーん”よりファーゴの方が子供には言いやすいみたい。マックちゃんに勝った!」 「そこ、張り合うところなんですの!?」  どうもあの二人の間には運命的な何かを感じる。思えば勝っているG1レースもそっくりで、ファーゴのことをマックイーンの再来だの後継者だのと呼ぶ声もあるらしい。  このまま天皇賞春を連覇しようものならばますますそのような声が強まるだろう。  確かにメジロマックイーンはファーゴにとっては偉大な先輩ウマ娘で、同じメジロ家である以上ずっと比べ続けられる存在だ。 「みんなー、あっちでドーベルお姉さんがお遊戯ピアノを演奏してくれるよー。一緒にお歌を歌いたい子は僕についてきてね」 「きゃー! ふぁーごさまー!」  だから、メジロファーゴがメジロマックイーンの再来ではなく、”メジロファーゴ”という個として歴史に名を刻むのであれば、彼女を超える実績を叩き出さなくてはならない。  となれば、記者達にせっつかれずとも今後のレースの展望もおのずと決まってくる。マックイーンが成し遂げられなかった天皇賞の春秋連覇あるいは天皇賞春の三連覇。  ここに焦点を当てて今後のトレーニングメニューやレース計画を組むべきだ。  早速思い浮かんだアイディアをメモしようとスマートフォンを取り出すと、指を滑らせて誤って開いたニュース一覧から目を疑う文面が飛び込んできた。 『メジロ家、競争ウマ娘界からの撤退を示唆!? メジロ家最後のG1競争ウマ娘となるメジロファーゴの動向に注目が集まる!』  一体、どこの記者か出版社がこんな飛ばし記事を広めたんだ?  ファーゴに気取られぬように、イベント会場から抜け出し急いでたづなさんに連絡を取りにいった。  ◆  メジロ家はメジロファーゴを最後に競走ウマ娘界から撤退する、今後もURAへの支援とレース文化の振興協力は続けるが、  メジロ家として競争ウマ娘を排出し、G1レースを制するという形で貢献していくことは今後はなくなっていく。  耳目を疑うようなそんな知らせは、世間を駆け巡り、やがてトレセン学園にも確かな事実としてファーゴの耳にも届いてしまった。 「……トレーナーさんは知ってたの?」 「事実なら当事者のファーゴが知らないわけがないだろう? 最初に聞いた時はデマかなにかだと思ったんだ」  たづなさんにも連絡を取り、理事長にも問い合わせ、メジロのおばあさまが公式メディアでそのように発表したことの確認が取れてしまったのだ。 「マックイーンやライアンも、ドーベルも、ラモーヌ様でさえも、みんな寝耳に水。おばあさま、最近はよく体調を崩しているとは聞いてはいたけれど……」 「体調悪くして気が弱くなったりしたのかな?」 「だからって軽々しくそんなことを言う人じゃありませんよ……何か、理由があるとは思います」  二人で考え込む。ファーゴが初めて天皇賞を勝った時のことは覚えている、トレーナーにすぎない自分のところに来て、ありがとうございますと頭を下げて、 『ずっと受け継ぎ紡いできたメジロの歴史の果てにこの様な光景を見ることができて、”もう思い残すことはありません”』と (オーバーな言い方だなとは思っていたけど。もしかして、あの時にはもう既に……?)  思い返しているとファーゴにも思い当たる所があったのか、口を開いた。 「トレーナーさん。僕は昔、おばあさまからから言われたことがあるんです。メジロのウマ娘はおばあさまに資質を見られて、  磨くべき何かを告げられることがありますが、僕だけが、おばあさまと僕以外の誰もいない所で伝えられたものがありました」 「それは?」  ファーゴは思い出すように目をつぶって言った。 「『ファーゴ、あなたは終わりを見届けなさい』と……」 「終わり?」 「聞いた時は、意味がよく分かりませんでした。だから、そう言われてから言われた通りに色んなものの終わりを見るようにしました。  長年続いてきた物語の終わり、季節の終わり、歴史の本にも記されている国や人物の終わり……。そうした中で感じ取れたことは、全てのものはやがて、終わりを迎えるということ。  栄華を誇ったものは、いずれ衰退していく。メジロ家も同じだ、それを見届けろと……そうおっしゃりたかったのでしょう。」  違う! と軽はずみに否定することはできなかった。  客観的に見れば、メジロ家にはかつてほどスターウマ娘が出ていないという現状が何よりの証拠。  ファーゴが出てくるまではメジロ家最後の輝きとまで言われていたメジロブライトがレースの高速化という壁に悩まされて久しい。  もし今この世代と時代に”ファーゴがいなかったら”という仮定は……考えたくもない。 「メジロ家も僕自身もいずれは終わりを迎えます。終わりを見据えた上で何をするべきか……問うているのですね、おばあさま」 「ファーゴ?」 「トレーナーさん、記者会見を開いてください。今後のことを、決めました!」  突然のことに多少戸惑ったが、言われた通り記者達を集めて会見を開いた。  今世間を騒がせている時の人ということもあって、あっという間に記者達が集まり、ファーゴの言葉を待っている。 「メジロ家撤退についてはご存知だったのですか!?」 「今後の出走予定が決まったというのは本当なんですか!」 「有馬記念有馬記念有馬記念」 「うちのファーゴが喋ろうとしてるんでちょっと黙っててもらえます?」 「「「ア、ハイ……」」」  最近見かけた気がする記者共を半ギレ気味で黙らせてファーゴの言葉を待つ。  彼女が何に出走するのを決めたのかは自分でさえも知らない。  ただ、どんな無茶苦茶を言い出したとしても、トレーナーとして支えるつもりだ。  天皇賞春二連覇からの秋シニア三冠ぐらいまでなら予想の範囲内だ。それぐらいのことなら驚かないぞ! 「今後の出走予定のレースの発表を聞いていただきたく、今回は皆様に集まっていただきました。コホン……先ず私、メジロファーゴは今年も天皇賞春の制覇を目標とし、連覇を目指すつもりです!」 「おぉ……! やはり、メジロマックイーンの後を追うような!」 「そして、その後は仏のロンシャン2400mG1、凱旋門賞に出走を目的とした海外への遠征を行います」 「えぇーっ!?」  こっちもえぇーっ!って言いたい! 今の自分は記者達と同じ顔をしているだろう。  流石は記者達ですぐに立ち直り質問をまくし立ててくる。 「メジロ家は伝統的に国内のレースに専念する方針では!?」 「海外に挑戦したという前例はメジロにもあります」 「海外遠征の失敗以降、メジロの総帥が海外遠征を禁じたという話もありますが……」 「無論、存じ上げております。分かった上でその禁を破ろうというのです。  伝統や誇りを軽んじているという批判も当然あるものと思っていますが……”最後のメジロ”などと呼ばれることになったウマ娘がそういう規範や伝統をぶっこわす所、  みなさんも見たいでしょう?」 「「おぉ……」」  素行が模範的な彼女がいたずらっぽく笑いながら過激な言葉を使ったのは非常に関心を集めたようで、  その後も続く様々な質問にも淀みなく答えて、メジロファーゴの記者会見は終了した。 「というわけで、先ずは直近の天皇賞春を勝つトレーニング計画を練ってくださいね? トレーナーさん。  ここで躓くようなら僕には伝統を壊す資格さえ手に入れられないのですから」 「驚きはしたけど、任せとけ!」 (おばあさま、あなたが示した”終わり”に対する僕の答えはこれです。いずれは終わってしまうものだとしても、僕は終わりからまた新しく始めるでしょう。  ラストライン         エ ン ト ゙レ ス ラ イ ン  終末に向かって歩くよりも、終わりなき永遠の果てに向かって駆けていくことを、ファーゴは望みます)  無謀な挑戦を宣言してのけた彼女がメジロの高祖にも劣らぬ存在として歴史に名を刻むことを、今は誰も知らない。  2.天皇賞春連覇編 前編  これまでのあらすじ  菊花賞、天皇賞春、宝塚記念とG1レースを三勝し、年末の有馬記念こそ惜敗に終わったものの  同世代のスターウマ娘に負けず劣らずの活躍をしたメジロファーゴ。  年も明け、偉大なる先人メジロマックイーンの後を追うように天皇賞春の二連覇へと歩みを進めようした矢先、  メジロ家が競争ウマ娘界への選手への輩出を今後取りやめるという発表を聞いてしまう。  今や、トゥインクルシリーズ現役のメジロ家最後のG1ウマ娘となったメジロファーゴ。  受け継いできた誇り、受け継ごうとしてきた歴史に”終わり”を突きつけられた彼女はメジロ家の禁を犯すことを決意する。  それは、メジロの総帥が禁じたとされる海外遠征。目指す先は仏のロンシャン芝2400mG1レース凱旋門賞。  最後のメジロとなってしまうのならば、今こそその禁を破る時!  ラストライン          エ ン ド レ ス ラ イ ン  終末に向かって歩くよりも、終わりなき永遠の果てに向かって駆けていくことを彼女は選んだ。  ---  恐るるべきはいずれ訪れる虚無の闇ではなく、今この時に輝けぬこと。  星でさえいずれ燃え尽きると知りながら輝き続ける。  不確かな未来に竦んだ脚と覚悟では、ターフに勝利を穿つことは出来ない。  一度でも退くことを覚えた脚は、踏み出さねばならぬ時でさえ竦んでしまうのですから。  ──メジロアルダン 『マックイーンは長距離を走りなさい。ライアンは末脚のキレを、パーマーは根性を磨きなさい。  ドーベルは心の強さを、アルダンは覚悟を磨きなさい。そして、ブライトは……』  幼き日のことだ。  メジロ家の中でも特におばあさまに目をかけられた何人かが一同に呼び集められた。  それぞれがこれから磨いていくべき資質をおばあさまから告げられていく。  驚いたのは自分がこの場にいるということ。だって、僕自身はそこまでメジロ家お抱えのトレーナー達から期待されていたわけでもなかったのだから。  マックイーン”様”もライアン”様”も雲の上の方。自分がこの中の末席に加わっていることが不思議でならなかった。 『以上です』 『あの、おばあさま。そこにいる子には何も?』 『マックイーン、あなたは皆を連れて退室を。ファーゴにも私から話があります』  突然僕を残して全員で退室するように命じられたマックイーン様は怪訝そうな顔をしていたが、「かしこまりました」と応えて皆を引き連れて部屋を出ていった。  あとから僕とおばあさまだけが残される。わざわざ人払いをしてまで、一体何を告げられるのだろう。 『ファーゴ、皆のことは覚えましたね? あの子達が高祖様と三女神がメジロ家に遣わした新しき光の子達。これからメジロ家を背負う優駿達です』 『はい』 『そして、その末席にあなたも加わることとなります。精進するように』 『謹んでお受けいたします』  どうやら、おばあさまには僕にはよくわからない物が見えているらしい。  これまで特段見るべきものがなかった僕をわざわざ指名して、あの方々の末席に加われという。  だからといって、疑問を呈する理由もなかった。  そうしろ、というのならそうするだけのことだったし、故は分からずとも評価されているということは喜ばしいことだったからだ。 『では、ファーゴ。あなたにも伝えるべきことがあります』 『はい』 『ファーゴ、あなたは”終わり”を見届けるように』  おばあさまから僕に告げられたのは、意図も意味もはかりかねるものであった。  流石に意味がわからないまま頷くのもどうかと思い聞き返す。 『おばあさま、終わりを見届けろとはどういうことなのでしょう?』 『それは、あなた自身が考え決めなければ意味はありません』 『……わかりました』  いささか納得しかねるものがあったが、一礼してそのまま退出した。  その日以来、僕の”終わり”というものへの知見を深める日々が続いた。  おばあさまに言われた”終わり”というものを理解するために、幼き日の僕はメジロ家の書斎に入り、本や歴史を紐解いていく。  爺や、ばあや達に許可を取り書斎に入り浸り、物語や歴史を紐解いていくと、それらには様々な”終わり”が示されていた。  それらを見るたびに胸のうちには寂寥ばかりが募っていく。  人が営みの中でいくら偉業を成し遂げようとやがては忘却の彼方に消える。  国がいくら興ろうとも残るのは山河だけ。夜空に輝く星でさえ燃え尽きてやがては宇宙の塵と消えていく。  結局は何も残らない……本当に訪れる”終わり”とはそういうものだった。  おばあさまは、何を思ってこんなものを見届けろと僕に言ったのだろう……。  何かしらの答えが欲しくて、書斎に入り浸っている間に顔なじみになっていたメジロアルダン様に僕はある日、問うた。 『アルダン”様”、不躾なことと思いますがお聞きしたいのです。何事も最後には終わりを迎えると知っていて、何故ヒトは抗おうとするのでしょう。結局は、無意味ではないのですか?』  アルダン様は僕からの突然の問いかけに驚いたようにみえたが、少し考える素振りを見せてから答えた。 『ファーゴ、私には遠い未来のことは分かりません。それを見届けることすら叶わぬかもしれないこの身体ですから……』  憂いを満ちた表情で胸に手を当て、答えるアルダン様の姿に僕は後悔した。  身体が弱く、僕よりずっと”終わり”が近い彼女にこんな質問を投げかけるのはあまりにも残酷だったかもしれない。  すぐに謝意を伝えて立ち去るべきかと思いかけた時、強い意志を持つ瞳で彼女は言葉を続けた。 『望む望まないに関わらず、私達の誰もが遠き未来のことは何者かに託さねばなりません。なればこそ、今この瞬間だけは私達のものだと、そう思います。  未来を作るのは今この時を生きる私達の行いであり、例え後世において無意味無価値だと断じられようと、自らの行いの意味と価値を証明し続ける。  それが、生きるということ。それが歴史に名を刻み続けるということなのだと。私はそう思います』  アルダン様の答えに、僕はおばあさまとの言葉を思い出した。『それは、あなた自身が考え決めなければ意味はありません』  自らの行いに価値を与え、意味を見出すのは余人の決めることではなく、他ならぬ自分達自身だと。この方はとうに答えを出していた。  終わりを見届けろと言った、おばあさまの言葉の真意は未だに分からないけれど……この時、幼き日の僕の心にぼんやりと灯った小さくも確かな想いがある。  ──この素晴らしい方達を、メジロを歴史から忘れさせたくない。  ほんの一瞬でも永く歴史に刻まれ続けるように、この身体に流れる血と受け継いだ走りを以て彼女達のことを語り続けなければならない。語り継がなければならない。  ”アルダン”とのこの日の邂逅こそが、僕がメジロ家のメジロファーゴになった日だった。  どうせ、最後には全てが滅びてしまうのならどうでもいいという考えは、何も愛していない世捨て人の考えだ。  遠い未来にやがては訪れる虚無と滅びに想いをはせるよりも、今やるべきことがある。  いずれ訪れる終わりを座して受け入れるも、最後まで抗うのも結末は同じであるのならば、命ある限り駆けるべきだ。  歴史に自らを刻めと、彼女に教わった。  ──メジロファーゴ  --- 「今年もやってまいりました、春の長距離G1天皇賞春! 現役最強の名を勝ち取るのは誰か!  出走するウマ娘達の紹介をしていきましょう!」  ここは京都レース場。  いよいよファーゴの天皇賞春の連覇をかけた戦いが始まろうとしていた。  京都レース場に実況の赤坂アナウンサーの声が響き渡り、パドックに現れるウマ娘達の紹介を行っていく。 「一番人気、トゥザグローリー。二番人気、ローズキングダム。そして、三番人気、メジロファーゴ。  バ体重は前年の天皇賞春を制覇したときと同じ、気合は十分。前年の覇者の意気込みが伝わってきます。  続きまして四番人気エイシンフラッシュ(※ヘロドバースではファーゴが存在するので史実より下にずれる)……」  ファーゴの紹介の後にも、続々と今回の出走ウマ娘達の名が呼び上げられていく。錚々たる顔ぶれだ。  人気という形で始まる前から格付けがされているようにも見えるが、始まってしまえばそんな前評判など関係はない。  一番人気から最低人気までの全員に勝利の目があるのがレースというものであり、集ったもの全員が並大抵のウマ娘ではないのがG1レースというものだ。 「しかし、メジロファーゴですが前年の覇者が三番人気とはやや振るいませんね? どう思いますか解説の細江さん」  出走ウマ娘達のパドックでの状態と衣装のお披露目とが終わると実況の赤坂アナが解説の細江女史に問いかけていた。  走る前じゃコンディションと人気ぐらいしか話題がないとは言え、人気人気とうるさいな全く。  前年覇者が三番人気だっていうならスペシャルウィークとやりあった時のメジロブライトだってそうだったろうがよー! えー! 相手も悪かったけどよー! と思わず口汚くなってしまいそうだ。  そもそも人気システムはあくまでファンから期待か応援されているかの度合いであって、ウマ娘の実力をそのまま示すことはあんまりない。  それでもファーゴの同世代にいる”絶景”の異名を持つ愛嬌のあるウマ娘のようにG1戦線で勝ち負けしながらも一番人気を継続し続けるバケモノのような子もいるのだからわからない。  ……少々人気システムについて毒のある言い方になったのは、うちのファーゴはもっと大人気でもいいのにレース観戦に来ている競争ウマ娘ファン共は目ん玉にビー玉詰めてんのか!  というトレーナーとしての私怨が八割ほどだと弁明しておく。  もっとも、人気した所でファーゴは何故かそういう時に限って末脚のキレが鈍るのでそれはそれで悩みのタネでもあるのだが……大丈夫かなあ今回。 「メジロファーゴは、前走では勝利しましたが、判定からの僅差での勝利でしたからね。先っちょだけよりしっかり中まで入れてほしかった。  そんなファンの気持ちが人気にも現れているのかもしれません」 「……なるほどっ!」  そうやって悶々と逡巡している最中で、ふと聞こえてきた最低な言い回しのせいか、熱を持ち始めた頭が一気に冷えた。  解説の細江女史はウマ娘達のレースの解説によくお呼ばれするのだが、時々際どいことを抜かすのが欠点だ。でも、今だけはちょっとだけ感謝しよう。 「あのおばちゃまはさあ……」 「どういう生活してたら女性の口からああいう発言がサラッと出てくるんだろう」 「女性を一昔前のバリバリの男社会に放り込んで適応させるとああなる」 「悲しきモンスター……」  さて、今の自分が一観客であれば通りすがりの彼らの会話に同意したいところだが、自分はファーゴのトレーナーである。  地下バ道に移動して本バ場入場前にファーゴに声をかけにいかねばならない。  関係者用の移動経路を駆使してやっとこさと地下バ道にたどりつくと、自分以外のトレーナーとその担当ウマ娘達何組かを見かける。その中でも特に鹿毛のウマ娘が目についた。 (あの子はヒルノダムール、八番人気(※ヘロドバースではファーゴが存在するので下にずれる)の子だったか。少しだけ気になるな)  レースに出走するウマ娘達のデータはファーゴにも伝えるために頭にも入っているが、彼女のことはマンハッタンカフェが気にかけていて教えを授けていると聞く。  師匠と弟子の関係を親子関係にも例えるのなら、もし彼女が天皇賞春を制すれば”親子制覇”といった所であろうか。  だがこちらもそれは同じこと。こちらにもマックイーンとファーゴの天皇賞春の”二代連覇”。そして同一G1を制覇するという偉業がかかっている。  ファーゴの凱旋門賞出走を目的とした海外遠征の為に、なんとしても勝ってはずみをつけなければならない。 「トレーナーさん! ここですよ!」  ようやく愛バの姿を見つけた。メジロ家のカラーの勝負服が相変わらずよく似合っている。  ほんの少しヘソが出るように着崩しているのは、メディアには公にしていない隠された意図がある。 『デザイナーから提出された勝負服デザインのイメージ図だとヘソは出てないが、ファーゴは着崩してヘソを出したいと……着る本人の希望が第一だけどなにか理由があるのかな?』 『ええと……ほら、僕って油断するとすぐ美味しいものをパクパク食べてお腹が出ちゃいますから。G1レースに出る時には完璧に仕上げるぞって決意のつもりで、あえてお腹が出るようにしようかなと』 『ああ、そういう……』  とまあ、こんな感じのやりとりをかつてしたことがあった。この時の決意の宣言通りに昨年の日経賞では体重調整でやらかしたが、勝負服を着ることになる最初の天皇賞春の制覇時には戻すことが出来た。  そして今年は前走の日経賞でも万全の態勢で望み、そのままベストの体重をキープしたままこれからの出走に望む。 「今回はバ場状態があまりよくなさそうだ。良バ場で開催されたと比べてゆったりとしたペースになるとは思う」 「はい!」 「それと、前年覇者をマークしないやつなんかいないからな。周りからはかなり警戒されると思うべきだ」  トレーナーとして、思いつく限りのアドバイスをしていく。 「それと……ファーゴ?」  ふと、違和感を感じて顔から視線を落とすとファーゴの手が震えている。  さっきからやけに元気に返事しているなとは思ってはいたが……緊張をから元気で誤魔化していたのか。 (しくじった……もっと早く気づくべきだった。この状態で”前年覇者をマークしないやつはいない”なんてプレッシャーをかけてどうするんだ)  緊張するのも無理もない。望もうが望まれまいが、この娘の双肩にメジロ家のことがかかってしまっているのだ。  メジロ家はもう、競争ウマ娘をトゥインクルシリーズにこれ以上送り出すことはないという事実上の解散宣言を出し、現役のファーゴは否が応でも注目される。  普通ではない状況に置かれた時、ヒトは平気なつもりでも知らず知らずのうちにおかしくなるものだ。こういう状態は自覚がなく、他人から気づかれにくいからなおさら性質が悪い。 「少々よろしいでしょうか?」  どうやってファーゴを普通の状態に戻そうかと思案していると声が聞こえた。  振り返ればガラスを思わせる青鹿毛のウマ娘、メジロアルダンが立っている。 「アルダン? 他のメジロ家のみんなは?」 「ここでは呼び捨てはダメですよファーゴ。マックイーンは入院しているおばあさまに付き添っていますが、他の皆は観客席にいます」 「そう、なんだ……それで、アルダンはどうしてここに?」 「えぇ、パドックでの貴方をみて、忘れ物をしているように見えたので届けに来ました」  忘れ物? ファーゴ共々何を忘れたのか首を傾げたが、メジロアルダンはファーゴに歩み寄ると、  ファーゴの手を取って自分の胸に当てた。 「私はかつてのように駆けることはもはや叶いません、あなたの苦悩を背負うにも、あまりにも頼りないことでしょう」 「アルダン……」 「ですが、思い出してくださいファーゴ。あなたの双肩にのしかかっているのは重荷だけではないはず。メジロの歴史は、  今生きているものを縛るものではないということを、貴方は分かっているはず。構わず、安心して遠くにお行きなさい」 「……そんなに遠くには行けないかもしれないよ」 「ええ」 「遠い彼方の景色も、そんなにいいものじゃないかもしれない。それでも、みんなは着いてきてくれるのかな……っ」 「みな、覚悟はできています。連れてお行きなさい、ファーゴ。私達を、メジロを」  そこまで言うとメジロアルダンはファーゴから離れた。こちらに一礼して去っていく。 「トレーナーさん、僕は勝ってきます。まだ旅立ってさえいないのに、こんな所で竦んでいるわけにはいかないですから!」 「あぁ! 行って来い!」  意志と覚悟のある瞳に戻ったファーゴの姿を見て安心した。ああ、そうだ……俺達はこれから旅立っていくんだ。忘れ物があっちゃいけないよなファーゴ。  憂いと恐れは置いていき、覚悟と想いだけを持って行く。 (行ってくるよ。アルダン……みんな)  ファーゴが本バ場入場していく。  間もなく、京都レース場芝3200m、天皇賞春が始まろうとしていた。  3.天皇賞春連覇編 後編  これまでのあらすじ  いよいよやって来た。二度目の天皇賞春、連覇をかけて出走に望むメジロファーゴ。  相手は綺羅星の如く輝くウマ娘達。竦む脚、勝てぬかもしれぬという恐れ……。  そんな彼女に闘志を取り戻させたのは、幼き日メジロ家の屋敷にて親しんだ、顔なじみのメジロアルダンであった。 「貴方は一人ではない、私達の心も連れてお行きなさい」  アルダンとメジロ家の想いを受け取ったメジロファーゴは京都のターフに降り立った。  すべては、斜陽から夜の帳を迎えようとするメジロをその先へと連れてゆくために……  ---  いよいよ始まろうとしている天皇賞春。  ファーゴが本バ場入場するのでファーゴのトレーナーである自分も観客席へと移動した。  見ると、なんだか見覚えがあるようなないような青年二人が話している。 「春の天皇賞は3200m、もっとも距離の長いG1レースだ。ステイヤーとしての適性が非常に問われると言って良い」 「どうした急に」 「前年覇者のメジロファーゴは前走は日経賞、今年は阪神レース場2400mで開催(※2011年においては震災の影響で阪神開催だったと思われるので)と  京都レース場の3200mとは当然だが距離も含めて全く違うコースだ。  マックイーンの再来と世間では言われても、マックイーンのように阪神大賞典の阪神3000mに出ていないという点において、ローテーションがあまり参考にならない。  彼女がメジロマックイーンのような役者足り得るのか、真価が問われることになるだろう」  早口になって喋っている眼鏡の男の見解はトレーナーとしても参考になるので近くで聞き耳を立てることにした。 「でもそれは、上位人気勢全員に言えることじゃないのか? トゥザグローリー、ローズキングダム、エイシンフラッシュ。みんな前走や出走しているレースのほとんどが中距離だ」 「つまり今回のレースにおいてはほとんどの出走ウマ娘にとって長距離のレースは未知の世界だ、人気こそトゥザグローリー、ローズキングダム、メジロファーゴの三強という形で表れたが、  菊花賞を走ったことのあるヒルノダムール、阪神大賞典を走ったナムラクレセント、この二人の動向から目を離してはならない」  あいつ、レースの分析の話しになると。  それはそれとして、彼は自分がファーゴのトレーナーとして彼女に伝えたデータと予想のほとんどに自分の見解だけでたどり着いているようだ。  彼の意見に少し補足するなら長距離戦が未知の領域となるウマ娘が大半である以上、全員が慎重にレースを運ぶであろうから、  おそらく展開はゆったりとしたものになり、そうなれば前を走っている先行勢有利となる。  よって、前目につけようと先頭の入れ替わりが激しい展開が予想される。  セオリー通りに考えればスローペースは脚質が差しのファーゴにとっては望ましいとはいえないが、周りがポジション争いに終止して疲れてくれればチャンスはある。  レースに絶対はないのだ、今日まで身につけたことを出し切れば勝てると自分は信じている。  ファーゴはマックイーンの再来と言われているが、似ているのは勝っているレースだけで走り方も勝ち方も全く違う。  あの子がメジロ家において特別であった由縁は……近年高速化した日本のレースにも最初から適応できていたという点だ。  今でこそステイヤーとしての名声の方が高いが、クラシック級でスプリングSに勝利していることから元々はマイルよりの中距離適正のウマ娘であった。  そこに、後からスタミナとパワーを重視するメジロの走りを身につけることで長距離にも適応した。  新しきものに古きものは追いやられていくことはあれど、決して消えることはない。  消えゆく様にも見える古いものはカタチを変え、新しいものを取り入れながら残り続ける。  新しく生まれたものとて同じこと、古いものを取り入れながら更に進化適応し、その先へと進み続ける。  その生きた証明があの子自身だ。 「勝ってくれよ、ファーゴ……!」  出走ウマ娘達がゲートに入っていく、やがてファンファーレが鳴り響き……レースがスタートした。  ◆  《本日のメインレース天皇賞春──各ウマ娘、これからスタンド前に入っていきます。ここでコスモヘレノス、ゲシュタルトに並びかけてハナを奪いました!  コスモヘレノスがリード二馬身三馬身四馬身と差を広げていきます。ここでトゥザグローリーが二番手に並びかけてくる。  外から上がっていくのはコスモメドウ、マイネルキッツ、そしてペルーサ。内は一番ビートブラック好位で、その後ローズキングダム、ヒルノダムール、メジロファーゴ、エイシンフラッシュ……》  レース一周目、スタンド前の通過時にメジロファーゴは中団に控えていた。  コスモヘレノスがここで飛ばして上がっていくのを見て、以前トレーナーに聞いていたセオリーを思い出す。 『ファーゴ。一度走って勝っている君には言うまでもないことだが、復習しておくぞ。淀の3200mはペース変化の激しいコース。スタミナとレースセンス、集中力が問われることが多い。  一周目、第4コーナーを回ってからの、大歓声のスタンド前では好位につけようとペースが上がる。  しかし、ここで動揺して最後の直線でもう一度加速するためのスタミナが切れてしまっては元も子もない。  長距離レースでは焦ったやつが負けだ。淀においては4コーナーからの下り坂、スタンド前で勢いに乗りやすいが、ここで行きたがる脚を抑えながら二周目に入り、  再び坂を登りながら最後まで脚を残すクレバーさが求められる……焦るなよ。もし焦りそうになったらウサギとカメを思い出せ、  ウサギはのろのろ歩くカメを見て調子づいてペースを上げるが、カメはゴールだけを見すえて最後まで歩き切る──』 (ウサギとカメ、ウサギとカメ、ウサギとカメ……) (流石に前年王者と言ったところでしょうか。ハナを取ろうと入れ替わり続ける先頭集団の争いで多少は動揺してもおかしくはないというのに……  ですが、このペースと位置であれば最後に私の末脚を存分に発揮できる展開です)  ヒルノダムールと共に中団内側にいるメジロファーゴの姿にダービーウマ娘エイシンフラッシュは感心するが、それでも自身の勝利を確信している。  ファーゴとヒルノダムールがいるのは内側、少しでも走る距離が短くなるように内側を走るのは理にかなっているしセオリー通りであるが、今回の場合は二つの理由での不利がある。  一つは展開によって封じ込まれてしまえば最後に交わしづらいという点。メジロファーゴは前年覇者、自分も含めて周りが放っておく訳がない。  《さあ! 1コーナーをカーブした所で、今度はまた先頭入れ替わって、トゥザグローリーが先頭だ!》  もう一つは内側の芝は春天開催までに行われたレースを走ったウマ娘達によって踏み荒らされているという点だ。  踏み荒らされた芝はスピードが乗らず、スピードを上げるのも維持し続けるのにもパワーが要求されてしまうため、周りと同じ様に走っていても知らず知らずのうちにスタミナを削られていくのだ。  末脚の一瞬の切れに自信を持つエイシンフラッシュは、今いる位置がベストだと判断を下した。  最後のスパート時に、荒れていない部分を通って差し切るつもりだ。  《2コーナーカーブ、さあかなりゆったりとした流れになって向う正面、さあレースは二週目に入っていきます》 (そろそろ終盤にかけて位置取り争いが始まる。ペースも鈍いし、ここからまた誰が多少の無理をしてでも前目につけてくるかな……)  ファーゴが予感していると、同じ中団から動く子が出た。  《おっと動いていくナムラクレセント! ナムラクレセントが動いて四度目の先頭交代です!》 (動いた! 多分先頭を取りに行った! 後は僕自身のスパートのタイミングをいつにするか)  ファーゴは左右に目を凝らす、スパートをかけるべきなのは先頭に行ったナムラクレセントを交わせるタイミング、  かつ同じ集団にいるヒルノダムールとエイシンフラッシュよりも好位につけ、早く加速しきって先頭に立つタイミングだ。  坂を登坂しながら先頭に向けて今から進出しはじめるか? ここはまだ抑えて坂を駆け下りる時に押し上げていくべきか?  早すぎる判断も、遅すぎる判断も共に命取り。  ウサギになるか、カメになるか──  ◆  《レースもいよいよ終盤! 各ウマ娘が第3コーナーへと差し掛かります! 盾の栄誉を手にするのは前年覇者メジロファーゴか! はたまた他のウマ娘か!》 (メジロファーゴ、あの娘の考えは私と同じ。周りがどれだけ動こうとも、中団の好位でひたすら脚をため続けてる……  なら、私の仕掛ける所は余力を残したまま4コーナーを回りきった時!)  ヒルノダムールはここまで中団のまま泰然と動かぬメジロファーゴを見て、狙いが自分と同じであることを確信した。  そして4コーナーにかかり、坂を下りながら一気に押し上げていく。  ファーゴに先んじるようにして絶好のスパートをかけられる位置につけるつもりだ。  《最終コーナー! 残り600mで一気にレースが動く! 最後の直線だ!》  直線に入ると、先行勢の間に通れる場所がある。そこをついて加速することをヒルノダムールは選んだ。 (ここ……っ! 勝負の時は今! 見ててください、カフェ先輩!)  胸に抱くのは尊敬する先輩、マンハッタンカフェのこと。  手が掛からない優等生と呼ばれはしたものの、何かと一人でいることが多かった自分に、彼女は声をかけてきた。  特別な会話は特にしなかったとは思う。学園内でたまたま居合わせた先輩と後輩の間で交わされる社交辞令程度のものだ。  彼女自身も特にマンハッタンカフェについてなにか思う所もないまま、日々を過ごした。  彼女が先輩であるマンハッタンカフェを強く意識したのは、先にデビューしていったマンハッタンカフェがクラシック級のG1タイトル菊花賞を戴冠し、そのまま有馬記念を勝ち取ってからだ。  《ナムラクレセントが先頭! 間からヒルノダムールが追ってくる! 外から──》  すごい……すごい! 自分がトレセン生であることさえも忘れて、夢中で彼女のことを応援した。  彼女のようになりたいと……そう思った。  自分自身もデビューし、クラシック級で勝ちきれぬ日々が続こうと、いつか自分も栄冠を手にすることを夢見て……今日まで走り続けてきた。 (ここでG1タイトルを手にして、私も凱旋門賞に行く! 先輩が破れた地で無念を晴らす!   後少し! 後少しだ! このまま……このまま!)  先頭で粘り続けるナムラクレセントをこのまま差し切ろうと、ヒルノダムールが更に脚に力を込めた刹那……。  《外から──メジロファーゴ!》 (──えっ?)  すぐ近くから灰色の影が迫ってきていることを一瞬理解しかねているうちに、メジロファーゴはそのままヒルノダムールを抜き去って先頭に駆けて行った。  《これまで黒子に徹していた王者が黒衣を脱ぎ捨て、舞台の中央に立った! ものすごい末脚で一気に差を詰めてくる! 先頭のナムラクレセントを……一気に交わした!!  メジロファーゴが先頭! メジロファーゴが先頭!》  劇的な展開を形容する実況にスタンドも大歓声が沸く。 (レースに駆ける想いは誰もが等しく同じ……けれども、僕のそれは一つや二つじゃきかない)  メジロの誰よりも強く輝きながら、天皇賞の春秋連覇と春の三連覇に悔いを残したマックイーン、期待されながらもクラシックを取れなかったライアン、  春の盾の連覇をかけて挑んだものの、より強い輝きを持つ新世代に敗れたブライト、覚悟を持って挑みながらも栄冠を手にすることは叶わなかったアルダン。  他にも、名を残せぬままターフを去っていったたくさんのメジロのウマ娘達……。 (春の盾だけは絶対に渡せないんだ、マックイーンに並び立ち、我こそがメジロだと言うためにも。  ここに集ったものがどれだけ強豪であろうと、この先に待ち受けるものがどれだけ強大であろうと、”今だけ”は! この中の誰よりも強く! そして速いッ!!)  踏み出した脚にファーゴは更に力を込めた。 「はああああああああああっっ!!!!」  《ヒルノダムールも食い下がる! 大外からエイシンフラッシュ! しかし、しかし! メジロファーゴ! メジロファーゴが差を離した離した離した!  これが王者の脚だ! メジロファーゴが今、先頭でゴール! そして、二着がヒルノダムール!》  決着のついた京都レース場のターフに歓声が降り注ぐ。  《名優よみているか! メジロの末子が再び二つ目の春の盾を手にしたぞ! メジロファーゴ、春の天皇賞を連覇達成ー!》  いつまでも歓声の止まぬ中、メジロファーゴは観客に手を振り続けていた……。  4.僕にもいるんだ  これまでのあらすじ  クラシック級での菊花賞、シニア級一年目での天皇賞春、宝塚記念とG1レースを三勝し、  年末の有馬記念こそ惜敗に終わったものの、同世代のスターウマ娘に負けず劣らずの活躍をしたメジロ家のウマ娘メジロファーゴ。  年も明け、偉大なる先人メジロマックイーンの後を追うように天皇賞春の二連覇へと歩みを進めようした矢先、  メジロ家が競争ウマ娘界への選手への輩出を今後取りやめるという発表を聞いてしまう。  今や、トゥインクルシリーズ現役のメジロ家最後のG1ウマ娘となったメジロファーゴ。  思い起こされたのは、幼き日にメジロのおばあさまより言い渡された”終わり”を見届けろという言葉。  受け継いできた誇り、受け継ごうとしてきた歴史に”終わり”を突きつけられた彼女はメジロ家の禁を犯すことを決意する。  それは、メジロの総帥が禁じたとされる海外遠征。目指す先は仏のロンシャン芝2400mG1レース凱旋門賞。  いずれ訪れる終わりを座して待つより、最後まで抗うことを彼女は選んだ。  その脚がけに春の天皇賞の連覇を果たしたメジロファーゴ。  海外遠征への視界は良好、メジロ家にて春天の連覇を祝うパーティーが催されることになった。  二人はリムジンに乗り込み、移動する最中でほんの少しだけ先の未来を語る。  ---  <ウマート>  ハッシュタグ: #メジロファーゴ #海外遠征 #凱旋門賞 「メジロファーゴがついに海外に出るのか!?本当に凱旋門賞に行くんだな!」 「メジロファーゴの海外遠征は大成功間違いなし!今までの活躍を見れば、彼女が世界でも通用することは間違いない。」 「春天のメジロファーゴ鬼つええ!このまま海外のレースも制覇していこうぜ!」 「メジロファーゴの海外遠征は、日本のウマ娘にとっても誇らしいこと!海外に日本のウマ娘の力を見せつけてやろうぜ!去年のナカヤマフェスタで風は吹いてる!」 「メジロファーゴが海外遠征するのは危険すぎる!海外のレース場は国内を重視してきたメジロ家のウマ娘にとっては当然不慣れな環境で、怪我をする可能性もある。凱旋門賞に出るなんて無茶だ。」 「けがや故障には十分注意してほしい」 「海外遠征には期待するけど、やっぱり海外のレースは日本とは違うからなぁ…過剰な期待はしない方がいいかも」 「なんで海外に行かなきゃいけないんだ?メジロ家の禁を破るため?そんなことでいいのか?もっと他にやるべきことあるだろうに……去年逃した秋天とかさあ」 「ブエナビスタとの対決を避けたんだろ? クラシック級の時にブエナビスタが行ってくれてたらなあ……」 「メジロ家をずっと応援してきたが。メジロファーゴの勝手な振る舞いを許せない。最後を飾る自覚があるならつとめを果たせ」 「メジロファーゴの海外遠征はメジロ家の名誉を傷つけるだけだ。日本で勝てるところで勝ってくれ。」  ・  ・  ・  トレーナーという仕事柄、担当ウマ娘のエゴサやSNSの話題のチェックは事欠かない。  やっていて思うのだが、SNSは全人類から取り上げたほうがいいツールなんじゃなかろうか。  一体一で会話するのも苦労するというのに、こうして数百人数千人数万人から言葉をぶつけられるという状況は人間にしろウマ娘にしろ受け止められる限界を超えていると思う。  体育館や広場のど真ん中で全校生徒や民衆から一斉に話しかけられるようなものだ。ヒトという生き物はそうした状況を想定して設計されてなどいない。  かつてヘブライの神とやらは、統一した言語を持つ人々が建設するバベルの塔を打ち壊して人々の言語をバラバラにし、意思を統一して神に挑戦しようなどとできないようにしたらしいが  さしずめ現代におけるバベルの塔とはまさしくSNSのことであろう。  ヒトにとって過ぎたこの代物は、いつしか天から降り注ぐ光によって打ち壊される運命にあるのだろうか。 「ファーゴお嬢様、トレーナー様。祝勝パーティーのお迎えに上がりました。どうぞリムジンにお乗りください」 「ありがとうじいや、ほらトレーナーさんも乗って乗って」 「ああ」  物思いにふけっているうちにぼーっとしていたのか、ファーゴに背を押されてリムジンに乗り込んでいく。  担当ウマ娘のメジロファーゴが天皇賞春をこの度めでたく連覇したので、メジロ家が主催する祝勝パーティーに参加することになったのだ。 「スーツがお似合いですよ。でも、ネクタイが曲がっていますね」 「普段着てないと、どうしてもなあ」  トレセン内においてはトレーナーの服装はよほど公序良俗に反していない限りは、  トレーナーバッジをつけてさえいれば服装は基本的に自由なので、こういうかしこまった機会に一張羅を着込むとどうも座りが悪い。  メジロ家主催のパーティーは、カジュアルなものであればドレスコードは基本的に緩いが、  流石に今回はファーゴ共々主賓として行くこともあってラフな格好はどうかと思ったのである。 「慣れるようにはしてるんだけど、パーティーなんてハイソな雰囲気はどうも慣れないよ。  一度参加したことのある集まりで手持ち無沙汰になってお酒を飲みすぎて失敗してからより苦手になった」  ものすごくどうでもいいコトだが、新人として着任した際に自分は新人歓迎会で酒を飲みすぎてやらかし、  理事長から期待されて着任したのに、着任から最速で謹慎処分を食らったバカというありがたい称号の持ち主となったことがある。  スカウトしようにもなんかヒソヒソウマ娘達から遠巻きに見られるし、ファーゴから逆スカウトを受けてなきゃそのままトレセンからさよならだったんじゃなかろうか?  今では別の意味で遠巻きに見られるようになったんだよね、すごくない?  もっとも、今現在でも過去をすっぱ抜いたゴシップ記者の書いた記事でメジロファーゴは優等生だけどトレーナーの方はクソと度々罵倒される。  まともなトレーナーなら三冠取れてたんじゃないの? と書かれたときには最近の蛆虫共は人間の言葉を喋るし文字まで書けるのかと笑ったものだ。 「大丈夫ですよ。そのうちそのハイソな雰囲気が”日常”になりますから。頑張って慣れてくださいね?」 「そうだな、トレセンに入学してくるウマ娘は大抵お嬢さんだもんな。将来ファーゴ以外を担当した時に恥かかせるのもかわいそうか…… 「まあ、そういうことにしておいてあげましょう」  グッドコミュニケーション。  シニア級二年目、年数で言えば五年目に差し掛かっているだけあって自分達は通じ合っている。  ファーゴに言い回しに含みがあるように聞こえたのは気のせいだ。 「ちなみに、僕以外を将来担当なさる時はどんな娘をご所望ですか?  毛の色は? 脚質は? 適正距離は? 外見は可愛い系ですか? それとも美人系ですか?」 「脚質と適正距離以外聞く意味ある? トレーナー稼業を人生を数回繰り返したところで一つ取れるかわからないG1レース勝利がファーゴのおかげで現時点で四つ。  もう既に一生分の運は使い果たしているだろう。普通の子がいいよ、普通の子が」 「つまり僕みたいなウマ娘をまた担当したいということですね」 「お前のような”普通”がそうそういてたまるか!」  そういえば、同僚や先輩と話した時に『うちの担当って普通にいい子ですよ。普通に毎日トレーニングに参加してくれて、言う通りに走ってくれてます』  って話したら『ぶっとばすぞテメエ! 普通がどれだけありがたいことか分かれ! 大抵のウマ娘は何かしら扱いづらい”気性難”だ』と、力説されたことがあったな……。  世の中には気性難専門の駆け込み寺のようなトレーナーもいるらしいが、控えめに言っても爆破処理班並の覚悟でやらないと務まらないと思われる。 「いっそのこと、レーシングやクラブ系の所で拾ってもらうのもありかなあ……」 「近頃台頭が著しい競争ウマ娘の支援団体や会社ですね」 「家庭の経済状況があまり裕福でないウマ娘でも連中が金を出してくれるから幼少期から気前よくトレーニングや教育を受けられるのは明確なメリットだよ」  名家名門のウマ娘の名門である由縁は幼少期から設備の整った場所や器具が揃っており、早い段階でトレーニングを積める点がある。  ただし、相応にお金がかかるので、稼業と共に維持し続けるのも一苦労だ。それこそ大金持ちでないと厳しい。  そこで、株式会社のように一口単位で施設や設備などの権利を分割して、それを自分達が見定めたウマ娘達に貸し出すことで、  支援しやすくなるようにしたのがレーシングやクラブ系と呼ばれる競争ウマ娘の支援団体だ。  今は一口単位の金額がそれなりに大きいので、まだそれなりの金持ちぐらいしか構成員になれないが、そのうち、一般人も気軽に応援したいウマ娘に資金面での援助ができる時代が到来するだろう。 「結果として、名家名門のウマ娘達はこれまで以上に変遷していくレース界隈の中で自分達がどうあるべきかを見つめ直す必要性に駆られることになりました」 「まあ、そこまで深刻に思わなくても船頭多くして船山に登るなんてことわざもあるよ。方針が一貫しているという意味では名家名門の価値はそうそう落ちないさ」  自分達のカラーや方針を宣言して守り続けている名家名門のウマ娘の方がファンとしては応援し易いという声もまだまだ根強い。  天皇賞を至上とするメジロ家なんかはわかりやすい部類だ。  だからこそ、事実上競争ウマ娘をこれ以上一族一門から送り出すことはないという発表に界隈に激震が走り、惜しむ声もあったわけだ。 (そういえば、ファーゴって結局メジロ家をどうしたいんだろう?)  海外遠征します! というファーゴの勢いに押されて、とりあえず目先の春天連覇を何とか片付けてきたがここに来てようやく疑問を抱く。  最後のメジロとなったからには伝統や禁を破って、かつてメジロが敗れた夢を再び追いに行く……その為の凱旋門賞だというのは分かる。  じゃあ仮に、勝ってどうするのか?  実績を手に、自分がいる限りメジロ家は安泰だから解散を取り消してくれと、メジロのおばあさまに談判でもするのだろうか?  歴史を積み重ねたメジロの競争ウマ娘の歴史を閉じる。大層悩んで決めたであろうことをそう簡単に翻意するわけでもない。  ここら辺は曖昧にしないではっきり聞いておくべきだろう。 「なあ、ファーゴ。今更聞くべきじゃないというか、もっと早くに聞いておくべきことだったんだけどさ。なんで凱旋門賞なんだ? 凱旋門賞を走ることが、君の夢や展望に関係があるのか?」  やる以上は全力は尽くす。勝つつもりでやる。  しかし、気持ちだけで取ることができるなら、今日まで日本の競争ウマ娘達の夢や課題、宿題として残り続けてはいない。  かつてエルコンドルパサーがモンジューに差し切られて二着となった時に、日本の競争ウマ娘界隈は半永久的な呪いにかかった……とは、誰が評したものであろうか。  ファーゴと同世代のナカヤマフェスタが去年二着になったのもあって、今年こそは! という声も挙がり、挑戦しやすい雰囲気にあることは確かではあるのだが……。  こうして春天を連覇するという所までやり遂げてしまうと、既に海外遠征を宣言しているのにも関わらず国内に残ってほしいという声が早くも散見されるようになってきている。 「いわゆるSNS界隈でも、ファーゴが秋天出走の可能性を潰してまで海外に行く意味や意義については物議の種になり始めているんだ。メジロ家については……ファーゴも知っている通り」  メジロ家にはそこそこ出入りしているから嫌でも聞こえてくるが、トレーナーであるこっちを通してやめさせるように言ってくるメジロ家専属トレーナー連中もいる。  曰く、『ラモーヌ、マックイーンにも劣らぬメジロの新しき至宝を無謀な挑戦で潰すつもりか?』と、幼少期のファーゴはお前らが鍛えてたかもしれないが、今担当してるのはこっちだっていうのに。  トレセンのメジロ家のトレーナー達やその担当のメジロのウマ娘達は相手にしなくていいよとは言ってくれるし、ファーゴの挑戦に賛同もしてくれているが、  ああいう手合のメジロ家内での影響力はともかくどうしても数だけは多いからうっとおしいことこの上ない。  こういう有象無象の蠢動や声を黙らせられないのもある意味、屋台骨が危うくなっている証拠ではあるんだろうな……。 「批判は承知の上です。みんな僕がメジロのウマ娘として国内のレースを走ることを望んでいるのでしょう? これまでのメジロのウマ娘達がそうであったように」 「パーティーを終えたら海外遠征に向けて支度をせっせとしなくちゃならないし、トレーナーとしてはそろそろ真意を聞かせてもらいたいところでね」 「そうですね……理由はたくさんありますよ。僕はこう見えてわがままですから」  ファーゴは話し始めた。 「トレーナーさんは、メジロ家がこれからも名を残し続けるにはどうしたらいいとお考えですか? 僕を最後に競走ウマ娘をもう出さないと布告を出したメジロ家が、  忘れ去られることのないように歴史に名を刻むためにはどうするべきか……」 「ファーゴが大レースに勝ち続けること、あるいは誰もやっていないことをやり遂げること」 「その通りです。知らないふりをして、ちゃんと分かっていらっしゃるじゃないですか」 「そういう意味合いで決めたのは理解は出来るんだ。でも、それなら国内に専念していてもいい。トレーナーとしては信じてやりたいところではあるが、  海外のレースは国内のレースを勝ってキャリアを積んだついでで、勝てるほど甘くはない」  ファーゴがそのことを分かっていないはずがない。  それに、海外に挑戦した後コンディションが戻らずにその後引退していくウマ娘も多くいる。  人間の感覚で気軽に旅行感覚で行って、無理ならさっさと帰って来ておしまいなんて話ではないのだ。  ファーゴ自身も自分が海の外でも通用する最強だと証明してえ! って風なタイプでもない。  外向けにはメジロの伝統をぶっ壊すと吹聴してしまったが、なにか特別に拘る理由があるのだろうとは思っていた。 「無論、それも承知の上です。それでも行く意味が、フランスにはあります」 「フランス?」 「僕の父親は映画俳優なんです。フランスの映画祭で賞を取ったこともあります。少しばかり、僕との父親のことをお話させてください」  ---  メジロファーゴのヒミツ  実は、名優と呼ばれる父親がいる。主演作、12本。  --- 『ファーゴは将来何になりたい?』 『パパみたいになりたい! パパみたいなめーゆーになりたい!』 『そうか、そうか! ファーゴは俺みたいな”名優”になりたいのか!』  そう、嬉しそうに言う父の姿を今でも覚えている。  僕の父は”名優”と呼ばれるほどの映画俳優だった。フランスの映画祭で賞を受賞したこともある。  僕はウマ娘として生まれたのもあって、多少は見た目に恵まれて生まれたのだから、俳優や役者を目指すという未来もあり得ただろう。  けれども、小さい頃の僕はそれを選ばなかった。  ある日、家の近所にあった小さなウマ娘達のレースクラブに運動がてら通っていると…… 『ファーゴちゃんは速いわねー、こんなに素質のある子はメジロ家にだってそうそういないわよ!』 『めじろ?』 『あら? ファーゴちゃんは知らないの? メジロ家、ターフという新緑の舞台の上で走り、レースで人々を楽しませる名優達のことよ』 『めいゆう……』  レースクラブの人からそれを聞いて以来。  いつからか、父のような”名優”になりたいという願いは、名優と呼ばれるような存在になりたいへと変わり、やがてターフの上でそう呼ばれる”メジロのウマ娘”になりたいと思うようになった。  けれども、メジロ家のウマ娘になるにはメジロ家の縁のある者でなくてはならない。  有名な俳優の父の元に生まれただけのウマ娘の自分には関係がないことだと、そう思っていた。  若い頃の父の持ち物がしまい込まれている引き出しの奥から、メジロ家の紋章がついたものを見つけ出すまでは……。  そう、父はウマ娘でこそなかったがメジロ家に連なる筋の人間ではあったのだ。   『ファーゴ、どうしたんだ? そんなにはしゃいで……それを、どこで』 『パパ、ぼく。メジロのウマ娘になりたい!』 『お前は……メジロのウマ娘になりたいのか』  父は、メジロ家の紋章が入った持ち物を持った僕のことを引きつった顔で見て、メジロのウマ娘になりたいといった僕の頭をただ撫でた。  自分がメジロ家のウマ娘になれることが嬉しかった僕には、父がなぜ形容し難い表情であったのかに気づくこともなかった。  その理由を知ったのは、自分以外にも大勢いたメジロのウマ娘の一人としてメジロ家に迎え入れられてからのこと。 『ほら、あそこにいる芦毛のあの子。例の男の子供だって……』 『メジロ家から出ていったって男の娘でしょ?』  集められている名前も知らないような大勢のメジロのウマ娘候補達が、僕の方を見てそんな風に噂をしていた。 『ねえ、じいや。僕のことを噂してる子がいるみたいなんだけど、”あの男の子供”ってどういう意味?』  メジロ家の専属トレーナー達に素質を認められ、僕についた世話役のじいやに何か知らないかを問いただした。 『ファーゴお嬢様、私めは。かつては坊ちゃま……あなたのお父君に仕えておりました』    じいやから聞いた話はこうだ。父はメジロ家の一門には生まれたが、トレーナーになるか稼業をついでメジロのウマ娘達に生涯を尽くせという方針に反発して、俳優になるという夢を求めて家を飛び出したらしい。  やがて、母と出会い僕が生まれてからは知っての通り、世間でも名が通る名優となった。  そうじいやから聞いて、僕がメジロのウマ娘になりたいと言った時、父が形容し難い表情になった理由が腑に落ちた。  自分の夢を追い、その為に捨てたはずものになりたいと、娘がそう願った時の父の心には何が渦巻いたのだろう。   『ファーゴお嬢様、大旦那様は大層お喜びです。放蕩息子の変わりに出来た孫娘が帰ってきたと、我が家がメジロ家に天皇賞の盾をもたらす栄誉に授かれるかもしれないとそれはそれは……』  祖父とは少なくない確執があったであろうに、あっさりと僕がメジロのウマ娘になった裏でどれだけのことをしてくれたのだろう。 『ファーゴは将来何になりたい?』 『パパみたいになりたい! パパみたいなめーゆーになりたい!』 『そうか、そうか! ファーゴは俺みたいな”名優”になりたいのか!』  いつの日か、父娘で交わした会話が虚しく思い起こされた……。  あの時は、父と同じ場所で同じ風景を見ていた気がするのに、いまや分かたれてしまったことを否応にも感じた。    ---  メジロファーゴ、家族のこと  祖父母からはファーちゃんと呼ばれていた  --- 「夢を追った結果、他の何かを蔑ろにして踏みにじったという意味では似たもの父娘ですよね。因果なものです」  父との思い出をかいつまんで話し、僕はそう締めくくった。 「父の夢を継いでやることは叶いませんでした、なら時間はかかってもいつか、せめて何かを……と」 「父親と同じ国で最高の栄誉を、そしてメジロの為にも誰も成し遂げていないことをやりたいと、そういうことか」 「えぇ、どっちかにすればいいのにとは自分でも思います。半端者ですよね、ただ……競争ウマ娘の名家としてのメジロがなくなると聞いて脳裏に浮かんだのが、父の顔でした」 「メジロ家のことも、父親のことも、どちらも大事なんだろう? それが自分の夢なら堂々と誇ればいい」 「誇っても、いいんでしょうか。かつては父の夢を蔑ろにし、そして今度はファンのみんながメジロ家へ託す夢も振り払って自分だけの夢を求めに行く僕が」  最初は誰かのために、何かのために始めたはずなのに、いつの間にどこか遠くに行ってしまうのは生まれ持って定められた僕の宿命なのだろうか。  父親の為に同じ夢を持とうとした、それを追い求めた結果が父が夢を追うために捨てたものを拾うことだった。  父が捨てたもの、メジロ家のウマ娘となり、その栄光と他のメジロのウマ娘達の為に走り続けた。恩義があったし、何よりみんなのことも好きだったから。  今でも自分がメジロのウマ娘として、メジロ家の永遠の栄光のために走っていると信じてはいる。  けれども、ファンの人々も、親しいメジロのウマ娘達以外のメジロ家の者達も、みんなが国内でメジロの夢を追ってもらいたがっている。  それでもと、海外へ行こうとする自分への批判はメジロ内でも少なくはない。  やはり”あの男の子供”だ、自分勝手でメジロ家のことなどどうでもいいのだと口さがない声さえも聞こえてくる。  そうした言葉に激怒しているのがその”メジロを捨てた男”の父親であり、僕の祖父でもあるお祖父様というのも皮肉なものだが、心苦しいことに変わりはない。  春の天皇賞を連覇してみせたことで道は開けるどころか、かえって心境的な意味では狭まってしまった。  この苦しさも葛藤も全ては自分の道を行くことをことを決めた対価なのだろう。 「誇っていいに決まっている! ”身勝手”でいいんだ! ファンの連中の一部は知らないが、君のお父さんは君の不幸になることを望むはずがない。  そうでなければ、出ていったはずの実家に接触してまで君をメジロ家に迎え入れさせたりなんてしない。  ウマ娘は夢を背負って走るものだ……でも背負った夢の代わりに自分の夢を捨てていいなんてことは決してない!」  トレーナーさんが迷いなく、肯定する。  これまでの歩みは、誰かの後を追えばよかった。誰かの輝きに、これまでメジロ家の成し遂げた光に照らされて、護られていればよかった。  失敗しても言い訳がきく、自分は先人には及ばなかったのだと。挑戦にも理由はいらなかった、先人の後を追うのだと言えば周りが納得した。  けれども、これから行く先にはそれがない。  敷かれた道も光もなく、目の前にはただ闇と道なき道だけが広がっている。  僅かな希望と勇気を片手に、願いと期待を背負い闇の中を進まなくてはならない。  先の見えない長い旅路に不要な、重い荷物など捨ててしまえば楽にはなる。願いをいくつか諦めれば、足取りも軽くなるだろう。  それでも、僕は何一つ捨てたくはなかった。メジロのウマ娘として生きたことも、父の子として生まれてきて幼き日に夢を語らったことも、一人のウマ娘として走り続けていることも。  そんな半端者の望みをそれで良いと言ってくれる。自分を捨てて掴む栄光と永遠に価値などないと、言い切ってくれる。 『私には一心同体のトレーナーさんがいますわ──』  ふと、いつかマックイーンが言っていたセリフを思い出した。期待に押しつぶされようとも、応えられなくとも……それでも支えると、応援し続けるとそう言ってのけた人間。  ”退屈”と呼ばれるまでに自分を高めてくれた存在。初めて聞いた時は苦笑しながら惚気だと聞いているしかなかったけれど、今なら言い返してもいいよね? (僕にもいるんだ。一心同体のトレーナーが)  今はまだ、貴方のおかげで僕は僕のままでいられる。  今はまだ、貴方のおかげで進んで来た道が間違っていないのだと信じて進んで行ける。  だから、いつか僕が全ての願いと夢を叶え成し遂げるその時までは……こうして、貴方という僕だけの光に照らされていたい。  5.デインドリーム登場!  これまでのあらすじ  クラシック級での菊花賞、シニア級一年目での天皇賞春、宝塚記念とG1レースを三勝し、  年末の有馬記念こそ惜敗に終わったものの、同世代のスターウマ娘に負けず劣らずの活躍をしたメジロ家のウマ娘メジロファーゴ。  年も明け、偉大なる先人メジロマックイーンの後を追うように天皇賞春の二連覇へと歩みを進めようした矢先、  メジロ家が競争ウマ娘界への選手への輩出を今後取りやめるという発表を聞いてしまう。  今や、トゥインクルシリーズ現役のメジロ家最後のG1ウマ娘となったメジロファーゴ。  思い起こされたのは、幼き日にメジロのおばあさまより言い渡された”終わり”を見届けろという言葉。  受け継いできた誇り、受け継ごうとしてきた歴史に”終わり”を突きつけられた彼女はメジロ家の禁を犯すことを決意する。  それは、メジロの総帥が禁じたとされる海外遠征。目指す先は仏のロンシャン芝2400mG1レース凱旋門賞。  いずれ訪れる終わりを座して待つより、最後まで抗うことを彼女は選んだ。  その脚がけに春の天皇賞の連覇を果たしたメジロファーゴ。  海外遠征への視界は良好、早めに現地に入りトレーニングを行うべく、トレーナーと共に欧州へ向かった。  しかし、ドイツの地で密かに牙を研ぎ続けるものがいた。  ---  私にガラスの靴はいらない。私が履いたのは鋼の蹄鉄。  魔女を名乗る存在に望んだものは、泥縄を踏破し、悪路を組み砕く脚。  私は女王、自らの力で頂点へと駆け上がり君臨する者。与えられるのを待つだけのシンデレラではない。  私を灰被り姫と呼ぶものがいなくなるその日まで、走り続ける。  いつか、灰の方から私を避けかしづくその時まで……  ──■■■■■■■  Umamusume Racing Association。  通称URA、ウマ娘レース協会と呼ばれる組織は世界各国に存在する。  日本にあるURAならば、海外の同名団体と区別するために頭に”J”が付いてJURAとなる。Umamusumeの部分は世界共通だ。  そしてここはドイツ、”D”URAの管轄のトレセン学園において、一人のウマ娘が走っていた。  体格はやや小柄、左耳に飾りをつけている。毛の色は鹿毛。  どういうわけか世界中で左耳のウマ娘が好んで履くブルマと体操服の姿で力強くターフを蹴って走っていた。  世界のブルマである。  やがて、コースを一周して来るとその様子を見ていたトレーナーと思しき男が声をかけた。 「ウマが変わったようだぞドリーム、クラシック級に入ってからは見違えるようだ」 「そうは言ってもここまで9戦2勝、ジュニア級からフランスやらイタリアやらに遠征した割には情けないレースばかりだったわ」  ドリームと呼ばれたウマ娘は不満げにぼやく。 「デルビーイタリアーノ(G2)でイタリアのクラシック路線の者達と対等に渡り合い、  その後のオークスイタリアーノ(G2)でイタリアのティアラ路線のウマ娘達相手に約六バ身差つけての圧勝、どこに卑下する所がある?」 「でも、マルレ賞では五着だった」 「苦杯をなめることも必要なことだ、君という女王を完成させるためにはね」 「……あんた、両親か祖父母にイタリア人の血でも入ってるの? そのキザな喋り方とか、私をイタリアのレースにやたら出してた所とか」 「私も君と同じようにドイツ生まれドイツ育ちのはずだ」 「そう……気色悪いからもう少し控えてくれるとありがたいんだけど」 「善処はしよう」 「もういいわ、この後の予定は?」 「ビデオ研究、今回はツテもあって少々珍しいものを用意した。視聴室についてきなさい」 「了解(ヤー)」  ⏰テケテケテケテン(場面転換のあれ) 「来たわよトレーナー、これは?」  ドリームと呼ばれたウマ娘が薄暗い視聴覚室にやって来るとそこに映し出されていたのは日本のレースだ。 「これなんてレースなの?」 「日本の象徴の名を冠した春の大レース天皇賞春。こっち風に言うと春のカイザー記念といった所だな、英語でエンペラーカップと呼称する方がより正確だがね  君に見てもらいたいウマ娘がいる。このレースに勝ったウマ娘だ。最終コーナーから直線に入った時点でビデオを止めるからものの試しで当ててみるといい」  そう言ってドリームのトレーナーはビデオの続きを再生した。  《レースもいよいよ終盤! 各ウマ娘が第3コーナーへと差し掛かります! 盾の栄誉を手にするのは前年覇者メジロファーゴか! はたまた他のウマ娘か!》  《最終コーナー! 残り600mで一気にレースが動く! 最後の直線だ!》 「勝ったのは芦毛のアウターナポレオンジャケットみたいな勝負服の子でしょ?」  ドリームと呼ばれたウマ娘は実況でも前年覇者と呼称されている芦毛のウマ娘、メジロファーゴを指さした。 「なぜそう思った?」 「長いレースでも焦らずに最後までしっかり脚を残すクレバーさがあったわ。坂の下り方も上り方も流石といった所、中々の坂道巧者ね。  そしてビデオは止められてるけどこの最後の直線、あの位置からなら脚のキレに自信があるならぶっ千切れるでしょ」 「流石だな、正解だ。彼女の名はメジロファーゴ。日本のクラシック三冠路線で菊花賞を戴冠、その後今見た天皇賞春をこれで二連覇した。  菊の花に天皇賞と日本のウマ娘と呼ぶのにふさわしい勝ちレースが並んでいる。彼女の所属するメジロ家はその天皇賞を代々制してきた一族、その申し子だ。ここまで来ると出来すぎだな」  何をもって日本のウマ娘らしさとするべきかは置いておくとして、象徴的なレースを制しているという意味では、  海外のレースに携わる者達からメジロファーゴやメジロ家がさぞ由緒正しい存在なのだろう思われるのも必然であった。 「そして、彼女が欧州にやって来る。凱旋門賞に出るためにな。ツテで入手した話によると、ドイツの温泉保養地で休息を行いながらトレーニングを積むそうだ。  次走はバーデン・バーデンレース場のG1レース、バーデン大賞。ドイツ最強を決める大レースの後半戦をステップ代わりにして凱旋門賞へと行くつもりだ」  バーデン大賞はドイツ開催のG1レースの一つ。ベルリン大賞と合わせて、前半後半でドイツ最強を決める二大レースだ。バーデン・バーデンレース場、芝2400mで開催される。  おおよその歴史は、これまで地元のウマ娘達は海外のウマ娘達にやぶれることが多かったが、転換期から一気にそれが変わり。  現在では、海外からの強豪を迎え撃ちながらもドイツのトップクラスのウマ娘達が最強の座をかけて戦う大レースとなった。 「話が読めてきた。私をこいつと戦わせたいんでしょう? でも向こうはG1を複数勝利したウマ娘、こっちはやっとこさ重賞を一つ手にした身、同じ夜会で踊るにはもう少し”格”がいるんじゃない?」 「その為のレースローテションはこれだ、目を通すといい」 「用意がいいわね……まあ、見させてもらうわ」  ドリームはトレーナーからレースの出走計画表を受け取って目を通した。  ベルリン大賞G1  ↓  バーデン大賞G1  ↓  凱旋門賞G1 「なるほど? 素敵な計画表だこと。こっからドイツ最強ウマ娘を決める二大レースに勝ってドイツ最強に名乗りを上げて、凱旋門賞にいく……子供でも考えつきそうな計画だわ」 「ムラっけはまだあるが、今日までに示した君の素質で私は君の強さを確信している。後は強敵が集う場で研ぎ澄ませるだけだ」 「……次走がG1なら勝負服がいる。ベルリン大賞まであと一月よ」 「もちろん用意してある」  トレーナーが手元のリモコンを操作すると、ウマ娘の勝負服と思わしきドレスがトルソーに掛けられてライトアップされた映像が画面に映し出された。  オレンジ色に紺色の”V”がデザイン基調となった勝負服だ。  いきなり目の前に現れた自分だけの勝負服に恍惚とした表情を浮かべて見とれているドリームにトレーナーは声をかけた。 「”デインドリーム”。君が女王へと駆け上がる物語はここからはじまる。私の小さなシンデレラよ。今日までかぶり続けた泥を振り払い、栄光を掴め」 「素敵……でも一つだけ訂正させなさい。私は灰被りの”シンデレラ”なんかじゃない。嫌いなのよ、ただ夢やチャンスを与えられるのを待つだけの存在は」 「勝ち続ければ、女帝や女王とやがて呼ばれるようになるだろう。灰かぶり姫に降りかかる灰でさえも、いずれ君を避けかしづくその日が来る。  その為にも……ベルリン大賞を制してドイツの優駿の一人に名乗りを上げ、東洋から来たる芦毛の姫(シンデレラグレイ)、メジロファーゴなる者をバーデン大賞で迎え撃て」  世界の競争ウマ娘の名だたる女王達の一人として、そう遠くはない未来に名乗りを上げる彼女の名前はデインドリーム。  この後ベルリン大賞にて、クラシック級でありながらもシニア級のウマ娘達を相手にして5バ身差での圧勝をしてみせた。  次走はバーデン大賞、ドイツの最強を決める前半戦で名乗りを上げた彼女が、ドイツ最強の名をかけメジロファーゴを含めた国内外の強者達と激突する。  凱旋門賞という舞台へと向けて、世界中の役者達が着々と集い、名乗りを上げようとしていた。  私にガラスの靴はいらない。私が履いたのは鋼の蹄鉄。  魔女を名乗る存在に望んだものは、泥縄を踏破し、悪路を組み砕く脚。  私は女王、自らの力で頂点へと駆け上がり君臨する者。与えられるのを待つだけのシンデレラではない。  私を灰被り姫と呼ぶものがいなくなるその日まで、走り続ける。  いつか、灰の方から私を避けかしづくその時まで……  ──デインドリーム  6.夢のような旅の終わり、そして始まり  これまでのあらすじ  クラシック級での菊花賞、シニア級一年目での天皇賞春、宝塚記念とG1レースを三勝し、  年末の有馬記念こそ惜敗に終わったものの、同世代のスターウマ娘に負けず劣らずの活躍をしたメジロ家のウマ娘メジロファーゴ。  年も明け、偉大なる先人メジロマックイーンの後を追うように天皇賞春の二連覇へと歩みを進めようした矢先、  メジロ家が競争ウマ娘界への選手への輩出を今後取りやめるという発表を聞いてしまう。  今や、トゥインクルシリーズ現役のメジロ家最後のG1ウマ娘となったメジロファーゴ。  思い起こされたのは、幼き日にメジロのおばあさまより言い渡された”終わり”を見届けよという言葉。  受け継いできた誇り、受け継ごうとしてきた歴史に”終わり”を突きつけられた彼女はメジロ家の禁を犯すことを決意する。  それは、メジロの総帥が禁じたとされる海外遠征。目指す先は仏のロンシャン芝2400mG1レース凱旋門賞。  いずれ訪れる終わりを座して待つより、最後まで抗うことを彼女は選んだ。  その脚がけに春の天皇賞の連覇を果たしたメジロファーゴ。  その目的はメジロの伝統を破る前に誰よりもメジロのウマ娘らしい実績を立てることで、海外遠征を周囲に納得させるためのものであったが、成果は決して芳しいとはいえなかった。  海外遠征について世間に賛と否が飛び交う中、それでも押し切って海外に行く所以は、名優と呼ばれた父親と幼き日に語らった夢の為。  フランスの地で映画俳優として賞を受けた父のように、自分も競争ウマ娘としてフランスの地で最高の栄誉を……。  それは、父のような名優になるという夢をほんの少し違えたカタチで叶え、受け継いでしまったことへの贖罪であった。  父との夢とメジロ家の栄光。  メジロアルダンと邂逅した際に胸に灯した、永遠を刻み証明するという自分の誇りと生き方。どれも軽んじたくはなかった、捨て去りたくもなかった。  全ては”終わり”に抗うために……。  ---  グランプリの大舞台。熱狂の中で君は駆け抜ける。  小さくも力強いその姿に、僕はただ見惚れていた。  一着を取り、ウィナーズサークルでファンたちが声援を送る中、群衆の中にいた僕の視線を君は捕らえた。  微笑みを浮かべ、手招きする。 『何シケた面してるんだ、お前も早くこの大舞台に上がって来い』と、そう言われた気がした。  瞬間、心の中で決意を新たにした。  僕が君を羨望を持って見つめていたように、自分もまた誰かの憧れになることを。  いつか、きっと君と並んで夢の舞台に立つことを。  僕の夢への旅路はここから始まった。  ──メジロファーゴ  メジロ家のウマ娘が纏う勝負服にはそれぞれの歩んできた、あるいは歩むべき”道”の名がつく。  残してきた軌跡、トゥインクルシリーズでの競争生活を通して成し遂げた自らの在り方、抱いた想いと願いが込められた名だ。  エレガンス・ライン メジロマックイーン  ストレート・ライン メジロライアン  Line Breakthrough メジロパーマー  ツイステッド・ライン メジロドーベル  ブリュニサージュ・ライン メジロブライト  クリノクロア・ライン メジロアルダン  ・  ・  ・  そして、ラスト・ライン メジロファーゴ  この勝負服を纏ってきたファーゴであったが、まさか名前の通りの歩みになるとは思いもしなかっただろう。  ファーゴのトゥインクルシリーズでの競争生活は、今日の本人の輝かしい光と同じだけの影がある。  クラシック三冠を争った、皐月賞ウマ娘アンライバルド、ダービーウマ娘ロジユニヴァース。  シニアに入ってからも競い合うはずだったクラシックの戦友達は、故障により離脱してそのままターフを去るか、長いリハビリ生活に明け暮れている。  全力を駆けて冠を取り合ったライバル達が終わり、終わっていく様を見たファーゴは何を思ったのだろうか……。  もしそれに、救いがあったとすればシニア期でのナカヤマフェスタ、ブエナビスタ、トーセンジョーダンら同世代としのぎを削り和えたこと。  後ろからはエイシンフラッシュの世代達が育ち始めたこと。上にドリームジャーニーらの世代がいたこと。  終わった者達や終わっていく者達もいれば、始まった者達もいた。これから始まっていく者達もいた。  その一つ一つが今のメジロファーゴを作り上げたのだ…… 「ファーゴの飲んでるタピオカティーデカすぎてちっちゃい樽サイズじゃーん! ”宝塚記念”の出走前にエグいもん見せんなし」 「チーズと黒糖シロップと生クリームも入ってて甘いのしょっぱいのがまとめて押し寄せて来てまじ、ヤバい! タピオカうぇーい☆」  ……その一つ一つが今のメジロファーゴを作り上げたのだ!!   同世代のトーセンジョーダンと話しながら呑気にタピオカを吸ってるように見えるが、こう見えてクラシック期から挫折も栄光も経験してきたし、現在もその真っ只中である。  ファーゴは凱旋門賞出走の為にこれから海外遠征を行うところであったが、どうしても宝塚記念だけは見ていきたいということでフライト前に予定をねじ込んだ形だ。 「ほんじゃ、行ってくるわー。昨年の宝塚の主役不在のレースなんて言わせねーから、ちゃーんと見とけー?」 「ドリジャの復活と同じぐらい、君の初めてのG1勝利を祈ってるよ。ジョーダン」  手をひらひらさせながらパドックへと向かっていくトーセンジョーダンを見送った。  ファーゴはドリームジャーニーとも顔を合わせたかったようだが、出走前に集中したいのか面会謝絶らしい。  仕方ないと、自分達は観客席に移動していった。  ◆  ---  トレーナーレポート 【シニア級のウマ娘が直面する競争能力低下現象に対する仮説】  ・精神的な負荷の増大による競争能力の低下  一般に、シニア級以降のウマ娘達が引退を考える指標として、身体能力の低下が挙げられる。  これは、本格化現象が終わりを迎え、身体能力そのものが低下することによってライバル達に後れを取ることが原因と知られている。  適切なトレーニングとケアでその進行自体を遅らせることや、維持をすることは出来るものの、能力が減衰することは避けられないというのが定説であった。  しかし、本格化の終わりによる身体能力の低下という面だけでは説明できない事象が存在する。  本項においては、シニア級のウマ娘が直面する競争能力低下現象について、精神的な負荷の増大が原因の一つであるという仮説を立てた上でその説明ができない事象について説明していきたい。 (中略)  ウマ娘は夢を乗せて走るとも言われている通り、ヒトと関わることや絆、ファンからの応援によって通常起こり得ない奇跡を起こすことがあるのは有名だ。  精神的に若いうちはそれらを積み重ねていく段階であり、期待を力へと昇華させやすい状態にある。  しかし、長い競争生活の中でそうした期待を積み重ね続けた場合、一定の許容範囲を超えることがある。  そうなってしまった場合、期待はそのまま重みとなり、彼女達の脚を鈍らせていく。  単なる精神的な問題や一種のスランプと言いかえることも出来るが、この精神にかけられる負荷重量がアンコントローラブルに陥った場合、身体能力や本格化現象に全く問題がなくても  競争能力を喪失したり、能力が恐ろしく減衰する事象に直面することになる。  これが、精神的な負荷の増大による競争能力の低下現象だ。  トレーニングでは手応えを感じるのにレース本番になると精細を欠き、レースを終えると調子が戻ったりするといった現象の説明の一つの仮説として成り立つ。  今回、わかりやすい事例としてシニア級のウマ娘達を例として挙げたが、先祖代々応援するファンを積み重ねてきた名家のウマ娘達はこの現象ともっとも密接に関わっている。  期待をかけられた名家から送り出されてきたウマ娘ほど走らないということが度々起こるのは、この精神的な負荷重量を生まれつき背負わされていることが多く関わっているのではないだろうか?  逆を言えばそれを乗り越えて力に変えることが出来るのが本当の名ウマ娘達に求められる資質なのであろう──。  ---  ◆  パドックでの状態のお披露目も終わり、宝塚記念の出走ウマ娘達がターフの上に集っている。  出走を控えるウマ娘達それぞれにファン達は夢を乗せ、固唾を飲んで見守っていた。 「グランプリの舞台では、その性質上ファンからの期待が他のG1レースに比較してウマ娘達の双肩にのしかかりやすい。故にびっくりするような番狂わせや嘘のような大負けも大勝ちも起こりうる」 「トレーナーさん? どうしたんですか急に」 「最近トレセンのトレーナー達に回ってきた、ウマ娘の競争能力低下減少に関するレポートはファーゴにも渡して読ませただろう? ちょっとそのレポートのことをふと思い出してな」 【シニア級のウマ娘が直面する競争能力低下現象に対する仮説】と命名されていたそれは、精神的な負荷斤量がウマ娘の競争能力の低下を招くという斬新な視点による仮説と考察であった。  ウマ娘に関する研究の殆どは”ウマ娘には分からないことが多い”で締めくくられることもあって大半がオカルト染みている。  なので、読み飛ばしていいものが大半だというのが個人的な意見なのだが、最近出回ってきたそれの内容は実際にシニア級の担当ウマ娘を抱えるようになって、妙に真実味があるように思えてきた。 「勝ちを重ねるごとにファンからの期待が”重りを背負ったような負荷”になるというのは、なんとなくファーゴにも経験があるんじゃないのか?」 「ないといえば、嘘になりますね……」  理論として証明はできないがファーゴには三番人気以上になるとベストコンディションと比較して走りに精細を欠くというジンクスがある。  その裏付けとして、【シニア級のウマ娘が直面する競争能力低下現象に対する仮説】を照らし合わせると、成る程と思うものがあった。  ウマ娘は本人が許容できる期待をかけられすぎると能力が一時的に低下するという側面を併せ持つ。  逆に、精神的な成長や心身のコントロールによって心の許容量が増大して期待を昇華できるようになれば更に強くなることもできる。  第一線で活躍し続けているウマ娘達にはそれが自然と身についているものだが、どこかで均衡が崩れてしまうとそのまま競争生活の終わりに直結していくのだろう。 「その仮説、最近のドリジャが走りに精彩を欠いているのにも関係があると思いますか?」 「仮説が正しいとするなら決して無関係ではないだろうな。最近のドリームジャーニーはトレーナー達からこう評されている。  『まるで重りを抱えて走っているかのようだ。以前のような、闘争心が見られない』」 「……」  メジロファーゴのマブダチだというドリームジャーニー。一般通過アグネスデジタル曰く、『お二人はまるで恋人同士のようでした!』などと過剰に評されているのはと一旦おいておくとして。  ファーゴがクラシックを走っていた年に、先にデビュー済みでシニア級であったドリームジャーニーは春秋グランプリを制した。  小さな体躯に最大の栄誉を受けたあの年の彼女は無敵と言うにふさわしかったろう。  その次の年、同じようにシニア級に上がったファーゴとは宝塚記念と有馬記念で激突した。  宝塚記念では一着のファーゴ、二着ナカヤマフェスタ、三着ブエナビスタらに続いての四着とまだ力を見せる負け方をしていたが、有馬記念では十三着に終わった。 「前走の産経大阪杯(G2)では九着。グランプリでの復活を望む声も多いが。厳しいな……」 「勝ちますよ。トレーナーさん自身がさっき仰っていたじゃないですか、『グランプリの舞台ではびっくりするような番狂わせや嘘のような大勝ちも起こりうる』と。  クラシック級レースを走っていた時、僕はドリジャの走りに勇気づけられました。僕がダービーをロジユニヴァース相手に二着で負けた後……宝塚記念で勝ったドリジャは、  ウィナーズサークルでファン達に囲まれている中で、群衆の中に混じっていた僕を見つけて手招きしました。『何シケた面してるんだ、お前も早くこの大舞台に上がって来い』と、そう言われた気がしました……」 「ファーゴ……」 「そろそろ始まります。海外への出立前に見届けましょう、ドリジャの勇姿を」  ファンファーレが鳴り響き、出走ウマ娘達がゲートに入っていく。  そして、宝塚記念スタートの合図が切られた──。  ◆  《宝塚記念を制したのは古豪アーネストリー! ブエナビスタはこれで四度目のグランプリ惜敗──》  二分と十一秒余りの激闘は、古豪が念願のG1タイトルを獲得するという形で終わった。  出走前に顔を合わせていたトーセンジョーダンは九着、ファーゴが気にしていたドリームジャーニーは十着であった。 「フライトの時間も迫っているし、ウイニングライブまでは見ていけないが……」 「控え室にいるドリジャと話をしてもいいですか?」 「ああ」  言葉少なげにそうやり取りして、ドリームジャーニーの控え室に向かって行くファーゴ。  控え室の扉の前辺りまで来ると先客がいたのか、声が漏れてきていた。 「──そういうわけだからよ」  先客は妹のオルフェーヴルだろうか、なにやら誰かに話しているようだ。  ファーゴがノックでもしようと扉に手をかけ── 「アタシはもう引退すっからあとは頼むわ」  漏れ聞こえて来た言葉を聞いた瞬間ファーゴは扉を乱暴に開け放った。  トレーナーの自分でも見たことのないような表情で、耳を引き絞り、怒気をはらんだ声でファーゴは叫んだ。 「引退ってどういうつもりなんだドリジャっ!! 僕は何も聞いてない!!」 「そりゃあ、そうだ。今決めたからよ。見ただろう? アタシのレース」 「だからなんだ、それが引退にどうつながる? ちょっと負けることぐらい誰にだってあるだろう」 「”ちょっと”ねぇ……今や、飛ぶ鳥も落とす勢いのファーちゃんには長く走ったセンパイの話は難しかったか?」   話を聞くメジロファーゴは能面のような表情で佇んでいた。その心中を表情から察することはできないが、耳は相変わらず引き絞られている。  対称的なのはドリームジャーニーの方だ。怒っているファーゴと相対してなお、暴力的とも言えるギラついた闘争心のようなものが感じられなかった。 「黄金の輝きもいずれは褪せ消える。かつては、希望を持って踏み出した夢のような旅路、その一歩を踏み出すことさえ覚束なくなる。  レースを走る度に脚も身体も重くなっていく……もう終わるべき時が来たんだ。アタシにも」 「僕は認めない。ヒトを早く舞台の上に上がるように焚き付けておいて、自分だけ勝手に降りるつもりか? 僕が君の走りにどれだけ勇気をもらったと思う!」 「ちゃんと夢は見せてやっただろ? そしてもうお前は夢を見る側じゃなく、見せる側になったんだ。いつまで観客の気分でいるつもりだ”名優”さんよ」 「なら……賭けをしよう。ドリジャ」  メジロファーゴはドリームジャーニーを相手に宣言した。 「これから奇跡が起こったのなら、引退を考えるのをやめて来年も走るんだ。僕は”凱旋門賞”に必ず勝って帰ってくる。  かつて、君が僕をグランプリの大舞台に上がってくるように招いたように。舞台袖に引っ込もうとする君を呼び戻す! 特等席で僕の夢の旅路の続きを見ているといい」 「……」  一方的にそう担架を切ってファーゴは踵を返した。 「行きましょう、トレーナーさん。フライトの時間が迫っています」  ファーゴの後をついて自分も控え室から退室していった。 「バカヤロウ……余計な荷物をこれ以上背負っていくんじゃねえよ」  背後でドリームジャーニーが何事かをつぶやいた気がした。  人間の耳には聞こえなかったが、ファーゴの耳には届いただろう。 「君も……僕にとっての光だったんだ。こんな所で終わるだなんて赦さない──」  ファーゴも何事かをつぶやいた。ドリームジャーニーの耳にそれが届いたのかは自分には知りようがない。  退出した自分達はそのままメジロ家が用意したリムジンに乗り、空港まで送られていく。  ファーゴはスマートフォンを取り出して宝塚記念のウイニングライブの中継映像を見ていた。  選ばれしこの道を ひたすらに駆け抜けて  頂点に立つ そう決めたの  力の限り 先へ──  聞こえてくる曲の名前はNEXT FRONTIER。  先輩に追いつくため、後輩の先を走り続けるため、シニア級レースの頂点に立つと誓うウマ娘たちの決意の歌だ。  ここからは、一度頂点に立っただけでは終わらない。  今日勝っても、翌年新世代に追い抜かれるかもしれない。頂点に立ち続け、新たな記録を開拓し続けなければ王者とはいえない。  頂点を目指し、ひたすらに駆け上がった者だけが辿り着ける。衰えを知らない覇者のための舞台……NEXT FRONTIER。  衰えを自覚した覇者の終わりを否定するため、未だ衰えを知らぬもう一人の覇者が海の向こうへと旅立った。  その旅路の果てに待つのは夢と希望か、それとも敗北と絶望か……俺達はその結末をまだ知らない。  ただ、どんな結末を迎えようとファーゴがそれを後悔しないことだけを、彼女のトレーナーとして心から望んだ。  立ち止まり、座り込んでしまいそうな時、  誰もが君の姿を思い出す。  迫り来る終わりに抗い、永遠を求め、  歪んだ失望の囁きを掻き消すように  海の向こうへと旅立った君の姿を。  たとえ、希望や抱いた夢のすべてが崩れ去り、  理想や憧れでさえ変わり果ててしまったのだとしても、  与えられた結末に意味などないと、受け入れることはできないのだと  君は自身の終わりを迎えるその時まで叫ぶのだろう。  往く先は彼方、その先へと駆ける君の貴きその姿に  誰もが憧れた。  その夢のような旅路の行く末が、希望ある結末を迎えることを誰もが祈った。  ──メジロファーゴのトレーナー  7.バーデン大賞編 前編  これまでのあらすじ  クラシック級での菊花賞、シニア級一年目での天皇賞春、宝塚記念とG1レースを三勝し、  年末の有馬記念こそ惜敗に終わったものの、同世代のスターウマ娘に負けず劣らずの活躍をしたメジロ家のウマ娘メジロファーゴ。  年も明け、偉大なる先人メジロマックイーンの後を追うように天皇賞春の二連覇へと歩みを進めようした矢先、  メジロ家が競争ウマ娘界への選手への輩出を今後取りやめるという発表を聞いてしまう。  今や、トゥインクルシリーズ現役のメジロ家最後のG1ウマ娘となったメジロファーゴ。  思い起こされたのは、幼き日にメジロのおばあさまより言い渡された”終わり”を見届けよという言葉。  受け継いできた誇り、受け継ごうとしてきた歴史に”終わり”を突きつけられた彼女はメジロ家の禁を犯すことを決意する。  それは、メジロの総帥が禁じたとされる海外遠征。目指す先は仏のロンシャン芝2400mG1レース凱旋門賞。  いずれ訪れる終わりを座して待つより、最後まで抗うことを彼女は選んだ。  その脚がけに春の天皇賞の連覇を果たしたメジロファーゴ。  その目的はメジロの伝統を破る前に誰よりもメジロのウマ娘らしい実績を立てることで、海外遠征を周囲に納得させるためのものであったが、成果は決して芳しいとはいえなかった。  海外遠征について世間に賛と否が飛び交う中、それでも押し切って海外に行く所以は、名優と呼ばれた父親と幼き日に語らった夢の為。  フランスの地で映画俳優として賞を受けた父のように、自分も競争ウマ娘としてフランスの地で最高の栄誉を……。  それは、父のような名優になるという夢をほんの少し違えたカタチで叶え、受け継いでしまったことへの贖罪であった。  父との夢とメジロ家の栄光。  メジロアルダンと邂逅した際に胸に灯した、永遠を刻み証明するという自分の誇りと生き方。どれも軽んじたくはなかった、捨て去りたくもなかった。  全ては”終わり”に抗うために……。 『賭けをしようドリジャ。これから奇跡が起こったのなら、引退を考えるのをやめて来年も走るんだ。僕は”凱旋門賞”に必ず勝って帰ってくる』  出立前にファーゴは、親友ドリームジャーニーの宝塚記念を観戦し、引退をしようとするドリジャの進退を賭けて凱旋門賞に勝利することを約束した。  そうして、海の向こうへと発ったトレーナーとファーゴの二人は現地での調整を行い、凱旋門賞へのステップレースとしてバーデン大賞を選択した……。  --- 『トウカイテイオーが地の果てまで駆けて征くならば、私は天まで駆け昇ってみせますわ』  ──TM対決の合同記者会見の際、メジロマックイーンがトウカイテイオーに向けて言い放った言葉  ドイツ、ウマ娘トレーニングセンター学園、ゲスト宿泊宿舎にて。 「黒ビールに卵黄と蜂蜜を入れてシェイクしたものを下さい」  昔アニメで見て以来気になっていた飲み物をドイツでの朝食に注文してみるとちゃんと出てきた。  本当にあるんだこれ。日本で言う卵酒って所だろうか?  食欲がない時や病気の時に飲むようなものらしい。 「トレーナーさん。それ、飲むんですか?」  対面に座るファーゴがゲテモノを見るような顔で少し引いていた。  彼女の皿には山盛りのパンと色とりどりのジャムやペーストやハム、チーズにサラダと色彩が豊かだ。  食卓の見た目は可愛いのだが、量はウマ娘基準なのでえげつなく見える。 「こっちに来て以来ずっと食欲がなくて……なんでファーゴは平気なの?」 「元々メジロ家の食卓は洋風なことが多いのと、海外遠征前にシェフにドイツのトレセンで出されているような食事を作ってもらって慣らされていましたから」 「そっかあ、自分も仕事から家に帰れた時の朝食は洋風だぞ。シリアルに牛乳ぶっかけて食べたり、バナナやヨーグルトだけとかな。めんどくさければ全部ミキサーにぶち込んでスムージーだ」 「単にズボラなのか成人男性にしてはオシャレなのかどう受け取るべきなんでしょう」  無論、単にズボラな上に食が細いだけだ。  ウマ娘のトレーナーとして自分の食生活が死んでいるのはどうなんだと思わなくもないが、  同僚や同業は大体似たような目つきで似たようなことをしているので激務にさらされる社会人達の食卓の収斂進化の形だろう。  人生の悲哀を感じるね。 「自分の食卓事情は置いておくとして……イケそうか? バーデン大賞」  エッグビールを啜りながら、ズバリ切り出す。  今回、凱旋門賞へ向けたステップレースとしてドイツのバーデン大賞を選択したのは、凱旋門賞に時期が近いG1級のレースということもあるが、ドイツは2400m戦のG1レースが豊富ということも選択肢の一つでもあった。  故に2400m戦に特化した巧者達がひしめいていることだろう。そこの強豪とぶつかり合うことで、ペースを無理やり叩き込むつもりだ。  というか、日本のトゥインクルシリーズにおけるG1級の芝2400m戦があまりにも少ない。これでは、欧州の芝2400m戦の総決算である凱旋門賞に挑むのは余りにも心もとないのだ。  ファーゴはロジユニヴァースと判定まで競った不良バ場の日本ダービーを走って以来、2400m戦にほとんど縁がないのでなんとかしたいところであった。 「芝2400mの経験はあまりないので、時計を意識しながらスタミナを配分する他無いですね。こんなことなら、これまでのキャリアでジャパンカップも走っておけばよかったな……」  なんでこれまで一回もダービーと同じ芝2400mのジャパンカップに出さなかったのかって?  ファーゴと同世代のクラシック級三冠路線の子達が怪我と故障で離脱していったのもあって、大分ローテには余裕を持たせて慎重にしたのが理由だ。  菊花賞の後にジャパンカップなんぞ論外だからクラシック級の時は秋全休にしたし、シニア級一年目の時は秋天を走った後はジャパンカップはスルーして有馬記念に向けて調整するに留めた。  秋三冠に代表される王道レース皆勤なんて、やってみせた所で消耗して運良く一つは取れても他を全部取りこぼすだけだという冷徹な判断のもと下した決断でもあったが、ここに来てツケが回ってきたと言えなくもない。  例の絶景ちゃんが色んな意味でおかしいのであって秋三冠は一つでも取れる可能性がある子は皆勤なんぞしない。 「距離こそ同じだが、日本の芝2400mと洋芝での2400m戦はバ場の違いもあって参考になるかどうかって所だぞ。むしろ変なクセや先入観がない分順応しやすかったと思おう」 「僕、こっちの芝に適応できてますか?」 「適性がないというわけではないと思う。ファーゴのこれまでの戦績を考えるとバ場状態が悪くても勝ち負けに絡んでるし、スタミナもあるから多少は能力でゴリ押せると思う」 「道悪巧者ってほどでもないんですけどね。マックイーンは得意だったようですが」  おかしいな、会話しながら食べているはずなのにファーゴの皿に盛られた山盛りのパンが既にだいぶ消えている。  このままでは朝食ダービーに大差勝ちをされてしまうのでエッグビールの残りをさっさと飲み干した。 「とにかく! これから最終調整にはいっていくぞ! 日本から取材に来ている記者共を軽くあしらってからトレーニングコースに向かう!」 「言い回しに棘があるのでもうなんとなく分かってますけどトレーナーさんってマスコミが嫌いだったりします?」 「うん、きらい」  ファーゴに苦笑いされたが、自分はメジロファーゴという外付け良心回路でなんとか善性を保っているので、その化けの皮を嬉々として突っついて剥がそうとしてくる類の人間は敵である。  ◆  ファーゴと共にトレーニングコースに移動し、日本からはるばる取材にやってきた記者団を受け入れた。  公開トレーニングという形でファーゴの状態をお披露目するのが目的だが、その前に少々の取材を受け入れる時間を設けた。 「メジロファーゴさん! ズバリバーデン大賞には勝てそうですか!?」 「海外での初戦となりますので、日本のレースほど思うようには走れないとは思いますが、現地の強いウマ娘達の胸を借りるつもりでいます」 「日本のレース界隈は凱旋門賞の制覇を至上の夢とする割にトゥインクルシリーズにはおいては同じ距離の2400m戦のG1が少ないのはどうかという見方もありますが、現役のウマ娘としてこの状況をどうお考えでしょうか?」  おいそこ、戦争と議論の火種をファーゴに放り投げるんじゃない、URAに持っていってくれそういう話は。  営業スマイルを作って困った質問を投げかけてくる記者の間に入る。 「日本のトゥインクルシリーズにおける主要なレースが行われる距離とコースに要求される適正は現状のままでも、あらゆる適性と能力を持ったウマ娘を選抜し、能力を高めていく場として十分に機能していると私達は理解しております。  トゥインクルシリーズに2400m戦のG1レースが少ない、もしくはウマ娘個人に出走経験がないと言うだけで海外の2400m戦に適正なしと判断するのはいささか早計かと……」 「では、メジロファーゴのトレーナーさん。貴方はメジロファーゴのトゥインクルシリーズでの戦績を何を以ってして欧州の芝2400m戦に挑む価値ありと判断したのですか?」  君、どうしてこんな所に来たの?  怒らないで聞いてくださいね、この記者会見は一応メジロファーゴの海外遠征を歓迎している記者達を受け入れてるんですよ。  なのに、URAの体制やこっちの陣営を愚弄するような発言ばかりぶち込んできてバカみたいじゃないですか。  もうちっとあらゆるものへのリスペクト精神を養ってから来てくれやと言いたいが、ここは元々ファーゴの成果を見せる場でもあるので見せつけることとしよう。 「もちろん、それを公開する場ですのでしかと成果を御覧ください。ファーゴ、ストレッチの後コースを2400m走ってきてくれ」 「分かりました!」  軽いストレッチを済ませた後、コースの上にファーゴは移動していく。 「キャリアを重ねて身体が出来上がってきたなあ。早熟や早枯れと言われてしまうウマ娘は多いが、彼女はマックイーンのようにまだ強くなってるんじゃないか?」 「マックイーンかあ……斜行で膠着した秋の天皇賞じゃ雨の道悪をものともせずに速さが要求される東京レース場に対応してみせたことだし、欧州を走ってもらいたかった所だ」 「その夢の続きがこれから見られるんだ、我先にスクープ記事を本社に持ち込みたいところですね。もちろん、第一面でね!」  さっきのお行儀の悪い記者以外は口々にファーゴの様子や一挙手一投足に食い気味に感想を言い合ったり雑談を交わす。  こうなると誰もがただのファンだ。  やがてファーゴが走り出すと取材に来たことなど忘れて見入っている。 「半分を通過したぞ! このタイムは!?」  タイマーを持っていた記者が半分を通過した時点でのタイムを見て驚いている。  それもそうだろう、いまファーゴが走っているコースは少しばかり状態が悪い。現地で言うところの重バ場発表といったところだ。  それをこれだけのペースで通過して後半にかけてスパートの準備を始めているのだから、驚きもするだろう。  並走する相手がいればもう少し実戦に近づいたが、洋芝の2400m戦の適性はトレーニングレベルでは文句なしと言っていい。  これだけ走れるのならG1級のレースでも五分以上に渡り合えると確信している。 (後は実戦でかかるプレッシャーをどう受け流すかだなあ……)  現時点でバーデン大賞への参戦を表明しているウマ娘達はファーゴを含めて七人。前年のバーデン大賞の覇者ナイトマジック、前走でナイトマジックらを下してベルリン大賞を制したデインドリーム、ドイツのダービーを制したヴァルトパルク。  現時点でのドイツの芝2400m戦の強豪とされるこの三人は間違いなく容易ならざる相手だろう。  これまでのキャリアで独オークスとバーデン大賞を制して来た女王ナイトマジックに対して、駆け上がりつつある新たな女王デインドリームが世代交代を突きつけるか、はたまたダービーウマ娘が強さを見せつけるか。そんな中にアウェーで割って入っていかねばならない。 「走ってきましたよトレーナーさん」  思索にふけっているうちにファーゴが走りきって戻ってきた。  咳払いして、記者達に声をかける。 「いかがでしたか? メジロファーゴは、日本のウマ娘の強さを海外に証明するに恥じないパフォーマンスを十分に発揮しています。  此度、我々が巌流島に送り出した剣豪”ムサシ”は必ずや決闘を制することでしょう」 「おぉ……!」  かつて海外に、凱旋門賞へと挑戦したメジロ家のウマ娘のことを言外に含ませて言ってみせたが、ちゃんと伝わったようだ。 「皆様。元よりメジロ家は、日本のレース文化の発展の為に古くから貢献してきました。その手段として国内のレースに、もっとも格式高い王道である天皇賞に注力してきたのは事実ですが、かつて敗れた夢を、世界の頂点を目指し天へと駆け上がる夢を諦めたわけではありません。  国内のレース文化とウマ娘達の実力が十分に成熟した今、より格の高い最高のレースを制し高みに導くことこそがメジロのウマ娘としての使命だと、僕は認識しています」  ファーゴがこちらの発言に続いてそういった。  実際の所、本人の内心はもっと複雑なところにあるのだが外向けのスピーチとしてはこれでいい。  メジロ家として成すべきことも、本人の夢も、親友との誓いも。全てはつながっているのだから。 「メジロファーゴさん、あなたは強い。間違いなく現在のトゥインクルシリーズにおける最強のウマ娘の一人でしょう。ステイヤーとしてならば、歴代の優駿達にも決して劣らない。  もし、京都レース場の芝3200mで最強のウマ娘を決めろと言われたのであれば、私はその出走メンバーの一人としてあなたの名前を挙げることでしょう」 「恐縮です」 「しかし、それでもなお世界の頂への壁は高く、そして厚い。イカロスはいたずらに天を目指したがゆえに陽の光に翼を焼かれ……そして地に落ちました」  しかし、やたら食って掛かってきていた例の記者が、周囲にギョッとした目で見られながらも言葉を紡ぐ。  天を目指し、地に落ちた男……人の傲慢さを戒める意味合いでよく引用されるイカロスを引き合いに出してきているのは喧嘩を売っているとしか思えない。  つまみ出すために割って入ろうかと思ったが、ファーゴに目で制される。代わりに彼女が前に進み出て、食って掛かってきている記者の男の前に立った。 「仰っしゃりたいことがあるのであれば伺いましょう……その為に設けた場です。忌憚のないご意見をお聞かせください」 「では、言わせていただきます。ですがその前に、誰もが最強を信じ”英雄”とまで呼ばれたウマ娘のことは知っていますか?」 「誰もがまっさきに思い浮かべるであろうかの三冠ウマ娘のことを言っているのであれば、当然知っています」  デビュー戦。若駒ステークス。弥生賞。皐月賞。東京優駿。神戸新聞杯。菊花賞…7戦7勝の無敗の三冠ウマ娘。  デビュー時からの強さと才能に、誰もが熱狂し、最強の夢を見た。トゥインクルシリーズに深い衝撃を齎したその子は、多くの夢を人々に与えた。  彼女が凱旋門賞へ挑戦すると発表した時、誰もが勝利を信じただろう……彼女が勝てぬのであれば、他の誰が勝てるのだと。 「なら、彼女が凱旋門賞へと挑戦し破れた時、世間がどうなったかはご存知のはずです」  しかし、その夢は叶うことはなかった。  誰もが信じた”最強”が敢え無く敗れ去ったその時の空気は筆舌に尽くし難く、希望と夢はそのまま絶望と諦めへと変わった。 「私はあの時の醜い人々の姿を知っている。希望と声援を持って送り出しておいて、負けた途端に手の平を返して罵声を浴びせるか、偉大であるはずの挑戦それ自体でさえも忘却していく人々の姿を。凱旋門賞の制覇など、日本のレースに携わるもの達の身勝手なエゴでしか無い。  だからこそ、人々が海の外での偉業や成果に熱狂する時代となる前から、古くから国内を盛り立ててきたメジロ家とそのウマ娘達のことが私は誇らしかった、応援し続けていた。日本のウマ娘とは、彼女達のことを言うのだと、そう思い続けてきました」  海外遠征への姿勢についてどうあるべきかというのは、メジロ家としては公式なコメントを出してはいない。ファーゴの遠征についても、ファーゴ個人とそのトレーナーの判断任せているの一点張りだ。  国内のレースを盛り立てるのも、日本のトゥインクルシリーズを走るウマ娘を送り出す名家であるのなら全てが当然の使命として理解し実行していること、メジロ家だけがそうしているわけではない。  詰まるところ、雄弁に語るこのいけすかない記者もまたメジロ家とメジロファーゴのファンなのだ。 「メジロファーゴさん、その意思を受け継ぎ体現するあなたこそが日本一のウマ娘だと私は思っています。だからこそ、私はそんなあなたが海外の地で力及ばず敗れるところなど見たくありません。あなたが尊敬しているであろうメジロマックイーンは天まで駆けていくウマ娘と呼ばれていました。しかし、だからこそ地に堕ちた時、堕された時の痛みは計り知れないということもあなたはよく知っているはずです」 「ちょっとあんた、いい加減にしないか! こんな場所に来てまでする話か!」  呆気にとられていた他の記者達が我に返って自発的に男を抑えにかかりはじめた。  あの記者が投げかけてきたことは、海外遠征を行う際にずっとファーゴのファンから投げかけられてきた言葉そのものだ。 『どうか国内で夢を見せ続けてほしい』 『敗れてコンディションを崩して引退につながる子も多いし……』  と、幾千幾万のものの人々から繰り返し問われ続けたものだ。男の言葉に静かに耳を傾けていたファーゴは、他の記者達に抑えられている男に歩み寄って口を開いた。 「あなたの僕のファンとしての気持ちは良くわかりました……あなたなりに、僕の身を案じていらっしゃることも」 「挑む前から敗れることを前提にした無礼な言葉を投げかけたことはお詫びします。ですが、これもあなたを応援する一部のファン達の偽ることのない本心です。だからこそ、考えてはいただけませんか? 次走の結果が芳しく無ければ、傷が浅い内に凱旋門賞への挑戦を取りやめて帰国することを」 「申し訳ありませんが、それは罷りなりません」 「……それは、トレーナーの意向や指示の為ですか!」 「僕のトレーナーさんは関係ありませんよ。むしろ彼の本心では貴方のような理由で反対をしたがっていた所を僕の方が押し切りました」  元々ファーゴは今日に至るまで何度もインタビューや公式なコメントを出してはいたのだが、それでもトレーナーに言わされているのだという声は根強かった。  それらを今、はっきりとファーゴは否定した。 「なぜ、そこまでしてまで遠征を強行したのかとあなたは思うでしょう。答えはあなた自身が既に言っている。『古くから国内を盛り立ててきたメジロ家とそのウマ娘達のことが私は誇らしかった』と。  メジロ家がレースの世界から退くことを決めたこの時に、失態を恐れて何の挑戦もせず、座して終わりを迎えることがあなたの言う誇らしいウマ娘の在り方ですか?」 「それは……」 「あなたが天まで駆けていくマックイーンを引き合いに出したのならば、僕も同様に応えましょう”この座は譲れない”のだと」  聞こえてきたのは退陣を迫る民たちの声、帝位を狙う若き勇者の足音。ファーゴが引用したのはURA名ウマ娘の肖像のメジロマックイーンに贈られた詩文の題名だ。  かつて、メジロマックイーンは天皇賞の春秋の連覇を期待されながらも、それを叶えることは出来なかった。しかし、それでも彼女は地の果てまで駆けていく若き帝王を下し、天まで駆けていった。  恥じて、叱って、進み続けた……その彼女の姿を知るものが多くいればこそ、失態を恐れ立ち止まるメジロ家最後のウマ娘の姿を見たいと思う者はいないのだと、ファーゴは言ったのだ。 「故に……たとえ、この先無様に敗れる未来が待ち受けていたとしても。たとえ、メジロの名が未来において消え失せていようと。挑戦して名を残さずして、日本のウマ娘達のレース文化の礎を築く為に走り続けた一族の末裔だと名乗ることなど出来はしない。  この場にいる他の方々も、どうか聞いて下さい……マックイーンが天まで駆けてみせたなら、僕は世界の果てまで駆けてゆく!  その程度のことをやって見せずして、メジロ家最後のウマ娘を名乗ることなど出来ないのだという、不退転の決意を持って僕はここにいるのだと。そのことを理解して、今日はお帰りいただきたく思います」  ファーゴは力強くそう言い切ってみせた。生の感情をぶつけてきた記者の男に対して、彼女もまた言葉を飾ることのない偽りなき決意をもって応えた。  こうして、波乱もあった公開トレーニングとそれに伴うインタビューは終わりを迎える。  ◆  後日、トゥインクルシリーズの海外特集においてメジロファーゴの記事が載っているのを見ることとなった。  見出しタイトルは【マックイーンが天まで駆けたなら、ファーゴは世界の果てまで駆けていく】  空の果てから遍く世界へと旅立ったメジロ家のウマ娘、メジロファーゴについてびっしりと文字が並んでいる。 「書いてんのは例の記者か。脳を焼かれてるってこういうのを言うんだろうな」  ファーゴが上手いこと受け答えして場を収めたから良かったものを、まだ十代の少女相手に投げかけるべき言葉や話じゃないだろうと一個人としては冷めた気分で記事を見つめていた。  それにしても、デビューさせた時はまだ中等部で幼さが残る子供だったのがここ最近は下手な大人よりもよっぽど人間が出来てきて寂しく思えてくる。  走ることをただ楽しみ、同世代と競い合うことに青春を燃やしたあの時の少女の姿は今や遠く、今ではメジロ家と日本のウマ娘という矜持と使命を背負って世界の舞台に立とうとしている。  今目にしているこの記事のように、格好のいい外面だけを見て今の彼女の姿を讃えるのは素の彼女を多く知っているトレーナーとしては複雑な気持ちだ。  誰かの光であろうと振る舞うファーゴの姿が時折痛ましくも見える時もあるのだ。そんなことを考えているとファーゴが肩越しに覗き込んできくる。 「あの記者さんが脳を焼かれてるだなんて、まるでトレーナーさんはそうではないような言い方ですね?」 「トレーナーはいつでも冷静でいなくちゃいけないの。担当ウマ娘が勝とうと後方で腕組んで黙って頷いてるもんだ」 「僕が菊花賞でやっとクラシックの一冠を戴冠した際に、泣いていた男の人の言葉とは思えませんね」 「泣いて当たり前だ、あの時に自分の担当ウマ娘が世代でもっとも強いと証明できたんだ。そして、これからは世界で一番強いと証明しに行く」  ファーゴの手に拳を合わせた。  自分自身は大根役者かも知れないが、この子一人で舞台の上を躍らせたりなどしない。真の名優は、周りを引き立てる。しかし、周りから引き立てられずして舞台も脚本も成り立たないのだ。 「その手始めに勝ちに行くぞ、バーデン大賞!」 「はいっ!」  託された祈りと決意を胸に秘めて、バーデン大賞の日が間もなくやってくる。 『この座は譲れない』  聞こえてきたのは 退陣を迫る民たちの声  帝位を狙う若き勇者の足音  だが私の中ではプライドが まだ燃え続けていた  この座を守るために もう信頼に背くまいと  心に固く誓った その証がこれだ  天まで駆け昇る我が姿だ  ──URA「名ウマ娘の肖像」メジロマックイーンより(※JRA名馬の肖像からの引用)  8.バーデン大賞編 中編  これまでのあらすじ  凱旋門賞への出走を目的としたメジロファーゴの海外遠征。  そのステップレースとして選択したドイツの芝2400mG1バーデン大賞の日がやって来た。  現地でのトレーニングの成果は極めて良好、洋芝においてもメジロファーゴは好走すると確信したメジロファーゴのトレーナーは自信を持ってファーゴをレースに送り出す。  しかし、その二人の前にドイツ最強の座へと駆け上がろうとしている小さな女王デインドリームが立ちはだかろうとしていた。  ---  むかし、むかしある所に。ドイツの小さな村に住むウマ娘がいました。  まだ小さいうちからあちこちを泥だらけになりながら元気に駆け回る彼女は、やがて地元の小さなレースにも参加して走るようになりました。 「地元の小さなレース場で元気に走ってくれればいい」  そう、両親に願われて彼女は少しずつ大きくなっていきました。  ある日のことです。  両親の仕事の手伝いを終えて家に帰ると、母親がスーツを来た男と話しているのが見えました。  その時は特に気にもとめずにいたのですが、その日の夜。中々眠れずに起きてしまった彼女の耳に両親の話し声が聞こえてきました。 「あの子をドイツのトレセン学園に迎えたいと昼間来た方が……」 「しかしお金が……」  なんて夢のない話だと彼女は思いました。  すぐそこにチャンスはあったのに、それに挑む権利すら自分にはなかったのです。それでも、優しい両親のもとに生まれてこれたことに彼女は満足していました。  次に飛び出してくる両親の言葉を聞くことさえなければ…… 「あの子に小さな夢一つ持たせてやれないだなんて、私達のもとに生まれていなければもっと……」  眠りにつこうとしていた頭に一気に血が巡り、頭の中を強烈な感情と想いが支配しました。  許せなかった……両親に情けないなどと思わせてしまうことが! ささやかな幸せと夢で満足しようとしていた自分の小ささが!!  彼女は、自分ができることを模索し始めました。そして、簡単な解決方法を見つけのです。  お金がないなら持っている人から出してもらえばいい。あるいは制度を利用すればいいのだと。  世界各国のトレセン学園では出身の国と所属する国が違うことは珍しいことではありません。  なにせ日本のトレセンでも、アメリカ人やドイツ人のウマ娘が日本のウマ娘として所属しているのです。  優秀なウマ娘が金銭的な問題で埋もれることのないように、世界中で介助援助する仕組みもありました。  そうして、日本のURAの有力者からお金を援助してもらうことが出来た彼女は、無事ドイツのトレセン学園に入学することが出来たのです。  めでたし、めでたし……  ---  ドイツ、バーデン・バーデン市、バーデン・バーデンレース場。  またの名をイフェツハイムレース場とも呼ばれるそこは、ヨーロッパ有数の温泉地でありドイツ屈指の保養地であるバーデン・バーデン市に存在する。バーデン・バーデンにおいては、夏に年一度のレース開催が行われておりバーデン大賞はそのメインレースとして創設された。  以来、国際開催としてフランスやオーストリア、ハンガリーなど幅広い国の競争ウマ娘が集うレースとなっており、誰もが知っているハンガリーの伝説の名ウマ娘キンチェムが三連覇をなしとげたことでも有名となった。  当初は3200mで行われていたが、後年距離を短縮し2400mとなり、この距離は凱旋門賞にも採用されシニア級のウマ娘の国際レースにおける標準的な距離カテゴリとなった。  日本においてもダービーやジャパンカップに代表される2400m戦、「SMILE」と言われる五つの距離区分の「L」長距離レースに分類されるそれはまさしく世界最強がしのぎを削りあう距離なのだ。  レースの高速化、それに伴ってマイル戦が主戦場となりつつある近年のウマ娘達のレース事情において、かつて程の花形ではなくなって来てはいるが、この距離を走り勝利できるウマ娘達が強いという事実を疑うものはいないだろう……。  《日本の競争ウマ娘ファンの皆様、今年もこの時期が近づいてまいりました。日本のウマ娘達が世界最強に挑戦するシーズン、凱旋門賞の時期が!  今回、特別枠を設けて海外のレース映像の放映と現地中継の映像を見つつ私、赤坂が実況をさせていただきます。今年、日本から凱旋門賞へ挑戦するため出発したナカヤマフェスタ、ヒルノダムール、メジロファーゴの三人。  その内の一人、メジロファーゴが前哨戦として参戦するドイツの国際競争、バーデン大賞です!》  日本のトゥインクルシリーズにおいてはおなじみ、実況の赤坂アナウンサーが現地の中継映像からパドックに現れるウマ娘達の紹介を行っていく。  現地の解説や実況と大きな乖離することがないように、同時通訳と字幕文章が映像下部に表記されていた。  《七人のウマ娘が出走する今回のレース! 一番人気、ヴァルトパルク。今年のドイチェスダービーを制したクラシック級、ドイツのダービーウマ娘です。  二番人気、デインドリーム。前走のベルリン大賞で前年のバーデン大賞の覇者、ナイトマジックを下してドイツ最強決定戦に名乗りを上げました。こちらもクラシック級、彼女はティアラ路線を進んできました。  続きまして三番人気、メジロファーゴ。日本のトゥインクルシリーズファンの皆さまは御存知の通り、春の天皇賞の連覇を果たし現在の最強ステイヤーと名高いメジロ家のウマ娘です。  初の海外戦にも関わらず、他の強豪を抑えて現地での三番人気へと推されました。四番人気にナイトマジック、前年のバーデン大賞覇者です。デインドリームへのリベンジを果たすか、世代交代をつきつけられるか現地でも注目が集まっています──》  G1級のレースに凡庸な出走者など誰一人としていない。そうだと分かっていても、毎度のように錚々たる顔ぶれのようにメジロファーゴには感じられた。  風光明媚な光景取り巻くバーデン・バーデンレース場は出走する競争ウマ娘達のレースへと向けたエネルギーが満ちていき、今にも爆発しそうな雰囲気にある。  パドックでのお披露目を終えて、舞台裏に引っ込むと誰かが歩いて来る。パドックでデインドリームと紹介されていた子だった。 「メジロファーゴ、あなたの活躍はよく知っている。ニッポンの皇帝の名を関するレースを二度制覇したということも。ニホン最強のステイヤーと名高いあなたと戦えるのは嬉しい限りだわ」  デインドリームは握手を求めてきたのでファーゴも応じた。 「ありがとう、君もクラシック級にしては随分パドックで落ち着いていた。そういう子は決まって大成する。あと日本語が上手だね」 「実はワケあって、私は日本のトレセンやURAと無関係というわけじゃあないの。実はこのレースに勝ったら日本の秋華賞に来ないかって言われててね」 「秋華賞に? 君が?」  どういう関係でドイツのウマ娘であるデインドリームが日本のティアラ路線の秋華賞にわざわざ招待されるのだろうとファーゴは思ったが、デインドリームは続ける。 「でも、私はもっと上を目指したいの。あなたがここに来た理由と同じようにね」 「……君も、凱旋門賞を目指しているんだ?」 「自分こそが頂点だと手っ取り早く証明するなら誰もが目指すべきレースよ。特に欧州ではね。”もし”私が制覇出来たなら、ドイツに生まれたウマ娘で初めての偉業になる。初めて成す偉業は何物にも代えがたい栄誉だわ……そうは思わない?」 「よく分かるよ。僕もそのつもりで来た、だからこのレースも勝たせてもらう」 「ええ、喜んで迎え討たせてもらうわ。私も、このレースに勝ってドイツ最強に名乗りを上げるつもりだから」  短い会話ではあったが、両者の間にはこれから競い合う者同士の闘志が張り詰めている。  やがて、デインドリームの方が踵を返した。 「良いレースにしましょう」  そう言い残してデインドリームは立ち去っていった。  ◆  メジロファーゴと別れた後、本バ場入場の呼び出しが来るまで控え室に戻っていようと思ったデインドリームを待ち伏せていたウマ娘がいた。  前年のバーデン大賞の覇者、そして前走のベルリン大賞でデインドリームに敗れたウマ娘ナイトマジックだ。 「フンッ あなたなんかに世代交代なんて認めるわけがないでしょう! 半分日本のURAに媚びへつらっておいて、ドイツの代表ヅラさせてなるものですか!」  ブチリ。と、デインドリームの何かが切れる音がした。  前半はまあいい、後半だけは頂けない。 「はいっ、世代交代確定。ぶっつぶしてさしあげますわ。センパイ」  言葉で火がつく…!!生殺与奪の権は、我に有りとデインドリームはにこやかな笑顔で応じた。  流石にナイトマジックと殴り合うところまではいかないが、メジロファーゴもろとも絶対レースで叩き潰すと決めた。  デインドリームはこの時点では10戦3勝、ドイツにおいてもそれほど注目される存在では無かった。  しかし、あまり期待されていなかったウマ娘がある時期を境に突然目覚めて頂点に立つと言う事例はウマ娘の歴史上において皆無というわけではない。クラシック期の夏になってから突然に開花した彼女の才覚はまさしくその稀なケースであった。  後年、ドイツのシービスケットと渾名されることとなる彼女のシンデレラ・ストーリーの始まりを決定づけたのはまさしく、このバーデン大賞からであった。  9.バーデン大賞編 後編  これまでのあらすじ  クラシック級での菊花賞、シニア級一年目での天皇賞春、宝塚記念とG1レースを三勝し、  年末の有馬記念こそ惜敗に終わったものの、同世代のスターウマ娘に負けず劣らずの活躍をしたメジロ家の名ウマ娘メジロファーゴ。  年も明け、偉大なる先人メジロマックイーンの後を追うように天皇賞春の二連覇へと歩みを進めようした矢先、  メジロ家が競争ウマ娘界への選手への輩出を今後取りやめるという発表を聞いてしまう。  今や、トゥインクルシリーズ現役のメジロ家最後のG1ウマ娘となったメジロファーゴ。  思い起こされたのは、幼き日にメジロのおばあさまより言い渡された”終わり”を見届けよという言葉。  受け継いできた誇り、受け継ごうとしてきた歴史に”終わり”を突きつけられた彼女はメジロ家の禁を犯すことを決意する。  それは、メジロの総帥が禁じたとされる海外遠征。目指す先は仏のロンシャン芝2400mG1レース凱旋門賞。  いずれ訪れる終わりを座して待つより、最後まで抗うことを彼女は選んだ。  その脚がけに春の天皇賞の連覇を果たしたメジロファーゴ。  その目的はメジロの伝統を破る前に誰よりもメジロのウマ娘らしい実績を立てることで、海外遠征を周囲に納得させるためのものであったが、成果は決して芳しいとはいえなかった。  海外遠征について世間に賛と否が飛び交う中、それでも押し切って海外に行く所以は、名優と呼ばれた父親と幼き日に語らった夢の為。  フランスの地で映画俳優として賞を受けた父のように、自分も競争ウマ娘としてフランスの地で最高の栄誉を……。  それは、父のような名優になるという夢をほんの少し違えたカタチで叶え、受け継いでしまったことへの贖罪であった。  父との夢とメジロ家の栄光。  メジロアルダンと幼き日に邂逅した際に胸に灯した、永遠を刻み証明するという自分の誇りと生き方。どれも軽んじたくはなかった、捨て去りたくもなかった。  全ては”終わり”に抗うために……。 『賭けをしようドリジャ。これから奇跡が起こったのなら、引退を考えるのをやめて来年も走るんだ。僕は”凱旋門賞”に必ず勝って帰ってくる』  出立前にファーゴは、親友ドリームジャーニーの宝塚記念を観戦し、引退をしようとするドリジャの進退を賭けて凱旋門賞に勝利することを約束した。  そうして、海の向こうへと発ったトレーナーとファーゴの二人は現地での調整を行い、凱旋門賞へのステップレースとしてバーデン大賞を選択した。 『私は古くから国内を盛り立ててきたメジロ家のウマ娘達が誇らしかった。そのメジロ家のウマ娘であるあなたが海外の地で力及ばず敗れる姿など見たくありません。どうか今からでも凱旋門賞への出走を考え直して下さい』  ドイツに到着し、バーデン大賞へ向けて調整を進めていく中で、日本から駆けつけてきた記者団の中にメジロファーゴの海外遠征に懐疑的な記者が混ざり、少々の悶着が起こる。  男の言葉は、メジロ家のウマ娘として凱旋門賞へと挑戦することを決めたその時から、幾千幾万の人々から繰り返し問われ続けた声の代弁であった。彼女の身とキャリア、メジロ家のウマ娘としての名誉を案じるその声に対し、ファーゴは正面から受けて立ち応えた。 『メジロ家がレースの世界から退くことを決めたこの時に、失態を恐れて何の挑戦もせず、座して終わりを迎えるウマ娘があなたの言う誇らしいウマ娘の姿ですか? マックイーンが天まで駆けたというのなら僕は世界の果てまでも駆けて見せる!』  ファーゴの不退転の決意、その身に宿した貴顕の使命を果たすべく邁進する貴き姿は海外遠征に対して懐疑的な記者の胸を打ったのである。  そうして、メジロファーゴの凱旋門賞挑戦のための海外遠征、その前哨戦として選択したバーデン大賞がいよいよ始まろうとしていた。  迎え討つは、夏を超えてウマが変わったかのように才能を開花させた新進気鋭の女王デインドリーム。  勝つのは……貴顕の使命をその身に宿した、ターフを駆ける芦毛の名優か。それとも……シンデレラのごとく様変わりし、頂への階段を駆け上る最中にある新世代のドイツの女王か。  二つの夢と走りが、バーデン・バーデンの地で激突する!  --- 『マックイーンは長距離を走りなさい。ライアンは末脚のキレを、パーマーは根性を磨きなさい。ドーベルは心の強さを、アルダンは覚悟を磨きなさい。そして、ブライトは……みんなをよく見ているように。最後にファーゴ。あなたは終わりを見届けなさい』  ──メジロ家の才能あるウマ娘達を集め、それぞれに言葉を言い渡すメジロのおばあさま  メジロファーゴのバーデン大賞の出走前、メジロ家の屋敷。  幾つかの別荘や保養地、私有地を有しているメジロ家の本邸は羊蹄山の麓にあり、広大な庭園を持つ大豪邸であった、  この地は、メジロの名のあるウマ娘達にとっては幼少期を過ごした場所であり、そして帰る場所でもある。  羊蹄山の深雪の中に我らの始祖は降り立った。其は"母なる山"を起こし、慈愛に潤った大地からは"巨人"が生まれ、やがて全ての子らが目覚め始めた。と、メジロ家の伝承にあるようにこの地は彼女達の祖先が降り立った場所であり、特別な地であった。  メジロファーゴもトレセン学園入学にあたって府中近郊にやって来るまではこの地で幼少時代を過ごし、他のメジロのウマ娘達と生活を共にしていたのである。  さて、そのメジロの本邸に住まうもの。メジロのウマ娘達から”おばあさま”、使用人達からは大奥様、外からはメジロ家の総帥と呼ばれる老婦人は芦毛のウマ娘に話しかけていた。 「当主代行のようなことをさせて、あなたには苦労をかけますねマックイーン。私は、昔ほど身体の自由が効かなくなってきました。みなに走るようにとレースの世界に駆り立てておきながら……因果なものです」 「いいえ、どうかご自愛なさって下さいおばあさま。多少身体を悪くした所で何を弱気になっていらっしゃるのです。以前のように威厳溢れた姿をどうか早く取り戻してくださいませ」  花瓶の花を取り替えてやりながら、メジロ家のウマ娘メジロマックイーンはベッドで身体を起こしているおばあさまに向かって話しかけていた。  表情にはおくびにも出さないがマックイーンは感じ取っている……おばあさまは老いてしまったと。  彼女はマックイーン達が幼少の頃から既にメジロの総帥の地位にあり、メジロ家とそれに連なる一族を率いてきた。時に畏怖されることもあれど、敬愛すべきおばあさまである。  それがいつの頃からだろうか、彼女の目がメジロ家の総帥から孫や子達を見守る老婦人のそれになり、その変化に伴ってメジロ家から才能あるウマ娘を送り出す頻度は減っていった。  そして、トゥインクルシリーズにおいて輝くメジロのウマ娘が減るたびに、もたらされた栄光と栄誉が過去の物となる度に、彼女は日に日に老いていった。 「あちらに飾られている四つの盾をご覧になって下さいな。うち二つは私がメジロ家にもたらしたもの、そしてもう二つがファーゴがメジロ家にもたらした春の盾ですわ」 「そうでしたね……あなた達は本当によくやってくれました」  来るべき時を覚悟しなければならないのだと、メジロ家のウマ娘達がおののく中で転機が訪れたのは、幼き日に呼び集められた中でもっとも遅くにトレセン学園に入学し、もっとも遅くデビューしたメジロファーゴのトゥインクルシリーズが決まった時からだった。  ダービーを惜しくも逃したファーゴがもたらしたクラシック三冠の最後の一つ、菊花賞の勝利というメジロにとっての久方ぶりのG1勝利の栄光……続いてメジロ家の悲願である春の天皇賞の勝利、誉れ高きグランプリレースの宝塚記念の制覇。  メジロ家の至宝に数えられたマックイーンが再びターフの上に帰ってきたかのような快進撃に、メジロのウマ娘達は沸き立った。同時に、老いていくばかりであったおばあさまにも活力と生気が戻りつつあった。 『これならば、有珠山が噴火するようなことがない限りメジロは安泰』だと、誰もが思った。  しかし、当主の口から告げられたのは誰もが予期した再びの黄金時代を否定するかのようなレース界から撤退宣言である。  一族の誰もが疑問を感じながらも従うか、内心の反発を燻ぶらせる中でマックイーンは自らの役割を自覚していた。 (誰も真意を聞けぬのであれば、私が問いたださなければなりません。ファーゴ、今なお走り続けている私達の末の妹分の為にも)  マックイーンは居住まいを正し、問いかけた。 「おばあさま。私のことをよくやったと、そう仰ってくださるのでしたら……なぜこれからも頼むと言ってはくださらないのです? 私はそれほどまでに不甲斐ないウマ娘でしたか?」 「意地の悪い問いかけをしますねマックイーン。あなたのことを不甲斐ないと言えば、メジロのほとんどのウマ娘が靴を置かねばならないでしょう」 「ファーゴがいながらも、メジロ家がトゥインクルシリーズへのウマ娘の排出を今後取りやめると決定したのは、私達に未来を託せぬと……そう言ったのと同然です。ブライトに託した、今は勝てずとも数十年後にはメジロが勝つというメジロ家の大計も水泡に帰すことでしょう」  そう、メジロ家の血と特性が色濃く出たメジロブライトに今まで積み重ねてきたメジロの走りの全てを託し、未来へと繋げていく。  それこそが、高速化が進み環境が目まぐるしく変わっていく現在のトゥインクルシリーズの状況に対してメジロ家が出した答えであり、未来へと繋ぐために置く布石、長期に渡る大計である。  勝つことだけを追い求め、今までの積み重ねを放棄することは容易いこと、しかし未来でそれらを再び求められた時にメジロ家からメジロの走りが失われていたのでは意味がないのだ。  だからこそ、ブライトにメジロの走りを託した。 「私はファーゴこそが、ブライトに託そうとしたメジロの大計の成就した姿だと確信しております。想定していたよりも早かったですが、むしろそれは喜ばしいことです」  そして、未来に託したはずの希望がファーゴという形で想定よりも早く出現したことが喜ばしかった。 「私に、翻意せよと言うのですね?」 「はい、その通りですわ。例え私達が頼りなくとも、ファーゴはきっと期待に応えるでしょう。どうかファーゴに全てを託して下さいまし。あの子が走り、そして輝く度にメジロの他の者達もまた奮起して後に続こうとするでしょう」  マックイーンは強くおばあさまを見つめる。それを受け止め、しばし逡巡した後におばあさまは答えた。 「マックイーン。あなたのように期待を背負い、それを力に変えて走ることの出来るウマ娘はそう多くはないのですよ。そういった才覚においては、ファーゴは……貴方に遠く及ばない。一人のウマ娘としてならばいいでしょう、しかしメジロのすべてを託すにはまだ”小さい”」 「ファーゴは十分に期待を背負い、それに応える走りをしていると思いますが……背丈も十分大きいですし」 「あなたはファーゴに対しては少々評価が甘くなるようですね……」  そういう意味で”小さい”と言ったわけではないのだが、マックイーンが素でとぼけているのか和ませるジョークを言ったのか測りかねたおばあさまは受け流した。 「本当にそうなのか、じきに分かりますよ。そろそろ現地時間でバーデン大賞が始まります。よく見ておくことです」 「ええ、あの子の愛おしい挑戦の始まりを見届けましょう」  メジロ家の当主の部屋に備え付けられているモニターにバーデン大賞の中継番組が映る。  ファーゴを含めた七人のウマ娘達がゲートに入っていき──スタートの合図が切られた。  ----  《今、スタートが切られました。先頭争いはナイトマジックとメジロファーゴ、ナイトマジックがハナを取りました。二番手にメジロファーゴ、三番手の好位からデインドリームが追走しています。スタンド前から一コーナーに向かっていく──》  スタートを切ってすぐの展開は、好スタートをしたナイトマジックがハナを取って逃げていく形になった。  同様に行き足のついたメジロファーゴはそのすぐ後ろについていくが……。 (洋芝でのトレーニングは積んでいたけど、思っていたよりコースの状態が悪い…っ!)  本日のバーデン大賞におけるバ場状態の発表は重バ場。日本のレース場の芝よりも深く、脚を取られる洋芝のレース場における重バ場だ。  日本のレース場の芝を走る感覚がアスファルトで塗装された固い地面を走っているようなものと表現するならば、欧州のレース場における重バ場とはまさしく田んぼやぬかるみの中で走り続けるようなものである。  日本のウマ娘が欧州のレースにおいて勝てないとされるいくつかの課題の一つ、バ場適正という名の洗礼をメジロファーゴは最悪に近い形で受けることとなった。 (脚を取られないようにいつもより歩幅は小さく、回転を意識して短く蹴り出すのを繰り返す……ピッチ走法を意識するんだ)  メジロファーゴの得意とするストライド走法は歩幅を大きく取って地面を蹴り、前に跳躍するように進むことで脚の回転数を少なくし、スタミナを温存出来ることが利点の走法であるのだが、今回の場合は洋芝の特性とバ場状態も相まって芝の反発を十分に得られずストライドが跳ねない。  故に自然と脚の回転数を上げて走ることとなるのでその利点のほとんどを潰されている。バ場状態にあった走りに変えていくに連れて、自然とピッチ走法に近いものかそれを織り交ぜたものになったのは彼女のセンスが為せる業であろう。しかし、バ場状態に脚を慣らそうと必死に動かした結果、少々前に出すぎてしまった。 (日本のウマ娘は、最初からすっ飛ばしてラビット気取りか?) (あれじゃあ最後まで持たないでしょう、こっちは控えて様子見しましょ) (逃げたナイトマジックを追わせるのはあの子に任せよう、疲れて落ちてきた所をちょいと交わせばいい)  メジロファーゴのその様を見て、何人かのウマ娘達は後ろに控えることを選ぶ。一見すれば、メジロファーゴを侮った故の判断に見えるが、海の向こうからやって来た外国のウマ娘が現地のセオリーも知らずにハイペースですっ飛ばしたら、様子見をしようというのは決して間違いではない。  侮りや油断ではなく、順当な評価ともいえる。それをひっくり返せるのはメジロファーゴがこれからどうするかで決まるのだ。 (前には一人だけ、後ろからは追っても競りかけてもこない……もしかして、半数が後ろに控えた?)  スタート直後ともなれば、一斉にゲートから走り出して加速したウマ娘達の序盤の競り合いや争いが発生し、先頭ともなれば後ろからの圧力を相応に感じるはずだが、メジロファーゴの想定よりも早く後方勢はポジションを決め込んでしまったらしい。  七人のレースで人数が少ないということもあるだろうが、こうも悠々と逃げたウマ娘を行かせてしまうことに、欧米と日本のレース感覚の違いをメジロファーゴは覚えた。 (後ろの子達が控えたことでせっかく前に出てこれたことだし、今更後ろに下がって少数のレースならではのきついマークの中を抜けてくるのもバカらしいな……となれば、このまま先行してハイペースを作って押しつぶす作戦で行くしかない!)  メジロファーゴがやろうとしているのは、逃げの位置にいるウマ娘に追走して番手につけるか、自らが先頭に立ってハイペースの展開を作り出す作戦だ。  スタミナに溢れ長距離において長く脚を使えるメジロのウマ娘が敢行出来る消耗戦、長距離のメジロの名に相応しき王者の走り。  まんまと行かせればそのまま押し切られ、ペースについていこうとすれば潰される。この王道策は実行するウマ娘が強くなければ成立しないが、実行できるほど強いのであればこれ以上の策はない。  そして、メジロファーゴはそれが出来る強いウマ娘、ならばやらぬ手はない。どの道、ドイツの現地勢を得意のスタミナで手玉に取るぐらいのことをやってみせねば次に走る予定の凱旋門賞では戦えないのだから。  《さあ、これから一コーナーから二コーナーにかけて上り坂に入っていきます。隊列はあまり変わらず、後ろは集団がまとまって控える形です》  作戦の実行のため、上り坂を必死に登っていく区間においてメジロファーゴは先頭のナイトマジックに対して、外から並ぼうとする動きを見せた。 (何考えてるのこの子、こんな所でもう競りかけてきた!?)                    フロイライン (気持ちよく逃してやるつもりはないよお嬢さん。悠々と逃げるつもりならこのまま追い抜く。後ろの娘達はあなたの作るペースを受け入れたようだが、僕は応じない!)  一瞬、二人の目と目が合った。行き足のついたスタートで先頭を取り、後方勢を様子見に控えさせてペースコントロールを行いたいナイトマジックと道悪の状況下でハイペースに持ち込み消耗戦を行おうとするメジロファーゴ、先頭では二人の思惑がぶつかり合うことになった。  奇しくも、どちらも本来は後ろからのレースを得意とするウマ娘同士。その二人が、普段はしない先頭でのペースの主導権を握ろうとした。  そして、その様子を一バ身ほど離れた三番手の好位から見ているのはデインドリームだ。 (このバ場状態、後ろに控えたら前に出てくるだけで相当脚を使わされることになる。後ろの連中は……しめしめと控えて先行する私達をちょっと差せば勝ちって思ってそうねぇ)  デインドリームはちらりと後ろに意識を向けた。自分より一バ身から半バ身ほど後ろにいる一番人気のドイチェスダービーウマ娘のヴァルトパークはペースを上げていく先頭の争いに加わるつもりはないらしい。  先頭でバチバチにやりあっているナイトマジックとメジロファーゴ、好位にいる自分、後ろに控えた後方勢で集団がはっきりと別れた。  《坂を登って向う正面、先頭と後方で集団がはっきりと別れています。先頭は変わらず、ナイトマジック。そのすぐ後ろにメジロファーゴ、外からデインドリーム──》 (ペースを上げてるわねメジロファーゴ。東国の芦毛の名優と名高きお方は退屈な、決まりきった展開とペースで決着をつけるなと仰せだわ。こうして手袋を投げつけてこられてるんだから、受けなきゃ非礼にあたるわ、ねっ!)  デインドリームもペースを上げて向う正面でナイトマジックらを突っつきに行った。  傍目には前年王者を後ろから挑発しに行っている様にも見える新進気鋭の女王デインドリームの姿に観客からも声援が飛んでいる。 (まずいわ……)  向う正面から第三コーナーに入っていく中で、ナイトマジックは焦っていた。 (最初は速く、道中はスローペースで逃げて脚を残したまま最後に突き放すつもりだったのに……その計画の大前提をメジロファーゴに狂わされた!)  逃げを打ったウマ娘の勝ち筋は大きく分けて二つある。一番単純なのが誰よりも速く走り続けてしまうこと。日本のトゥインクルシリーズにおいては”異次元の逃亡者”サイレンススズカが敢行した逃げの形だ。  テンと終いにおいて最速で走り続けてしまえば誰も追いつけない。誰よりも早いから勝つ。ある意味で究極の逃げの形であるが、それを実行するには距離と能力においてどこかで限界がある。よほど類稀な才覚に恵まれない限り、この走り方で持つと言えるのはせいぜいマイル戦までだろう。  故に、中長距離以上のレースにおいて行われるのがペースを自分が支配する為に行う戦術の一つとしての逃げである。逃げしか出来ないウマ娘とは違い、勝つための作戦の一つとして実行するものだ。  緩急を使い分けて他のウマ娘達を欺いて脚を残し、レース全体の主導権を握り自分が勝てる形に支配する。日本のトゥインクルシリーズにおいてはセイウンスカイがそれを得意とした。  それらを踏まえた上で、このレースにおいてナイトマジックが敢行した逃げの意図はセイウンスカイよりであったが、メジロファーゴにペースを乱されて脚を無駄に使わされてしまった。  このまま消耗戦に付き合っていたら最後に息を入れて突き放す脚を残せない。 (このままメジロファーゴに付き合ってる場合じゃない。一番警戒しないといけないのはあの子の方だ)  実のところ、ナイトマジックはメジロファーゴのことをペースを乱してきて邪魔だとは思っているが、競り合った上で負けるとは微塵も思っていない。彼女が最大級に警戒している相手はデインドリームだ。  前走のベルリン大賞において、自分を含めたシニア級のウマ娘達をちぎり捨てた末脚を恐れている。あのレースで二着以下のウマ娘がデインドリームにつけられた着差は五バ身。  それが誰に邪魔されることなく悠々と好位で追走してきているのが不気味でならない。この様子では後方勢は一番人気のヴァルトパークの動向をマークしてデインドリームは自由にさせているのだろう。  控え室で軽く挑発し合うような因縁こそあれど、ある意味でデインドリームをもっとも評価しているナイトマジックからすればこの状況には歯ぎしりしたくもなる。  あの恐ろしいまでの末脚を相手に逃げ切るためには、現状では何もかも手札が足りていないのだ。 (よしっ、考え方を変えましょう。私は去年このレースを勝ってる、だからこのレースの形状も特性もよく知っている。バーデン・バーデンレース場はその構造上、四コーナーを抜けて最終直線に入る際にどうしても外のスタンド側に向かって膨れる。だからここで無理に先頭を争い、ハイペースに任せてスピードを上げて外側に膨れるリスクを取るよりメジロファーゴに先頭を譲って私は脚を残すべきだ。そして最後のコーナーではなるべく内をついて距離をショートカットする!)  バーデン・バーデンレース場は三コーナーから四コーナーにかけて下り坂の区間があり、どうしてもそこでウマ娘達の脚が行きたがってペースが早くなりがちだ。そうして行き足のついたまま四コーナーを抜けていくと、どうしても一度は外に大きく回ることになりスタンド側に集団が集まる展開になりやすい。  今回のレースはメジロファーゴが早めのペースで飛ばしている関係上、間違いなく周りのウマ娘達も最後のスパート時は早く加速しようと行き足のついたままコーナー外側に向かって抜けていく。だが、そこで意識して内をつければ擬似的なショートカットが実現するのだ。  日本のトゥインクルシリーズで過去に行われた菊花賞においても、内をついてのスーパーなショートカットを行ったスーパークリークのような実例が存在するので別にとんちきなやり口でもない。  今回のレースにおいて有効であるかは蓋を開けてみるまでは分からないが。 (メジロファーゴ、そんなに欲しいなら先頭を譲ってあげる。でもね、これは”レース”よ。速さを競うタイムアタックじゃあなく、駆け引きがものをいうのよ)  ナイトマジックは息を入れる為にペースを落とし、メジロファーゴに先頭を譲った。そして、一瞬すれ違ったメジロファーゴと目が合う……。 (は……?)                     フロイライン  なんと、涼しい顔をして「もう用済みだねお嬢さん」と、煽るようにすいっとメジロファーゴは前に行ってしまった。 【余裕綽々】な【レースプランナー】。  食事もしっかりとってちょっぴり緩めのバ体で筋肉に蓄えたグルコース、持久力もばっちりな【食いしん坊】。  息を入れながらのすばらしいコーナリング【円弧のマエストロ】。心に【貴顕の使命】をキメてスピードも上げている。  メジロ家お得意のあくらつなレース。元気そうな先行や逃げウマ娘の後ろについてハイペースを作り、元気がなくなった所でこれで用済みと抜かせばいいんですわ…! と言わんばかりだ。 (散々ペースを乱しておいてまじふざけないでよあいつ……!)  ビキビキと顔に青筋が出るナイトマジック、同時に道悪の消耗戦最終ラウンドのゴングが鳴った。 (ストライドが大きいその走り方じゃあコーナリングは得意じゃないでしょう! このまま突っつき続けて息を入れる暇なんてやらないから覚悟なさい!)  左耳飾りを揺らしながら今度はメジロファーゴの番手につけて追走していくナイトマジック。  先頭がレース終盤にかけて動き始めた頃、後方勢から熱烈にマークされている一番人気のドイツのダービーウマ娘ヴァルトパークはというと……。 (あれ、日本のウマ娘がハナを取ってペースを早めたままレースを引っ張り始めたぞ? これもう仕掛ける位置にいかないとまずくない?)  このまま控えてると大変なことになるな? と、気づいたのでヴァルトパークは距離を詰めようとスピードを早めた。 (あれ? もしかしてマークする相手間違えた? ヴァルトパークごと私達置いてかれてない?) (うわぁぁぁぁ!!? ラビット扱いした日本のウマ娘が疲れる様子もないままターフを先頭で走ってる!!)  そして、それにつられて慌てて後ろから上がってこようとわちゃわちゃ動き始めるその他後方勢。  まさか二番人気から四番人気までの三人が前で頂上決戦を行っている内に一番人気を含めた後ろが置き去りにされるとは思うわけがなかった。  ターフビジョンにもその様子がバッチリ映し出されていたので、観客席から悲鳴混じりの応援が飛んでいる。 「うーん、日本のメジロファーゴって子は想像以上にタフだったな……」 「それ以前に、一番人気が控えたからってどうして二、三、四番人気の子達をノーマークでそのまま行かせちゃったの?」 「ンンーン……」 「しゃあけどここまでゴリ押して来るタフさなんて読めんわ!」  後からならなんでも言えるが、その瞬間はそれが最適解だとみんな考えていた。  メジロファーゴは慣れぬバ場の道悪という条件下において、先頭集団でレースを引っ張りながらも潰れることはなかった。  今はただ、これだけが結果であり真実である。 (これが、貴方の走りか。メジロファーゴ)  ナイトマジックをあしらった一部始終を視ていたデインドリームは、不敵に笑い少しだけ強く足を踏み出した。  レースは終盤に向かう──。  ◆  《レース終盤に向けて各ウマ娘達の動きが激しくなってまいりました。後方勢が一気に差を詰めてくる中、先頭を切って走るのは日本のメジロファーゴ!》  第三コーナーから第四コーナーまでの道中、下りながら曲がっていく区間においてメジロファーゴはスパートに入り始めた。 (脚はまだ残ってる。後はスピードを殺さずに坂を下り切る!)  メジロファーゴは日本のトゥインクルシリーズを駆け抜けるにあたって、必勝の技術として身につけた技がある。それは坂を味方につけることだ。  坂越えと下りによる負担は案外ばかにならないもので、坂道のあるコースに適正がないばかりに特定のレース場しか走れなくなるウマ娘もいるほど。  一例として、日本のトゥインクルシリーズにおいても有馬記念に代表される中山レース場2500m戦は坂のアップダウンの激しい非常にトリッキーなコースであり、2500mという数字以上にスタミナが要求される。  この坂道を味方につけられなかったばかりに、まだキャリアの浅いメジロファーゴのクラシック三冠レースの戦績は大いに苦汁を飲まされることとなった。  特に顕著であったのが、勾配の激しい中山レース場での皐月賞のことだ。同じレース場のラジオNIKKEIステークスで一着を取った経験のあるものの、皐月賞では五着に入るのがやっとであった。 『おそらく、スパートに入ってから途中の上り坂で急速に減速を受けるコースが比較的苦手なんだろう。周りの同世代が強くなってきたおかげで能力でゴリ押せてた部分にごまかしが効かなくなってきたんだ。  中山レース場の最終直線距離そのものは310mだが、ゴールまで残り180mから70mの地点には高低差2.2m、日本一の超急坂が待ち構える……同世代とやりあうクラシックレースや後のシニア級以降のレースをこれから戦っていくのなら坂の攻略は必須だ。  これからは生まれ持ったスタミナを坂路トレーニングでパワーに変換していき、夏明けまでに坂のアップダウンに負けないタフなウマ娘にお前を生まれ変わらせる』  このようにメジロファーゴのクラシック期の適性を評したのは彼女のトレーナーである。  そして、それが完璧な形で開花したのが京都レース場で行われたクラシック三冠最後のレース菊花賞。例年に比べて時計の速い決着となったこのレースをメジロファーゴが制することが出来た所以は坂の攻略にあった。  坂でも減速することのないパワー。そして下る時は勢いに乗って誰よりも早くトップスピードまで持っていくためのブレない体幹。この二つを併せ持つことでメジロファーゴは現役のウマ娘の中でも坂道巧者となり、春の天皇賞の連覇を果たす京都レース場の王者、現役最強のステイヤーとなった。  そうして鍛え上げられた肉体のポテンシャルは日本の他のレース場でも発揮され、これまでの15戦9勝の戦績でメジロファーゴは一度も掲示板を外していない。  その高い基礎能力は、ドイツのバーデン・バーデンレース場においても如何なく発揮されていた。  《第四コーナーを抜けて、ここから約500mの長い直線だ! ドイツとドイツに集まった世界の強豪を引き連れてメジロファーゴはこのまま押し切ってしまうのか!?》 「うおおおおおお! ファーゴ行けー! 押し切れー!」 「このまま走りきれば完勝だ!」  レースが最終局面に入ったことが現地と中継の実況から告げられて、レース場まで駆けつけてきたファン達と中継映像を見ているファン達のボルテージが最大に高まる。 (ここから長い直線、日本ダービー以来の長いようで短い最後の直線だ)  足を取られる重い芝、長い直線。類似の状況が、クラシックのかつての戦いをファーゴの脳裏に蘇らせた。  不良バ場の日本ダービー、少しだけ外を回ったファーゴが最内から伸びていくロジユニヴァースをあとほんの数cmの差で差しきれなかったレース。 (ゴールはもう見えてる! 後は全力で駆け抜けるだけだっ! あの時と同じ轍はもう踏まないっ!)  コーナーを曲がり切り直線を駆け抜ける為、あのときと同じようにメジロファーゴは強く踏み込んだ───。  ────ズガァン。  踏み込んだ刹那……どこからか、破城鎚を打ち付けたかのような音がターフに響き渡る。  その音が、先頭のメジロファーゴの耳に届き、それを後方のウマ娘がラストスパートの為に踏み込んだ音だと脳が理解するまでのほんの数瞬────彼女はすぐ横に来ていた。  《外から、デインドリームが来た! デインドリームが来た!! デインドリームが来たっ!!!》  メジロファーゴの視覚が、脳が、真横に来ているデインドリームの存在を認識する。  一瞬並んだかに見えた二人……。  ────だが、瞬き一つする瞬間にデインドリームの姿はメジロファーゴの隣から消えた。 (交わされた!?)  メジロファーゴが前を見ればデインドリームが水を得た魚のように重バ場のターフをガンガンと加速していくのが見えた。  《外から襲来したデインドリームがっ! 先頭のメジロファーゴをラクに交わして突き放していく! 一バ身、二バ身と差が広がっていくぞ!》  どこにそんな脚が残っていたというのか、これまでのレース展開が児戯だとでも言わんばかりに後続を突き放していく。 (こんな所で……突き放されてなるものかっ!!)  スパートをかけているのに縮まるどころかどんどんと離していくデインドリームに追いつくためにメジロファーゴは必死に脚を動かした。 「あああああああああああーーーーっっ!!!!」  《必死に追いかけるメジロファーゴ! しかし先頭はデインドリーム! デインドリームの独走だ! 誰も彼女に追いすがれない!!》                                                                                                (レースに絶対はない、不思議な勝利は数あれど。敗北には必ず理由が存在する、少なくとも今回のレースにおいては……誰も私をマークせずに見ていなかったことよ。いや……ナイトマジックセンパイは私を見ていたか)  メジロファーゴを外から交わしてすんなりと前に出て突き放していくデインドリーム。  バ馬適性の違いという話ではない、それだけなら置いていかれるのはメジロファーゴだけだ。彼女が独走する光景の異様さは後続のウマ娘達を等しく置き去りにしているということ。  一番食い下がっているのが前目にいたメジロファーゴとナイトマジックだけであるぐらいだ。この状況が意味することは……デインドリームというウマ娘がずば抜けて強いということである。  重バ場のターフを力強く踏みしめて、どこまでもどこまでも疾く疾く加速していく。 (幼少の時から期待されていた名家の申し子? 前年覇者? 世代頂点のダービーウマ娘? そんなものは関係ない! 今この瞬間に強いものが、強くあり続けるものが勝ち続けるのがレースよ。私の尊敬するロミタス先輩でさえ、順風満帆なウマ娘ではなかったのだから)  ---  ロミタス。  ドイツのウマ娘のレース界隈において、華々しい戦績とは裏腹に迂闊に口に出せないウマ娘の名だ。私が尊敬する先輩のウマ娘の名だ。  彼女の性格や素行、競争生活に問題があったわけではない。当時のドイツの年度代表ウマ娘に選ばれるほどだ、問題があるわけがない。  問題があったとすれば、ウマ娘やレースのファン。いいや、人間と呼ぶことさえもおぞましい輩の方だ。 【ロミタスをころしてやる】  彼女の生家に届けられたこの匿名の手紙は当時のドイツのウマ娘のレース界隈を騒がせた。  レースの世界において勝ち続けるということはそれだけ他のウマ娘やそれらを応援するファン達の夢を踏み越えていくということ。  多少の罵詈雑言はある程度は仕方のないものだとしても、殺害予告は度が過ぎている。  彼女の家族を含めてドイツのトレセンにも厳重な警戒が敷かれることとなったが、それでもなお事件は起きた。 『ドリーム! デインドリームってば! ロミタス先輩の食事に毒物が入れられてたって!』  血相を変えたクラスメイトが先輩の危機を伝えに来て私の頭は真っ白になった。  なんで? どうして? ゲートの中が怖くなるほどの閉所恐怖症で、それを克服するために寄り添ってくれるトレーナーに出会って、ベルリン大賞とバーデン大賞。オイロパ賞までを勝って年度代表ウマ娘になって、さあこれからだっていう時に……。  気がつけばドイツのトレセンからロミタス先輩の姿は消えた。ドイツに居続けることが危険だと判断されて、秘密裏にどこか違う国へと旅立ってしまった。私にさえ何も告げず……。  慕っていたつもりだったのに、向こうは私のことをなんとも思っていなかったのだろうか。 『君がロミタスの言っていたデインドリームだな?』  失意のどん底にいた私の前に現れたのは、驚くことにロミタス先輩を受け持っていたトレーナーのサブトレーナーだった。  先輩と先輩のトレーナーと一緒に姿を消していたであったはずだが……。 『ロミタスから君宛てに手紙を預かってきている。彼女の行き先は言えないが……元気にやっているよ』  男から手紙を受け取ると【親愛なる私の後輩デインドリームへ】と書かれた文面が見えた。  私は内容を読み始めた……。  ――――――――――――――――――――  親愛なる私の後輩デインドリームへ。  はじめに、行き先も告げずに行方をくらませてしまったことを謝りたいと思う。  私を慕っていてくれた君にさえ行き先を告げられないのは心苦しいが、私と私の家族。何より君達自身の身も守るためにも必要なことだった。  私がドイツで走り続けることが目障りな人達はほくそ笑んでいることだろうけれども、ドイツから遠く離れた地で走って人々に夢を届けることも悪いことではないのかも知れないと今では思うようになれたんだ。  それでもやはり、君の成長と走る姿を近くで見ることが出来ないのは寂しい……。  中略  最後に、私はいつか必ずドイツに戻ってくることを約束する。その時まで君が健やかであり、願わくば、誰よりも輝かしく煌めく人々の夢であらんことを……。  ロミタス  ――――――――――――――――――――  最後まで手紙を読んで、私は泣き崩れた。あまりにも真摯で、そして儚い願いと夢。  自分の夢が穢されてなお、他者の夢を案じる先輩に報いてやれるものがない自分の無力さに私はただ泣いた。  思いやられて、守られて……私が何一つ返すことも出来ないうちにあの人は向こうへと行ってしまった。 『ロミタスは、あんな形でドイツで走ることを終わらせられるべきウマ娘ではなかった』  泣き崩れる私に先輩のサブトレーナーだった男が告げる。 『もっと人々の夢を背負って走ることだって出来たはずだ。私の夢は彼女だった……』 『私にとっても先輩は夢だった……』 『そのロミタスが、君に夢を託すという。誰よりも輝けと願っている…………ロミタスの無念を晴らしたくはないか?』  男が跪いて私に手を差し出す。先輩の無念を晴らしたいかですって? そんなもの……。 『晴らしたいに決まっているっ!!』  私は男の手を取って立ち上がった。 『なら、今日から君からロミタスの夢だ。”デインドリーム”、君が私達の夢だ。どんな夢よりも輝かしく、どんなヒロインよりも強く気高い……そんなウマ娘にしてみせる』 『そう、光栄に思うことね”トレーナー”。今この瞬間にも世界中で行われているウマ娘とトレーナーのスカウト。その中でももっとも価値ある契約を交わしたことを、きっと生涯をかけて思い知るわ』  こうして、ロミタス先輩のサブトレーナーだった男は私のトレーナーに、そして私は彼らの夢となった。  たとえ今はどれだけ小さく儚いものであっても、誰にも穢せない大望へと私はなろう。  かつてロミタス先輩がそうしたようにドイツの頂点へと立ち、私自身がドイツの夢になるのだ。  そしてやがては世界へ────。  ---  《ニッポンのメジロファーゴに四バ身、五バ身と離して──デインドリームが一着でゴール!! 遅れて開花したスーパーヒロインが! ドイツの二大G1を制し、堂々とドイツ最強の女王へと名乗りを挙げた!》  ドイツ現地の実況がデインドリームの勝利を告げた。デインドリームが一着、五バ身離されてメジロファーゴが二着。  日本からファンが駆けつけ、メジロファーゴへの声援が飛んでいたスタンドも、今では静まり返って一着となったデインドリームを畏怖を込めた目で眺めている。  それほどまでに圧巻の走りであった、勝利を勝ち取ったことに文句を言わせぬ強い走りであった。  落胆し、消沈している日本からのメジロファーゴのファン達とは対称的に、ドイツ現地のファン達からは割れんばかりの拍手喝采がデインドリームへと降り注いだ。  拍手喝采に手を振り返して応えながら、デインドリームは心の中で思う。 (この光景を、先輩が見ていてくれたのなら……)  自分は、貴方と同じレースに勝って、貴方と同じようにドイツの頂点に立ったのだと報告することが出来たのなら……と。 「ほら見て見てサブトレーナー! あれが私の後輩!」 「知っているし私はもう君のサブトレーナーではないのだが……」  ふと、観客席に目をやると自分のトレーナーのすぐ近くに見覚えのある姿があった。今この時に、もっとも近くにいて欲しかった人。  世界の中の誰よりも、今この瞬間を見ていてほしかった人がいた。  今すぐに駆け出して、観客席に飛びこんでいきたい。緩む涙腺から溢れようとする感情をそのままに吐き出してしまいたかった。  けれども…… (先輩はレースに勝って、ファンの声援に応える場で、泣いたりなんかしなかった……!)  夢を受け継ぎ、叶えた気高き女王は腕を高く高く突き上げる。  万雷の拍手が、彼女を祝福した。  ドイツの夢と、誰もが認めた。 (敗けた……王道の走りをして、交わされて、そのまま追いすがることも出来ずに敗けた……)  肩で息をしながら、メジロファーゴはそんなデインドリームの様子を見ていた。近くではデインドリームに六バ身離された前年覇者のナイトマジックが、呆然としている。  叶う夢もあれば、潰える夢達もある。レースで走り続ける以上は避けられないことで、今日まで走り続けた彼女にはとっくに分かりきっていることだ。  勝利の甘美さと同じぐらい、全力を尽くした上で敗北する苦さを知っている。  知っているつもりだった。 「うそだろ……五バ身差、あのメジロファーゴが子供扱いじゃないか」 「デインドリーム。ファーゴもろとも現地のシニア級のウマ娘のナイトマジックをぶっちぎって、あれでまだクラシック級なんだって……?」 「欧州じゃ比較的格下のドイツでこれだぜ? 凱旋門賞にはどんな化け物達が出てくるんだ……」  知っているつもりだったのに、今日の敗北の味はいつもよりほんの少しだけ苦かった……。  自分達にまだ終わったつもりはなくとも、今日の敗北で多くのものが感じただろう。今年の凱旋門賞でも、日本の夢は叶うことがない。  今日の自分の敗北が多くのファンにそう思わせるであろうことを、聞こえてくるファン達の呟きで否が応でもメジロファーゴは感じさせられた。  10.バーデン大賞に敗れて……  これまでのあらすじ  クラシック級での菊花賞、シニア級一年目での天皇賞春、宝塚記念とG1レースを三勝し、  年末の有馬記念こそ惜敗に終わったものの、同世代のスターウマ娘に負けず劣らずの活躍をしたメジロ家のウマ娘メジロファーゴ。  年も明け、偉大なる先人メジロマックイーンの後を追うように天皇賞春の二連覇へと歩みを進めようした矢先、  メジロ家がトゥインクルシリーズを始めとしたレース界隈への競走ウマ娘の輩出を今後取りやめるという発表を聞いてしまう。  今や、トゥインクルシリーズ現役のメジロ家最後のG1ウマ娘となったメジロファーゴ。  思い起こされたのは、幼き日にメジロのおばあさまより言い渡された”終わり”を見届けよという言葉。  受け継いできた誇り、受け継ごうとしてきた歴史に”終わり”を突きつけられた彼女はメジロ家の禁を犯すことを決意する。  それは、メジロの総帥が禁じたとされる海外遠征。目指す先は仏のロンシャン芝2400mG1レース凱旋門賞。  いずれ訪れる終わりを座して待つより、最後まで抗うことを彼女は選んだ。  その脚がけに春の天皇賞の連覇を果たしたメジロファーゴ。  その目的はメジロの伝統を破る前に誰よりもメジロのウマ娘らしい実績を立てることで、海外遠征を周囲に納得させるためのものであったが、成果は決して芳しいとはいえなかった。  海外遠征について世間に賛と否が飛び交う中、それでも押し切って海外に行く所以は、名優と呼ばれた父親と幼き日に語らった夢の為。  フランスの地で映画俳優として賞を受けた父のように、自分も競争ウマ娘としてフランスの地で最高の栄誉を……。  それは、父のような名優になるという夢をほんの少し違えたカタチで叶え、受け継いでしまったことへの贖罪であった。  父との夢とメジロ家の栄光。  メジロアルダンと幼き日に邂逅した際に胸に灯した、永遠を刻み証明するという自分の誇りと生き方。どれも軽んじたくはなかった、捨て去りたくもなかった。  全ては”終わり”に抗うために……。 『賭けをしようドリジャ。これから奇跡が起こったのなら、引退を考えるのをやめて来年も走るんだ。僕は”凱旋門賞”に必ず勝って帰ってくる』  出立前にファーゴは、親友ドリームジャーニーの宝塚記念を観戦し、引退をしようとするドリジャの進退を賭けて凱旋門賞に勝利することを約束した。  そうして、海の向こうへと発ったトレーナーとファーゴの二人は現地での調整を行い、凱旋門賞へのステップレースとしてバーデン大賞を選択した。 『私は古くから国内を盛り立ててきたメジロ家のウマ娘達が誇らしかった。そのメジロ家のウマ娘であるあなたが海外の地で力及ばず敗れる姿など見たくありません。どうか今からでも凱旋門賞への出走を考え直して下さい』  ドイツに到着し、バーデン大賞へ向けて調整を進めていく中で、日本から駆けつけてきた記者団の中にメジロファーゴの海外遠征に懐疑的な記者が混ざり、少々の悶着が起こる。  男の言葉は、メジロ家のウマ娘として凱旋門賞へと挑戦することを決めたその時から、幾千幾万の人々から繰り返し問われ続けた声の代弁であった。彼女の身とキャリア、メジロ家のウマ娘としての名誉を案じるその声に対し、ファーゴは正面から受けて立ち応えた。 『メジロ家がレースの世界から退くことを決めたこの時に、失態を恐れて何の挑戦もせず、座して終わりを迎えるウマ娘があなたの言う誇らしいウマ娘の姿ですか? マックイーンが天まで駆けたというのなら僕は世界の果てまでも駆けて見せる!』  ファーゴの不退転の決意、その身に宿した貴顕の使命を果たすべく邁進する貴き姿は海外遠征に対して懐疑的な記者の胸を打ったのである。  そうして、メジロファーゴの凱旋門賞挑戦のための海外遠征、その前哨戦として選択したバーデン大賞がいよいよ始まろうとしていた。  迎え討つは、夏を超えてウマが変わったかのように才能を開花させた新進気鋭の女王デインドリーム。  勝つのは……貴顕の使命をその身に宿した、ターフを駆ける芦毛の名優か。それとも……シンデレラのごとく様変わりし、頂への階段を駆け上る最中にある新世代のドイツの女王か。  二つの夢と走りが、バーデン・バーデンの地で激突する!  《ニッポンのメジロファーゴに四バ身、五バ身と離して──デインドリームが一着でゴール!! 遅れて開花したスーパーヒロインが! ドイツの二大G1を制し、堂々とドイツ最強の女王へと名乗りを挙げた!》  バーデン大賞におけるぶつかり合いを制したのはデインドリームであった。彼女が敬愛する先輩ロミタスから受け継ぎ、背負ったのはドイツの夢。  その夢の始まりは儚くも純粋な夢、彼女と彼女に関わってきた者達が作り上げた歴史に名を残すべき眩いばかりの光と輝きであった。  メジロファーゴにとって、敗北は初めてのことではなかったが、デインドリームに五バ身差でちぎられたという事実は多くのファンを失望させ、  日本のウマ娘達は世界の最高峰にはまだ届かないということを改めて大衆に突きつける結果となってしまった。  凱旋門賞開催までもう一月を切った。  まだ敗北したことによる心の整理もつかないまま、メジロファーゴとトレーナーの二人は鉄道に乗り込みロンシャンレース場のあるフランスのパリをめざして出発した……。  ---  日本の主要都市部の繁華街。  高層ビルや商業施設が立ち並ぶ都市部の繁華街では今日も人々が行き交っている。  時分は九月上旬、八月の暑さが残暑としてまだ残っており、行き交うスーツ姿の大人達が額にじんわりと汗を搔きながら足早に道を歩いていた。  そんな雑踏の中で、若者や青年達が高層ビルに取り付けられた巨大な大型ディスプレイを前に脚を止めている。  大型ディスプレイは秋のG1レース戦線開始についての特番映像が流れていた……。 「いよいよ始まるなあ秋戦線。菊花賞はオルフェーヴルの三冠がかかっているし、秋の天皇賞もブエナビスタの連覇かはたまた他の強豪が勝つのか、今年も目が離せなくなりそうだ」 「オルフェーヴルというと、ドリームジャーニーはどうするんだろうなあ……宝塚記念以来、次のレースの予定の発表もないままだしまさか本当に引退するんじゃあ……」 「そういえば聞いたかよ。あのゴールドシップがついにデビューだってさ。俺はあいつは最低でもクラシックを二冠は取るんじゃないかって思ってるよ」 「……いくらなんでも気が早すぎないか?」 「当ててやろうか? きっとダービーだけ落とす」  若者達は口々に今年の秋戦線についてやぼちぼちデビューし始めた贔屓のウマ娘達の話をしている。  今年のクラシック戦線は三冠ウマ娘が再び誕生しそうということもあり、クラシック戦線最後の一冠である菊花賞への注目は大きかった。  どの娘が勝つだろうかだとか、何のグッズを買ったかだとか、取り留めのない会話がかわされ……自然と現在日本にいない”彼女”の話題になっていった。 「もうじきやってくる菊花賞に秋の天皇賞とくると、どうしてもメジロファーゴを思い出しちまうな……今海外にいるんだろ? 今どうなってるんだ?」 「数日前のドイツのバーデン大賞っていうG1レースに出て、二着」 「初めての海外戦で二着なら大したものじゃないか!」  一人の青年が二着という結果を聞いて、その健闘ぶりを称えた。  海外の芝が合わずに惨敗するウマ娘は珍しくないし、そもそもレースにすらロクに出れずにコンディションを崩してしまうことも多い。  そんな中で、初の海外G1レースに出て二着をもぎ取ってきたというのは立派な偉業だ。  現在でこそ、海外で勝つというのはそれほど難しいことではないことのように見えるが、それは先人達が挑み続け環境とノウハウを蓄積してきた積み重ねがようやく実ったという点が大きい。  彼女達が、海の外に残してきた蹄跡という名の積み重ねが現在の勝利へと繋がった。  積み重ねこそが、勝利を穿つ……。  メジロファーゴが、日本ではあまり名を聞かないドイツのG1レースであるバーデン大賞に挑み、二着になったというのはその象徴であろう。 「二着は二着なんだけどさ、レースの映像を見てみろよ。眼の前モニターで今、メジロファーゴの海外戦の特集やってるぜ」  隣の友人に促された青年は大型ディスプレイに映し出されていたメジロファーゴのバーデン大賞のレースを見始めた。  レース序盤、好スタートを切って逃げを打つバーデン大賞の前年覇者のナイトマジック相手に先行し、そのまま競りかけていくメジロファーゴ。  そのままプレッシャーを与えながら中盤まで追走し、ナイトマジックが息を入れた所で一気に先頭に立ってそのままスピードを上げていく……。 (先行してハイペースで潰すような走り、まるでマックイーンみたいだ! 日本ならともかく、海外でここまであの走りをやれるなんて……!)  メジロファーゴはほとんどのレースにおいて中団か好位から末脚で差し切るレースを行うことが多く、スタミナにまかせて先行するレースはあまりしていない。  そんな彼女が、往年のメジロマックイーンのようなやり口で元気よく逃げていく先頭のウマ娘にプレッシャーをかける先行策を取っているものだから若者の胸は躍った。  だが胸が躍ったのもつかの間のことで、そのままレース終盤の最終直線に入った時点で顔色が変わり、興奮に紅潮した顔がみるみる青ざめていった。 「なんだよあのデインドリームってウマ娘、メジロファーゴが子供扱いじゃないか……」  最終直線に入ると、好位にいたデインドリームが一気に並んできてそのまま差を離して五バ身もの差をつけた様に若者は絶句する。  モノが違うということが、素人にも分かった。 「二着になったのが素直に喜べないのがこれさ。結局さ……今年の凱旋門賞もいつもと同じコースなんだよ。前哨戦でいい所までは行っても、結局は現地のもっと強いウマ娘達に負かされて帰ってくる。毎回、毎回その繰り返しだ。  凱旋門賞にはもっと強いウマ娘が山程出てくる。言い方は悪いがドイツでこんな負け方をするようじゃあイギリスやフランスのウマ娘には勝てないよ」 「…………」  隣の友人の言葉に、彼は黙り込むしかなかった。  シリウスシンボリが、  エルコンドルパサーが  マンハッタンカフェが、  タップダンスシチーが、  そして、誰もが知ってるかの英雄が。  昨年のナカヤマフェスタが、  彼女達でさえ敗れてきたというのに、何を期待するというのだろう。  積み重ねこそが勝利を穿つというのならば、彼の地に勝利を穿つのにあと幾度積み重ねる必要があるのだろうか……。  ----  ドイツでのバーデン大賞のレースから数日経ち、メジロファーゴとそのトレーナーである自分達はフランスへと移動の最中にあった。  凱旋門賞まではもう一月もない。なので、本当は飛行機を使ってでもなるべく速く移動するべきであったのだが、あえて移動手段に鉄道を選択した。  チェックイン等の煩雑な手続きもないし、郊外に存在する空港まで移動する必要もない。これが結果的に時短でもあるということには驚く。  外国に行くためには飛行機や船を使わねばならないという感覚を持つ島国で生まれ育った身からすると、欧州では鉄道で国境を超えられるというのはどうも自分達の感覚からすれば盲点であるし、ギャップを感じるものだ。  欧州においては、ちょっと東京から大阪に行くかという日本人の感覚をもう少しばかりスケールアップすれば様々な国々がすぐそこに有る。  大昔、この広い大地を駆けてきたウマ娘は何を思い走ってきたのであろう……。  いくつかの駅を乗り換えてフランクフルトからパリへの直通列車の発車する駅へとたどり着き、乗り込んでいく。  パリへの移動の予定時間はおよそ三時間と五十分……現在の自分達は列車に揺られてドイツからフランスへの旅路を進んでいる最中にあった。 「さらばドイツ。バーデン・バーデンレース場でここはハンガリーの伝説的名ウマ娘キンチェムの聖地巡礼地の一つだ、とか抜かしてクソ高いお土産を買わせてくれた恨みは忘れないぞ」  このキンチェムが飲んだ井戸の水、なんてふざけたグッズを見て欲しい。なんと通常のミネラルウォーターの三倍の値段で売ってやがったんだこれが。  世界名作劇場的なアニメで繰り返しキンチェムの物語を刷り込まれた古い時代のウマ娘物語ファンボーイ世代の一人として買ってしまったのが悔しい。 「鉄道に乗って欧州各地のレース場に移動していく……誰もが子供の時に一度は慣れ親しんだキンチェムの物語の世界そのままですね。自分がそうする時が来るなんて思いもしなかったな」  ファーゴが窓の外の流れていく景色を見ながらつぶやく。  アニメ、舞台、映画と繰り返し繰り返しリバイバルされるフランキーとキンチェムの物語を見てトレーナーや競走ウマ娘を志すものは今でもいる。  とりわけ有名なエピソードはというと……。 「もし自分達がフランキーとキンチェムだったら今は猫ちゃんがいなくて大ピンチだな。はっはっは!」  フランダースの犬の最終話だけがやたら有名な様にキンチェムの物語もやたらこの辺りが有名だ。  以前聞いたことがあったがファーゴの父親は映画俳優をやってるらしいので、ファーゴ自身も物語自体には一度は触れたことは有るだろう。 「……僕はキンチェムじゃありませんから、猫がいなくても大丈夫ですよ」 「あー、まあそうだけど……ファーゴは猫嫌い?」 「時々見て、愛でるぐらいなら。飼うことまでは考えたことはないですね」  会話を時折振ってみるが長くは続かず、ファーゴは物憂げな表情のまま外の景色を見ていた。車窓から差し込む西日に照らされて、芦毛がキラキラと輝いている。  物憂げな表情もあってその佇まいはさながら絵画のようだが、普段の彼女と比較してあまりにも静かすぎた。乗り物に乗れば窓際の席を必ず所望し、はしゃぐ姿を知っていればあまりにも普段どおりではない。  バーデン大賞でデインドリームに負けたのがそんなに堪えたのだろうか。 (無理もないか……)  今のファーゴに背負わされたものや使命を思えば、海外初戦での敗北の意味はあまりにも重かったのだろう。  さあ、次だ! と、気持ちの切り替えが簡単に出来るはずもなかった。 『賭けをしようドリジャ。これから奇跡が起こったのなら、引退を考えるのをやめて来年も走るんだ。僕は”凱旋門賞”に必ず勝って帰ってくる』 『メジロ家がレースの世界から退くことを決めたこの時に、失態を恐れて何の挑戦もせず、座して終わりを迎えるウマ娘があなたの言う誇らしいウマ娘の姿ですか? マックイーンが天まで駆けたというのなら僕は世界の果てまでも駆けて見せる!』  ここまでに至るまでにファーゴがして来た決意が、言葉が思い返される。  親友に、そして自分を応援し案じてくれているファンのみんなに申し訳が立たないとでも考えているのだろうか……。 「バーデン大賞は、負けてはならぬレースでした……」  沈黙に耐えかねたのか、悔しさを滲ませた声でファーゴは話し始めた。 「フォワ賞を控えたフェスタやヒルノダムールに先んじてドイツのG1レースに挑んだ僕が、真っ先に敗れたということ。一体どれだけの人間を失望させたことか……」  宝塚記念ではナカヤマフェスタを、そして今年の春天でヒルノダムールを破ったファーゴは、今回の海外遠征組の総大将のような位置づけだ。  G1タイトルが”無冠”の彼女達と比べて、メジロファーゴこそが今年の凱旋門賞挑戦組の大本命と見る声は少なくない。  そうでなくても、昨年の凱旋門賞ではナカヤマフェスタがワークフォース相手にクビ差まで迫っているのだから、そのナカヤマフェスタ相手に勝ち越し続けているメジロファーゴには強い期待がかかっている。 「ファーゴ、デインドリームは君を下すに足り得るほど強いウマ娘だった。それでファンが失望するというのは考え過ぎじゃないのか?」 「デインドリームは、間違いなく強いウマ娘だったと僕も思いますよ。けれども、ドイツのレースやウマ娘達はフランスやイギリスと比べてどうしても下に見られがちです。ドイツのレース界が初めて一人目の凱旋門賞ウマ娘を輩出して以降、ドイツからの制覇者は現在まで全く出ていません」  一度も凱旋門賞を勝てていない日本が英仏に並んでウマ娘のレースにおいて一流国であり続けてきたドイツに言えた口か、という反論は置いておくとして、ファーゴの言う通りドイツは欧州の一流所においては比較的レベルが低いと見られている。  ドイツのウマ娘にとっての大舞台、今回ファーゴが走ってきたドイツのG1レースであるバーデン大賞は凱旋門賞のステップレースとして扱われることがある。  そのことについては、バーデン大賞の勝者インタビューでデインドリームが日本の記者相手にこんなことを口走る程度にはドイツのウマ娘にも思うところがあるようで……。 『バーデン大賞は、凱旋門賞のステップレースじゃないわ! これまでうちのシマを踏み台代わりに荒らしてきた仕返しをしに行ってやろうじゃない! 次走は凱旋門賞よ!』 『しゃあ! デインドリーム陣営の凱旋門賞出走表明の言質取った!!』 『彼女、デインドリームの学費を半分出してる日本URAの有力者から打診されてた秋華賞にデインドリーム来てくれなさそうですけど、いいんスかこれ』 『凱旋門賞を片付けたら代わりにジャパン・カップにでも出てあげるわよ。ジャパン・カップってうちの国のバーデン大賞みたいなもんでしょ? 同じ芝2400mだし』 『なんてタフなローテなんだ……!』 『そしてなんてタフなウマ娘なんだ……!』 『ドイツのウマ娘ってタフなんだなあ……』 『ロミタスの殺害予告事件という過去があってもレース続けてるドイツのウマ娘なんてタフで当たり前ヤンケ』 『ものすごい勢いで日本にいるエイシンフラッシュに風評被害の流れ弾が飛んでいってる気がする……』  プリティー荼ー毘ーなドイツのタフ娘……ではなくウマ娘、デインドリームがこんなことを言う程度には当人達にも自覚とそれに対する忸怩たる思いがあるようだ。  凱旋門賞に勝利しているウマ娘の傾向として前哨戦で快勝ないし、勝利しているという傾向を踏まえると、凱旋門賞を見据えているのであればファーゴがここで快勝していてほしかったというのが日本のファンの心理であろう。  ここで負けてしまったのは出鼻がくじかれたと言ってもいい。  レース内容を考えたとしても、ファーゴがバーデン大賞で惨敗したのであればまだ洋芝適正が単になかっただけという言い訳が出来たのかもしれないが……現地の強豪を先頭で引っ張って好走し、二着になったということが人々のファーゴの評価を難しくしてしまった。  ファーゴの健闘を称えてもそれを破ったデインドリームがより強いだけという結論になり、デインドリームの抜きん出た強さを称えたとしても、一般的にドイツよりレベルが高いと評される英仏が凱旋門賞にどんな化け物を送り出してくるのか……という未知に人々は打ちのめされることになる。  どの方向に議論をしても、人々の中ではメジロファーゴは日本では一流でも海外の超一流のウマ娘達に劣るというこれまで使い古されて来た結論にしかならない……これは由々しき事態である。  ファーゴ自身が、誰よりもそんな人々の心の動きやファンの心理を感じ取っていることだろう。 「これ以上、不甲斐ない姿をファンのみなさんに見せるわけには行きません。もはや、一度の敗北でさえ……もう僕一人だけの問題じゃなくなっているのですから」 「ファーゴ……」 「”メジロファーゴ”が”弱いウマ娘”と思われて、メジロ家や僕と競い合って来た全てのウマ娘達が鼎(かなえ)の軽重を問われるなどということは……あってはならないことです」  ”メジロファーゴは強いウマ娘である”……それは、ずっと彼女に走る力を与えて来た祝福でもあったが、同時に呪いでもあった。  弱いと思われてはいけない。だって、自分が弱いと思われることは自分の関わりのあるもの全ての価値が軽んじられることになるから。過去も、今も、そして未来も。  だから、ファーゴは強くあり続けなければならなかった。かつてほどの栄光を失いつつあるメジロ家の為に、クラシック三冠を競ったライバル達の為に、これまで下してきた全てのウマ娘達の為に。  頂を競い合うその舞台に立った時から、ファーゴは人々の思い描く強いウマ娘、”メジロファーゴ”であることを演じ続けてきた。  ……そのファーゴがもっとも恐れているのは、彼女自身と人々の思い描く”メジロファーゴ”が完全に別の物と見限られることだ、  これまで築き上げてきた幻想が、メジロファーゴという役柄の仮面が剥がれ落ち、ただの一介のウマ娘となりはてる時、人々の夢も理想もそこで終わりを迎える。 (良くない、な……)  彼女と出会い、一生かかってようやく手に入れられるような栄光を……いや、一生かけたとしても手に入れられない栄光をほんの数年で手にしておきながら、この子の大事な節目に差し掛かったこんな時に限って自分は無力だった。  今はただ、この瞬間でさえ色褪せたセピア色の過去にしていくであろう時の流れが今の彼女の心労を少しでも癒してくれることを願って、列車に揺られた……。  ---  ほんの少しだけ、昔のことを思い出す。  メジロ家のウマ娘メジロファーゴが、誰もが思い描く”メジロファーゴ”になった日を……人々の思い描く、理想のメジロのウマ娘の偶像となった日の事を。 『メジロファーゴ、メジロマックイーンと同じ第10戦目での春の天皇賞制覇……ホンモノだ!』  人々が夢を見るターフの舞台の新たな偶像は万感の思いを以て受け入れられた。  人々が僕を通してみるのは過去の”名優達”の姿。彼女達が残した蹄跡と築き上げてきた物語への懐古。かつて居合わせた夢の舞台への郷愁。  僕の姿を通して彼らは他の誰かを、あるいはどこか遠くの光景を見ている。  そこに”僕”の姿はなく、在るのは彼等の理想のメジロのウマ娘、どこにも存在しない誰かの姿。 『メジロだ、メジロの名優が帰ってきた! ”マックイーンの再来”だ!』 『クラシックを期待されたメジロ家のウマ娘というと最初はライアンのようだと思ってたんだけどなあ……メジロはメジロでもマックイーンの方の再来だったってわけだ。菊花賞も勝ったしな』  とりわけ、マックイーンのようだと評されることは僕の”強さ”を証明する誇りであると同時に呪いでもあった。  ずっと見上げてきた憧れの光とその栄光は、僕の心を勇気づけて照らす代わりに僕自身の姿を人々の目に映らぬ影へと飲み込む。  どれほど僕が僕らしくあろうとしても、人々は僕の振る舞いと姿のどこかに彼女の面影を見出し、その度に”僕”と人々の思い描く”メジロファーゴ”はかけ離れていく……。  この先、僕のようなウマ娘が再び現れるのだとしても、人々はきっとそのウマ娘をマックイーンのようだと評する。  偉大すぎる過去に、遺産に、道をなぞることしか出来ぬ模造物や贋作達の輝きが勝ることは決してない。  それでも、僕を通した過去の懐古と郷愁を以てメジロの名が再びレースの世界に響き渡るのであればそれでよかった。 『今後、メジロ家として競走ウマ娘をトゥインクルシリーズに輩出することはないでしょう』  今まで受け継いできたものをこれまで通り繋いでいけばいい。  そう思っていたところに風向きが明らか変わったのは、今年の始め頃におばあさまがメジロ家がレース世界から退くことを公言してからだ。  皮肉なことに、過ぎ去っていった過去ごとメジロの名に未来がなくなるという事実を突きつけられてから、人々はようやく現在の僕達を直視する気になったらしい。  その名を永遠のものとして心と歴史に刻むために、人々が不朽のものとなる偉業を僕に求めるのは自明の理だろう。  だからこそ、日本から遠く離れた地でメジロの栄光すら届かぬ地で、自らに課せられ今日まで示してきたマックイーンの再来という呪いを解こうとした。  人々が、ようやく僕自身を直視するようになったんだ。  この状況は、これまで押し殺してきた自身を……自分が自分であることを証明するためのチャンスなんだ。 『嘘だろ……メジロファーゴが五バ身差で何もできずにそのまま千切られるだなんて……』  しかし、バーデン大賞で敗れて地の底へと叩き落されて初めて、振り切ろうとしてきたその呪いこそが僕の心を守ってくれていたのだと知った。  ”マックイーンのようであれ”と、自分に言い聞かせ続けて、自らを押し殺して彼女のように振る舞うことが、僕の強さだったんだ。  誰かの真似事でもなく、足跡を追うでもなく、ようやく己自身で選び取った道を歩んで初めて……僕は知った。 (自分ではない”誰か”でいることって、ラクだったんだ)  だってそうだろう?  理想と決めた彼女、マックイーンのように勝てば喜べて、負けることも挑戦をしないことも心のどこかで言い訳が出来たんだ。  そうやって自分自身を押し込めて、人々に望まれるままに振る舞っていれば、本当は弱くて情けない自分を曝け出さずに済んだというのに、  メジロのウマ娘であれと言い聞かせて、それを頼りに自分を鼓舞していればよかったというのに、  その支えを、頼りを全部打ち捨てて海の外でメジロのウマ娘でもない自分自身をなんか追い求めて、一体何になろうとしたんだ。 『マックイーンが天まで駆けたというのなら僕は世界の果てまでも駆けて見せる!』  何が世界の果てまでも駆けてみせる……だ。  自分から彼女の模倣や、彼女の果たせなかった夢の後を継ぐことさえやめたくせに、この期に及んでまだ彼女の残光に縋る気なのか。  ちっぽけなプライドと自分自身の心を護るために……まだ僕は自分以外の誰かでいたがっているのか。  心に奥底に残ったまま消えぬ、その”呪い”が、この”弱さ”が許せないっ……!  本当の意味で彼女を越えることが出来ないのなら、メジロ家のウマ娘として周りに示す道を見出すことも出来ず、暗夜行路の中で膝を折るというのならばせめて────。  ---  数時間の列車の旅が終わり、パリに到着した自分達は翌日から早速現地のトレーニング場で調整を始めた。  フォワ賞の最終調整に入っているナカヤマフェスタやヒルノダムールと併走させたりと、様々な手段を講じてみたが、ファーゴの状態に一向に改善が見られない。 「なんだか、今年の春天で一緒に走った時よりこう……変なものが宿ってないですか? ……いい意味ではないですよ」  併走に協力してくれたヒルノダムールがこのような所感を報告してくれた。今年の春天でファーゴのすぐ隣から近くを走って一着を争ったこの子にそこまで言われるようなひどい状態か……。  好天続きでうだるような暑さとなったフランス、芝も乾いているというのに、自分達の心は晴れないままだ。  そして……事態が解決する芽が見えないまま、数日後のフォワ賞を迎え、ヒルノダムールとナカヤマフェスタが四人のレースで二着と四着に敗れると、トゥインクルシリーズの海外を特集したゴシップ記事や報道にこのようなものがならんだ。 【日本勢屈辱、凱旋門賞の前哨戦にて全敗! 早くも暗雲が立ち込めたか!?】 【凱旋門  深刻】  取り巻く状況はファーゴの危惧した方向に向かい始めている……。  共に競い合った仲間達が鼎(かなえ)の軽重を問われ、自分自身でさえも人々の思い描く理想からかけ離れていく、そんな状況と未来へと。 『私はあの時の醜い人々の姿を知っている。希望と声援を持って送り出しておいて、負けた途端に手の平を返して罵声を浴びせるか、偉大であるはずの挑戦それ自体でさえも忘却していく人々の姿を。凱旋門賞の制覇など、日本のレースに携わるもの達の身勝手なエゴでしか無い。  だからこそ、人々が海の外での偉業や成果に熱狂する時代となる前から、古くから国内を盛り立ててきたメジロ家とそのウマ娘達のことが私は誇らしかった──だからこそ、私はそんなあなたが海外の地で力及ばず敗れるところなど見たくありません』  バーデン大賞の前に、ファーゴと海外挑戦の是非についてやり合った記者の言葉が今更になって想起された。  受け入れがたい難い言葉だったが、少なくない事実を彼は指摘していたのだろう。  誰だって、見たくなんて無いに決まっている……自分が応援し続けてきたウマ娘が、そのライバルや同期と海外に挑戦してこのような空気にさらされる……心も身体も持ち崩していくそんな様を。  ”こんな姿を、見たくなんてなかった。”  ”こんなはずじゃあ、なかったのに。”  これまでこの地に挑み敗れていった者達とそれに携わった人間達の怨念のようなものが頭に入り込み、心の中を支配しようとしてくる……。  自分達は、ここに来るべきではなかったのだろうか────いや、違う! (こんな声が投げかけられる光景を見るために……俺はファーゴとここまでやってきたわけじゃないっ!)  その身に宿した血と抱く誇りが、やがて焔となってその身体を灼いていくのだとするのなら……灰へと変わっていく身体はあの子の歩んできた軌跡と疵痕の証なのだろう。  でも、心まで燃やし尽くして、目に映る鮮やかな世界でさえ灰色に変えてまで今を走り抜けた所で、何が掴めると言うんだ! 何が残るっていうんだ!  積み重なってきた呪いを祝福に変えるために自分達はこの地に来た、この地に染み付く呪いや怨嗟の一つになるだなんて願い下げだっ! (今、自分自身でさえも見失おうとしているあの子に、ずっと自分が見てきたウマ娘の姿を思い出させてやらなくてはならなくてはならない)  受け継いできた過去の物語の一つ一つがファーゴを強くしてきたのであれば、今この時にあっても彼女が受け継がねばならぬ物語がきっとあるはずだ。  あの子がより遠くへと羽ばたくために……受け継ぐべき最後の物語の舞台を整え、奏で始めよう。  逃げ出すことよりも進むことを君が選んだその日から、最後まで支えると自分は決めたのだから。  すぐ傍で、近くで、君と同じ夢を見続けると決めたのだから……。    11.強いきみに、強いあなたに 前編  これまでのあらすじ  クラシック級での菊花賞、シニア級一年目での天皇賞春、宝塚記念とG1レースを三勝し、  年末の有馬記念こそ惜敗に終わったものの、同世代のスターウマ娘に負けず劣らずの活躍をしたメジロ家のウマ娘メジロファーゴ。  年も明け、偉大なる先人メジロマックイーンの後を追うように天皇賞春の二連覇へと歩みを進めようした矢先、  メジロ家がレースの世界にメジロのウマ娘を輩出することを今後取りやめるという発表を聞いてしまう。  今や、トゥインクルシリーズ現役のメジロ家最後のG1ウマ娘となったメジロファーゴ。  思い起こされたのは、幼き日にメジロのおばあさまより言い渡された”終わり”を見届けろという言葉。  受け継いできた誇り、受け継ごうとしてきた歴史に”終わり”を突きつけられた彼女はメジロ家の禁を犯すことを決意する。  それは、メジロの総帥が禁じたとされる海外遠征。目指す先は仏のロンシャン芝2400mG1レース凱旋門賞。  いずれ訪れる終わりを座して待つより、最後まで抗うことを彼女は選んだ。  メジロの新たな至宝としての地位を盤石にした春の天皇賞の連覇達成。  ようやくこれまで後を追ってきたメジロ家の偉大なる先達、メジロマックイーンに並び立つことが出来たものの、それは同時にこれまで後を辿ってきた目標を喪失することであった。  これからは自分自身の道を選びゆかねばならない。  衰えを自覚し、引退を決めかけている親友のドリームジャーニーを勇気づけるために凱旋門賞に勝って帰るという誓いを立てた。  旧くから日本のレースを盛り上げてきたメジロ家の末裔として、日本の誇るべきウマ娘達の一人として世界へと挑むという矜持と覚悟もある。  親友たちと共にレースを走った戦友たちの夢と、自分自身の証明をする為に、メジロファーゴは自らに課した貴顕の使命を果たすべく海外へと発つことを改めて決意した。  そして、紆余曲折ありながらも凱旋門賞への前哨戦としてドイツのバーデン大賞に挑んだメジロファーゴであったが、  ドイツのクラシック級ウマ娘デインドリームに敗れたことで希望を持って踏み出したはず夢の旅路に暗雲が立ち込め始めた。  人々が最強と信じたウマ娘達が……背負った夢と理想もろともロンシャンの地で打ち砕かれて、これまで何度も失望と絶望を繰り返した人々の声が今年の挑戦者達のファーゴ達へと向けられた。  ”どうせ今年も勝てやしないのだ”  ”夢は夢のままなんだ”  当事者としてそれらを肌身で感じ取ったメジロファーゴの心は灰色に彩られていく。  天へと、世界の頂きまでへと駆け上がらんと手を伸ばした結果、経験することとなる凋落。  地の底へと叩き落され、これまでに築き上げて来たはずの自らの”強さ”でさえも、信じられなくなるこの状況にあってメジロファーゴは足掻いていた。  人々の思い描く理想と、今の自分自身の姿がかけ離れていくことを、彼女は誰よりも恐れていたのだ。  凱旋門賞まで三週間を切ろうとしている中で、そんなメジロファーゴの様子を見ていたトレーナーは決意する。  受け継いできた過去の物語とそこにかけられた人々の想い、その一つ一つがこれまでファーゴを強くしてきたのならば、今この時にあって彼女が受け継がねばならぬ物語があるはずだ。  君が誰よりも”遠くへ”と羽ばたくために祝福の物語を始めよう。  逃げ出すよりも進むことを君が選んだその時からずっと、自分は最後まで支えると決めたのだ。  すぐ傍で、近くで、君と同じ夢を見続けると決めたのだから。  ---  メジロのおねえさま達からはたくさんのことを教わったよ。  時には直接、あるいは背で僕に語ってくれた。  例えば、アルダンからは歴史に名を刻むという覚悟、マックイーンからは矜持と誇り……。  どれも素晴らしい教えで、今の僕を形作るのに欠かせないものだったけれど、自分さえも信じられなくなる時にあって、  もっとも助けになったのは彼女の”強さ”だったんだ。  己の不甲斐なさと情けなさに何度うつむいたのだとしても、それでも…! と先を見据えるその瞳の強さに、  小さい頃の僕は、憧れていたんだ。  ──トゥインクルシリーズ引退後、自らを慕う後輩に向かってメジロ家での思い出を語るメジロファーゴ  メジロの名高きウマ娘達が、まだ本格化を迎えてはいない頃……。 「はっ、はっ、はっ…!」  メジロの広い広い敷地の隅、人目につかないトレーニング場を駆けている鹿毛のウマ娘がいた。  ヒトの髪色として表すのならば黒や暗めの茶色といくつかの表現があるが、ウマ娘達の毛色の分類では鹿毛に分類されるその少女は、まだあどけなさが残る当時のメジロドーベルであった。  そして、その様子を現在と比べれば大分小さい芦毛のウマ娘メジロファーゴがストップウォッチを片手に見ている。  メジロファーゴは、未来でこそメジロマックイーンのように春天を連覇した不世出のステイヤーの一人として名を揚げることになるのだが、まだ小さいこの頃は距離適性はマイラーとみなされていた。  故に、メジロ家において適性が近しいメジロドーベルの走りを見ることは、近い将来にトレセン学園に入学して走るに当たって役立つであろうということで、メジロ家のお抱えのトレーナー達から勧められていたし、  当の本人達もメジロ家という枠組みの中で身内のように親しかったので交流があった。 「ドーベルー! そろそろはしるのをやめてクールダウンした方がいいと思うよー! ドーベルー!」  そろそろ頃合いだと思って、トレーニング場を駆けていくドーベルに向かってファーゴは呼びかける。  しかし、どうやらドーベルは走るのに一生懸命で呼びかけが聞こえていない。  ドーベルが抱えている”ある問題”を思えば、走ることに集中出来ているのは寧ろ前向きに取れることではあったのだが……。 「もしかして、集中してるんじゃなくてまわりがみえなくなってないかな?」  よくよく見てみれば、息が乱れているしフォームが崩れ始めていた。  表情も焦燥感に駆られているようで……それでいて何かに耐えるように食いしばっている。  負荷をかける為に行っているトレーニングでもないというのに、これは不味いとファーゴは結論づけた。 「ウォーミングアップ、一応しておいてよかった───ふっ!!」  ズンッ! と、トレーニング場の芝が一瞬沈み込むほどの力を脚に込めて、静止状態から一気に加速してファーゴはドーベルを追いかけ始めた。  ウマ娘が本格化を迎える時期は個人差がある。  トレセン学園に入学してすぐに本格化を迎えて中等部でデビューする子もいれば、高等部まで学業とトレーニングでじっくり力をつけてからようやく本格化を迎える子もいる。  ファーゴはドーベルと比べれば年少であったが、少なくともお互いに本格化を迎えていないこの時点においてそれほど力の差が開いているわけではなかった。  間違っても何かの拍子によれたメジロドーベルに追突することがないように、なるべく安全な距離を取ってメジロファーゴは走行しているメジロドーベルに並んでいく……。 「ドーベル! 僕をみてっ!」 「……!」  ◆ 「……おちついた?」 「うん……ありがと、ファーゴ」  視野が狭まったまま暴走しかけていたドーベルをなんとか落ちつかせて、水筒に入れて持ってきていた冷たいアールグレイを淹れながらファーゴがドーベルに話しかける。  アールグレイの香りとなるベルガモットの柑橘の香りは心を落ち着ける作用があるのだという。  香りや香水に詳しいドーベルが、以前ファーゴに教えたことだ。  以来、ファーゴはこのフレーバーティーの紅茶を愛飲している。 「その、さ……まだまわりが気になるの? みんなが自分を嘲笑っているようにみえるって、”弱いくせに”っていっているようにみえるって」  ドーベルが落ち着いた所で、ファーゴはドーベルの抱える”ある問題”の核心に触れる。  小さい頃、ちびっ子ウマ娘達が走るイベントに出て、スタートで転んでしまった。  それでも諦めずに一生懸命に走って、半周遅れでようやくゴールすることが出来たが、その時の観客たちの声が彼女の心に大きく傷を残してしまった。  ”えらいぞ”  ”がんばれ”  ”だいじょうぶ”  一見すれば、何でも無い言葉。一生懸命に走る小さいウマ娘に投げかける言葉でして何ら不自然ではないだろう。  しかし、メジロ家のウマ娘達の多くがそうであるようにドーベルもまた誇りあるメジロのウマ娘であった。 『えらい……? がんばれ……? だいじょうぶ……? ライアンたちがそんなふうにいわれてるの、きいたことがない』  メジロのウマ娘として走って立派なところを見せるのだと意気込んで、幼いながらに本気でレースを走ろうとした彼女の心と自尊心はこの体験によって深く傷つけられた。  ドーベルがカルガモの親子の様について回って慕っていたメジロライアンという存在が、身近な比較対象として近くにいたのもよくなかっただろう。  周囲から期待されて、それに応えるライアン。いつも堂々としていて、すごいねとみんなから言われて、それに比べて自分は……。  ”みっともない”  ”弱いクセに”  いつしか、憧れているライアンへと投げかけられる周囲の期待と羨望の声を裏返すかのように、周囲が自分を蔑んでいるように聞こえるようになった……。 「あの時のことを思い出すと、鼓動が変に早くなって、手足も、自分のものじゃないみたいに感じて、周りが真っ暗になって……まともに走れなくなるの」 「ここにはドーベルを笑う人たちなんて、いないよ」 「分かってる、分かってるけど……!! ずっとこんなだから、まともに走れなくて! みんなが当たり前に出来てることがアタシだけできないのっ!」  理解していてなお、それに打ち勝つ心の強さを持てぬ自分が許せない。  弱い自分が、メジロのウマ娘らしからぬ自分が情けない。 「アタシはブライトみたいに悠然としていなければ、ライアンみたいに強くないッ! マックイーンのように堂々とだってしてないっ! アタシだけが違うの、ずっとアタシだけが弱くて、みんなとは違う……」  溢れ出る感情を吐き出し始めてしまえば、もう止まらなかった。  ドーベルが心の中にずっと押し込めてきた叫びに、ファーゴは静かに耳を傾けている。  やがて、ドーベルが一頻り言葉を吐き出した後にファーゴは口を開いた。 「それでも、ドーベルは走ることはやめないんだ」 「それは……」 「自分を弱いと思いこんですべてを諦めるのはすごく簡単なことなんだ。でも、それでもドーベルはまだ走ってる」  メジロのウマ娘になって、ファーゴはそれまで知らなかった様々なことを思い知った。それは、ヒトは自分が思っているより強く生きられないのだということ。  努力し続けることは苦しいし、出来のいい周りと劣る自分を比較していつしか限界を定めてしまいがちで、やがて挑戦することそのものさえも怖くなっていく。  それはごくごく自然なことで……誰もが本当は弱くて情けない、醜い自分自身を直視なんてしたくはないから、あるいは弱い自分を発見したくなどないから、そうやって弱くて傷つきやすい心を守っている。  ファーゴ自身でさえ、そうだ。  でも、ファーゴは眼の前にいる彼女は、ドーベルは違った。  心は深く傷つき、弱い自分を責め立てて時に自身を見失うことがあっても、それでもまだ走り続けている。 「自分は弱い、みんなと違う……だから、みんなに追いつかなきゃってずっとずっと一生懸命に走り続けてる。それは”強さ”だよ。誰にも負けない、メジロドーベルだけの心の強さ」 『自分はみんなとは違うから走るのはやめたい』などと、ドーベルは一度も口にはしなかった。  まだ見上げることしか出来ない憧れと理想に並び立ちたいと、想い、焦がれ、願い、走る気持ちを捨て去ろうとなどしなかった。  それを”弱さ”と言い捨てていいはずがない。  我こそはメジロのウマ娘なのだと、自らをそう証明することの出来る非凡なる才を間違いなくドーベルはもう持ち合わせている。  少なくとも、ファーゴはそう信じていた。 「ドーベルはまだ、その得難い強さがまだ分からないかもしれない。信じられないかもしれない。でも、いつかそれを自分自信で強く信じられる時が来るまで、あるいは君に寄り添ってそう言い続けてくれる理解者が現れる日までは、僕がこう言い続けるよ。”メジロドーベルは強いウマ娘だよ”って」 「ファーゴ……」 「本当は強い君の背中を、僕が見ているから。メジロドーベルだけが歩む”道”を、そしてその歩みを持って証明する”強さ”をいつか僕に向けて背中で語ってほしいな」  ファーゴの言葉を神妙な面持ちで聞いているうちに、ドーベルはいつしか俯き塞ぎ込んでいた顔を上げていた。  メジロドーベルの心の問題が、この時を以て完全に解決したという訳では無いが……少なくとも、まだ幼いメジロファーゴとのこのやり取りは、メジロドーベルの心に確かな火を灯した。  それは熾し火の様に燃え続け、いつの日か爆ぜる時を待ち、彼女とメジロ家に栄光をもたらすだろう。  後に、メジロ家に多くのG1レースの勝利を齎した”五つ星の女王”。【ツイステッド・ライン】メジロドーベル。  彼女の歩んだ”道”は決して正道ではなく、”曲がりくねった道”であった。  真っ直ぐ思い通りに、理想通りに進むことは出来ずとも、俯かずに歩み続け、見上げ続けていたはずの理想と憧れにいつしか並び立ち超えていった彼女を笑う者は……いない。 「いつまでも熱く」  ほんの一瞬だけ 煌々と輝いたり  のびのびと悠揚と 波間を漂ったり。  それぞれがそれぞれの生き方を目指す中で  わたしも志す。  熾し火のように いつまでも熱く  燃え続けることを。  ──URA「名ウマ娘の肖像」メジロドーベルより(※JRA名馬の肖像からの引用)  ---  遠い昔の日の懐かしい夢を見ていた。  心に、胸に、小さな火が灯った日のことを。  熾し火の様に燃え続け、いつまでも熱く心を燃やすきっかけとなった出来事を。 「ドーベル~、ドーベル~。起きてくださいな~! もうじきパリの空港に着陸ですのよ~? ドーベル~!」  聞き慣れたほんわかとした声が自分を呼びかけているのを、彼女は曖昧な意識の中で感じ取った。  深い意識の海から自我が浮び上がり、はっきりと覚醒する。  メジロブライトに揺り起こされて、メジロドーベルは目を覚ました。 「ん、んんっ……おはようブライト。アタシ、寝てた?」 「えぇ、東京からパリまでの12時間とってもぐっすりさんでしたわ~」 「流石にそこまでは寝てないでしょ、ちゃんと時差ボケしないように計算してるんだから」  柔らかく微笑みながらドーベルはブライトに軽口を叩く。  日本と比べて時差のかなりある国への旅行は、道中は飛行機の中で睡眠を取り、早朝に着いてホテルにチェックインするようにして一日を始めると比較的時差ボケしづらい。  メジロのおばあさまが今より健在であった頃には、ウマ娘のレースを行っている国にメジロのウマ娘達は一通り連れられて旅行したり、バカンスを楽しんだりしたものでドーベル達も慣れたものだ。 「うふふ、そういえば私達がトレセン学園に入学する前はメジロ家のみんなで旅行に行きますとファーゴちゃんが窓際ではしゃぐのが風物詩でしたわね」 「そう、ファーゴったら飛行機で中々寝ないものだから一番時差ボケに苦しんで、海外旅行先で眠れなかったり起きれなかったり……大抵のことはそつなくこなすのにそういうのはてんでダメなんだからあの子は」 「マックイーンさまが特に、私の妹分だと可愛がっていらしたのは記憶に新しいですわね~」 「それは今でもじゃない? ファーゴの方は”おねえさま”呼びをとっくにやめてマックちゃん呼ばわりしてるけどさ」  トレセン学園の高等部に属するライアン、パーマー、ドーベル、ブライト、ラモーヌ、アルダンの六人に対して中等部にいるメジロ家はマックイーンとファーゴのみである。  ファーゴがいなければ、年齢的にはメジロ家でもっとも年少になってしまうマックイーンが、ファーゴに目をかけたり可愛がるのは当然の成り行きだろう。  もっとも、マックイーンにとって妹分はファーゴ一人だけであったが、ファーゴにとってメジロのおねえさまはマックイーンだけではなかったので、要領良くあっちこっちに顔を出していたことにマックイーンは密かにほぞを噛んでいたらしい。  特にメジロアルダンと共に書斎にいたというのは、メジロ家の中でも周知の事実だ。  メジロ家の中でも年長であった彼女と共に過ごした時間はファーゴの人格面に大きな影響を与えただろう。  だからといってマックイーンのことを蔑ろにしているわけでもなく、普段は玩具にしながらもきっちりメジロ家の誇りと矜持を背中から学んでいる。  メジロの名高きウマ娘達の末妹、妹分なのがメジロファーゴというウマ娘なのだ。 (もっとも、今では妹分扱いするのは色んな意味で大きくなっちゃったかな……)  メジロのウマ娘達の末妹として、みんなから可愛がられていたファーゴ。そんな、メジロ家のウマ娘達みんなを慕っていたファーゴ……。最も小さかったはずのあの子が、今やメジロ家の中でもっとも大きい存在になろうとしている。  メジロ家に数多くのG1レースの勝利をもたらした自分でさえ、ファーゴの今の輝きに時折目を奪われそうになる。  誰もが目を奪われていく、メジロのウマ娘達にとって完璧で究極の偶像……その光のあまりの眩ゆさに、自分達は足元に伸びる影の存在を都合よく忘却してはいないだろうかと、ドーベルは時折思いを馳せずにいられなかった。  光には必ず影が付き従うもの。  幼い頃の自分が、メジロの期待を受けていたメジロライアンの光の部分ばかりを直視して、ライアンの胸の内にあったはずの葛藤や苦悩には目を向けられなかったからこそ、よくわかっている。  そんなことに思いを馳せていると、ブライトとフランスへと発つ前にマックイーンからファーゴのことを頼まれた時のやり取りをドーベルは思い出した……。 『ドーベル、あなた方が先に今はフランスに居るファーゴのもとに発ちますが、くれぐれもよろしくお願いいたします』 『マックイーンはすぐに駆けつけてあげないの?』 『本心を言うのなら、伏せっているおばあさまの代わりのメジロ家の当主代行の役目など放棄して、今すぐにでも傷心のあの子の元にかけつけてしまいたいのです!』 『だったら尚更マックイーンの方が行ってあげたほうがいいんじゃない? ファーゴが海外初戦であんなことになって、世間では色々と言われてきっと落ち込んでるだろうし……。  おばあさまのようにっていうのは流石に無理だけど、一時的に代行するぐらいならアタシも出来るよ』  昔ならいざしらず、今ではメジロ家に多くのG1レースの勝利を齎したウマ娘としてメジロドーベルのメジロ家内での影響力の大きさは中々のものだ。  マックイーンが不在となるのならば、彼女が総帥の代行をやっても恐らく反対する者はいない。  現時点においてもメジロ家がレースの世界から退くと決めた時に、それでも個々の家々にいるレースの世界を志すメジロの幼きウマ娘達の処遇や進路の相談に関してドーベルは一任されていて、着々とメジロ家がレースの世界から退くに当たって様々なものを畳んでいく仕事の一旦を任されている。  レイクヴィラ倶楽部という会を設立して、旧メジロの幼いウマ娘達の中で個々人でレースを志そうとする子達をそこに集めたり、資金繰りのためのスポンサーや支援者を集めたりとドーベルは方方を説得して回っているのだ。  そんなドーベルの提案に対して、マックイーンは首を振った。 『……私が行っても今のあの子にとって何の助けにはならないでしょう。今、私はあの子に会ってはいけないのです』 『会っちゃいけないだなんて、ファーゴはずっとマックイーンの背中を追いかけて、見て、ここまで来たんだから。それが助けにならないなんてことがあるの?』 『これまで、あの子を支えてきたはずのメジロの誇りと矜持が、私の背を見て受け継いでくれたはずの物が今、あの子自身を苦しめている……ドーベル、分かるのです。私には。  バーデン大賞の走りが、それを十分すぎるほどに物語っていました。決して負けられぬ大舞台で、私のような走りをして敗北したあの子の前に、今私が姿を現せばどうなるか……』  マックイーンは一旦言葉を区切って目を瞑り、胸をいためるように胸元で手を握って……しばししてから、目を開いて言った。 『私に並び立ち超えてゆこうとする覚悟を持つ者に、私から今更メジロの娘としての矜持と在り方を説くまでもないのですドーベル。そう……ないのですわ』  メジロのウマ娘達は、誇り高さ故に時に自らを奮い立たせるが、その誇りが時に自らの心を灼き傷つける危うさと常に隣り合わせだ。  誇り故に、あるいは愛ゆえに、自らの心と秘めた激情を燃やす。  それゆえに、自らの貴顕の使命を果たすべく発ったファーゴの眼の前に自分が現れることは、ファーゴの誇りと矜持を著しく傷つけるであろうことをマックイーンは分かっていた。  仮に、ファーゴが本当に助けや助言をマックイーンに求めたとしてもマックイーンはこう答えるだろう。  ”あなたは、何のためにそこにいるのですか?”  寄り添ってやりたくとも、それ自体がファーゴの覚悟に対する侮辱となってしまうから、マックイーンはこうして突き放さねばならない。 『──ファーゴのことを、宜しくお願い致します。ドーベル』  出立するドーベルにマックイーンは改めて一礼して、彼女を見送る。  ◆  マックイーンとのやりとりをドーベルが回想していると、やがて着陸に向けてのアナウンスが機内に響いたので彼女は姿勢を正して着陸に備え始める……。 (マックイーンにはライアンやパーマーがいた。そして、アタシにはブライトがいた……)  時代を遡れば、メジロアサマにはメジロムサシがいた。  一つの時代を作った名だたるメジロのウマ娘達には、同じメジロのウマ娘としての理想と使命を共有し、ターフという舞台を彩る僚友がいた。  では、ファーゴには誰がいる?  ---  夜半時、フランスのトレーニング場。  時計の針が二つとも頂点を差そうとしている時間にもかかわらず、トレーニング上のコースを駆け抜ける細身で長身の芦毛のウマ娘の姿があった。 「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ!」  メジロ家のウマ娘、メジロファーゴが走っていた。  悠然として、甘い笑顔でも振りまけばヒトもウマ娘も等しく魅了できるはずの顔を歪ませて、歯を食いしばりながら身体に強い負荷をかけるトレーニングを行っている。  共に凱旋門賞への挑戦のために海外へ遠征に来ている同期のナカヤマフェスタとレースにおける後輩のヒルノダムールも、とっくにトレーニングを切り上げてトレーナー共々引き払っているはずなのだが、彼女だけが自身のトレーナーにも無断で夜中のトレーニングを敢行していた。  本来、睡眠に当てて体調を整えるべき時間を使ってまでトレーニングを行うのは褒められたことではない。まして、ここは日本ではなく海外フランスの地だ。  いつも以上に心身のストレスのかかる環境において、体調を整える時間を軽視してまでトレーニングを行うのは好ましからざるどころか、狂気の沙汰と言い換えてもいい。  それでも、彼女が自身を追い込まざるを得ないのは振り払っても振り払っても消えない焦りと焦燥によるものだった。 (身体が、脚が重い……最初は疲れてるんだと思った。でも、休んでも何にも変わらなくて、ただただ結果だけが悪くなっていく)  焦りで早鐘を打つ心臓が、続くはずの息が切れるのを早める。  上がるはずの脚が上がらず、身体の中心から芯を引っこ抜いてしまったかのように走りも体幹もブレる。  走っている最中にも明晰なはずの思考はずっと霧がかかったかのようで、気分転換に食事でも取ろうかと思えば土や砂を無理やり詰め込むようにしてお腹に収めていく。  それが、ここ数日のファーゴの状況だった。  ドイツにいたときは充実していたはずの心身が、バーデン大賞の敗北から全てが狂い始めている。  こんな状態だから、ヒルノダムールやナカヤマフェスタともまともに併走も出来なくなって、こうして夜にトレーニングを行っても何一つ好転していなかった。  そのうち走ることさえやめて、コースの中にファーゴは立ち止まり呟く。 「僕も、ドリジャのようになるのか……」  いつかは自分にも訪れると知っていて、頭の片隅に置いておきながらも考えないようにしてきたこと。  全ての競争ウマ娘に平等に訪れる終わり、決して避けられえぬもの、”本格化の終わり”。  太陽が昇り、やがては斜陽を迎え闇に落ちていくように。  星は輝き、やがては燃え尽きていくように……。  能力と体力が上がっていくだけの盛りの時期は過ぎ始め、後は踏みとどまるか落ちていくだけの終焉の足音が自分にも聞こえ始めているのだと、ファーゴは思い至った。  運命に、あるいは自分自身への怒りに拳を握りしめて、ファーゴは絞り出すかのような声で自身を責め立てた。 「ドリジャにあれだけ啖呵を切っておいてなんてザマだ。僕だって終わるんじゃないか……!」  自分よりもずっと長く走ってきたドリジャが衰えを自覚し、引退しようとしたことを安易に否定した自分の考えなしにうんざりする。  自分だけが特別だなんて思っていたのだろうか。  自分は特別なんかじゃないってことは、散々思い知ってきたはずだ。  多くのウマ娘達がそうするように三冠を志し、メジロ家に初めてのクラシック三冠を、皐月やダービーの勝利を齎すと意気込んでどれも叶わなかったその日から、ずっと。  だから、特別な人達を、過去の蹄跡が語るその物語を愛してきた。  それらをなぞれば自分もそうなれるような気がして、自分が特別なふりをして理想を演じてきた。  過去から現在へと繋がる永遠の物語の、主人公を────。  気がつけば、天を仰いでいた。  人は嘆く時、天を仰ぐ。涙が溢れないようにするために。  そうしたって自分の中から弱さが漏れ出てくるのは止められないのに、それでも天を仰ぐ。  ほんの少しだけでも、自分の弱さを否定したいから。  まだ心の内に残っている強さまで流れ出てしまわないように……。 「───っ!」  弱さを振り払って、再び走り出す。  びゅうびゅうと風を切る音を鼓膜に響かせて、脚を大きく踏み出し、全身の筋肉をバネのように躍動させて、ターフを駆け抜ける。  立ち止まってはいけない。  こうして走っている間だけは、情けなさにうつむくことも、涙をこらえ天を仰ぐこともないのだから。 (走れ! 脚を止めるな! これまでの軌跡を思い出せ!)  メジロアルダンと幼き日に、交わした言葉を思い出す……。 『未来を作るのは今この時を生きる私達の行い。いつか滅びを迎え、後世において無意味無価値だと断じられようと、自らの行いの意味と価値を証明し続ける。最高の今を刻み続けるその意志と行為の連なりを、ヒトは”永遠”と呼んだのよファーゴ』  メジロのウマ娘として生きると決めたその時に、自分に生き方を説いた素晴らしい人達を自らの走りを以て歴史に刻み続けると決めた。  メジロアルダンの姉、メジロラモーヌがレースとそれを彩る全てを愛したように、自分はメジロ家の全てを愛したんだ。  同世代のダービーウマ娘、ロジユニヴァースと交わした言葉を思い出す……。 『本当に運がいいウマ娘って、どっちだったんだろうねファーゴ。クラシックを競い合った私達の中で、もう貴方だけがずいぶん遠くなっちゃった』  三冠を分け合い、一人また一人と怪我や故障で第一線から離れていった戦友達の強さを、世代を自分は背負ってきたんだ。  いつか彼女達が本当の意味でターフに帰ってこれた時に、頂で挑戦を待ち受けるその日のために……。 『ファーゴ様、私達はメジロのウマ娘として走れなくなってしまうのですか?』  そして、春天を連覇した後にメジロ家で行われた祝勝パーティーの場で、幼いメジロのウマ娘に問いかけられた出来事が頭によぎった。  先にデビューしていったマックイーン達に憧れているだけだったかつての自分と同じ目をしているのに、走り出すその前から名を背負う未来が閉ざされようとしている彼女達のことを。  メジロにとって、最後の輝きとなろう自分が晩節を汚せばどうなることか────。  気がつけば……また脚が止まっていた。  止めていたはずのはずの、”弱さ”が再び漏れ出してくる……。 「どうして、止まっちゃうんだよぅ……」  半ば定められた呪われた未来、それに立ち向かうと決めながらこうして無力に立ち止まりかける。  きっと、これは罰なんだろう。  舞台の上の名優たちに観客席からただ無邪気に憧れていればよかったのに、自分もそうありたいと舞台に立とうとした愚か者に対しての。  背負えもしない覚悟と分不相応な使命を、背負うことで立派になった気でいた……”名優”になったつもりでいた道化に対しての。  こうして誰の目も届かない一人舞台に立ち、自分の物語を始めてみればどうだ? こんなにも弱く、何も演じられないじゃないか自分は……。  どうして、”最後”が自分なのだろう。メジロの終わりを粛々と潔く迎え入れることが出来るものが、その役目を担えばよかったというのに。  歴史の舞台から去ることを惜しまれる内に、身を引くこともまた一つの終わりと知っていながら、僅かばかりの希望と未来にすがって足掻く自分の姿の、情けなさ──────。 「ファーゴ……?」  立ち尽くし、項垂れていると、聞こえるはずのない声が聞こえる。  声がした方に振り向くと……見慣れた姿があった。 「ドーベル……」  メジロドーベル。  弱い、今の自分のこの姿を、もっとも見られたくない存在が見ていた。 「ドーベル、どうしてここに……」  平静を装って、声を絞り出す。 「朝にはこっちについてたの。ただ、ブライトがホテルでまた寝ちゃって……もうこんな時間になってた」  アタシも時差ボケ確定かな……と小さく呟いて、ドーベルは続ける。 「こんな時間にファーゴがトレーニング場にいるわけがないのに、それでも来てみたらいた」  強い目線が、僕を射抜く。 「ファーゴ、泣いてるの?」  どうかまよわないで、私が見ているから。  どうかくじけないで、強い私が強いあなたを見ているから。  あなたが貴方になるために、あなたが貴方でいられるように、私は道なき道を惑うあなたの背中を押しに来たの。  あの日に貰った言葉を、熾し火のように胸に灯したこの”強さ”を返しに来たんだ!  ──メジロドーベル  12.強いきみに、強いあなたに 後編  これまでのあらすじ  クラシック級での菊花賞、シニア級一年目での天皇賞春、宝塚記念とG1レースを三勝し、  年末の有馬記念こそ惜敗に終わったものの、同世代のスターウマ娘に負けず劣らずの活躍をしたメジロ家のウマ娘メジロファーゴ。  年も明け、偉大なる先人メジロマックイーンの後を追うように天皇賞春の二連覇へと歩みを進めようした矢先、  メジロ家がレースの世界にメジロのウマ娘を輩出することを今後取りやめるという発表を聞いてしまう。  今や、トゥインクルシリーズ現役のメジロ家最後のG1ウマ娘となったメジロファーゴ。  思い起こされたのは、幼き日にメジロのおばあさまより言い渡された”終わり”を見届けろという言葉。  受け継いできた誇り、受け継ごうとしてきた歴史に”終わり”を突きつけられた彼女はメジロ家の禁を犯すことを決意する。  それは、メジロの総帥が禁じたとされる海外遠征。目指す先は仏のロンシャン芝2400mG1レース凱旋門賞。  いずれ訪れる終わりを座して待つより、最後まで抗うことを彼女は選んだ。  メジロの新たな至宝としての地位を盤石にした春の天皇賞の連覇達成。  ようやくこれまで後を追ってきたメジロ家の偉大なる先達、メジロマックイーンに並び立つことが出来たものの、それは同時にこれまで後を辿ってきた目標を喪失することであった。  これからは自分自身の道を選びゆかねばならない。  衰えを自覚し、引退を決めかけている親友のドリームジャーニーを勇気づけるために凱旋門賞に勝って帰るという誓いを立てた。  旧くから日本のレースを盛り上げてきたメジロ家の末裔として、日本の誇るべきウマ娘達の一人として世界へと挑むという矜持と覚悟もある。  親友たちと共にレースを走った戦友たちの夢と、自分自身の証明をする為に、メジロファーゴは自らに課した貴顕の使命を果たすべく海外へと発つことを改めて決意した。  そして、紆余曲折ありながらも凱旋門賞への前哨戦としてドイツのバーデン大賞に挑んだメジロファーゴであったが、  ドイツのクラシック級ウマ娘デインドリームに敗れたことで希望を持って踏み出したはず夢の旅路に暗雲が立ち込め始めた。  人々が最強と信じたウマ娘達が……背負った夢と理想もろともロンシャンの地で打ち砕かれて、これまで何度も失望と絶望を繰り返した人々の声が今年の挑戦者達のファーゴ達へと向けられた。  ”どうせ今年も勝てやしないのだ”  ”夢は夢のままなんだ”  当事者としてそれらを肌身で感じ取ったメジロファーゴの心は灰色に彩られていく。  天へと、世界の頂きまでへと駆け上がらんと手を伸ばした結果、経験することとなる凋落。  地の底へと叩き落され、これまでに築き上げて来たはずの自らの”強さ”でさえも、信じられなくなるこの状況にあってメジロファーゴは足掻いていた。  人々の思い描く理想と、今の自分自身の姿がかけ離れていくことを、彼女は誰よりも恐れていたのだ。  凱旋門賞まで三週間を切ろうとしている中で、そんなメジロファーゴの様子を見ていたトレーナーは決意する。  受け継いできた過去の物語とそこにかけられた人々の想い、その一つ一つがこれまでファーゴを強くしてきたのならば、今この時にあって彼女が受け継がねばならぬ物語があるはずだ。  君が誰よりも”遠くへ”と羽ばたくために祝福の物語を始めよう。  逃げ出すよりも進むことを君が選んだその時からずっと、自分は最後まで支えると決めたのだ。  すぐ傍で、近くで、君と同じ夢を見続けると決めたのだから。  そしてトレーナーのそのような決意を知らず、一人深夜のフランスのトレーニングで自分を追い込んでいたメジロファーゴの前に現れたのは同じメジロ家のウマ娘メジロドーベルだった。  かつては弱かったはずの彼女は、今や強さを手に入れていた。  そんな彼女に今の自分の弱く、情けなくあがくみっともない姿を見られたくはない。  気がつけばファーゴの瞳からはずっと心にくすぶり続けた弱さが、涙となって零れ落ちた……。  --- 「ファーゴ、泣いてるの?」 「泣いてなんか……ないよ。どうして僕が泣かなくちゃいけないのさ……」  フランスの深夜のトレーニング場に現れたドーベルの視線と言葉がファーゴを射抜く。  全てを見透かされているようで、一瞬ファーゴは全てを曝け出してしまいたい衝動に駆られたが、ファーゴは必死に取り繕って返事をした。 「誰もが遠く彼方に煌めく憧れを目指しその多くが道半ばで斃れ諦める中で、僕はたどり着けたんだ……」  メジロ家がレースの世界から退くと発表されて、自分がメジロにとって最後のG1ウマ娘となることが決まった。  ただのG1ウマ娘じゃない、メジロにとっての至宝。メジロが最高の栄誉と位置づける天皇賞、その春の盾を二つ齎したマックイーンと同じ場所に並び立ったのだ。  敗北と挫折の中でも、自らを恥じて叱って進み続けた彼女と同じぐらい強いはずの、メジロファーゴが……。 「泣いていいわけが、ないんだよ……僕が! 強いウマ娘の僕がっ!! こんな所で脚を止めていいはずがないんだっ!!!」  気がつけば大きな声を出していて、”弱さ”と共に心の奥底に押し込んでいた感情が爆発していた。  その振る舞いと有様が、ファーゴの信じる強いウマ娘の姿からかけ離れたものであったのだとしても、一度決壊してしまえば止まらない。 「なのに、先に進もうとしても脚が動かないんだ……」  ついに……そのまま崩れ落ちて、抑え込んできたはずの”弱さ”が、涙がターフを濡らしていく。 「ファーゴ……」  そんなファーゴの有様を見てドーベルは一瞬、遠い目をしてしまった。  昔の自分がそのまま目の前にいたからだ……崩れ落ちたファーゴに、ドーベルは歩み寄った。 「強いウマ娘は、泣いちゃいけないの?」 「そうだよ……! 強いウマ娘は、自分の弱さを嘆いたりなんかしないし、誰にも頼ったりなんかしないし、いつだって強い所しかみんなに見せないんだ! だからっ!」  眼の前には信じた理想と強さを、誰かに投影し、そうやって作り上げてしまった架空の理想と虚像に押しつぶされたあの頃の自分がいる。 「今こうして、心が折れかけてる僕の姿なんて……誰も望んでない。そして、これまで積み上げてきた名声も背負ってきた夢も全部……消えてなくなる。僕が、弱いから……強いフリをしているだけの弱いウマ娘だから……っ!」  かつて、それは違うのだと思わせてくれるきっかけを与えてくれたはずの子がここまで自身を責め立てる様が……あまりにも痛ましかった。  そんなファーゴに、ドーベルは歩み寄って口を開く。 「ファーゴ、アタシは……たくさん泣いたよ。トゥインクルシリーズを走り切るまでに」  メジロファーゴが”強いウマ娘”だと言ってくれた自分だからこそ、言えることがある。強いはずの貴方に言わなくてはならないことが、ある。 「他人の目線が怖くて、ロクに走れなかったデビュー前のアタシの面倒を見てくれたおばあさんトレーナーに、心臓を悪くして引退直前になるまで勝利を見せてあげられなかった。  クラシックを終えて、有馬記念では芳しくない結果になってメジロの新世代は揃ってマックイーンやライアンの黄金時代に及ばないってテレビの評論家に言われたりもした」  メジロドーベルを最初に指導していた年老いたおばあさんのトレーナーは、心臓を悪くしてトレーナー業から引退してしまった。  以降ドーベルの指導を引き継ぎ、世間にメジロドーベルのトレーナーとして知られるようになったのは、彼女のサブトレーナーだった人だ。  それでもと二人三脚で挑んだトゥインクルシリーズのクラシック期、クラシックを期待されながらも勝利が叶わなかったメジロライアンの雪辱を自分が果たし、メジロのウマ娘として成果をあげたつもりだったが世間がメジロの新世代に期待したほどではかった。  メジロの過去の栄光を思い返させるための添え物のように扱われた。 「何度も、弱さを突きつけられてきてその度にトレーナーと一緒にたくさん泣いてきた……ねえ、ファーゴ。そんなアタシは、弱いウマ娘だったかな?」 「違うよ……」  メジロドーベルの問いかけにファーゴは首を振る。 「何度、自分の弱さを突きつけられても、それでも君は走り続けたじゃない……」  メジロファーゴが見ていたメジロドーベルの姿は、何度弱さを突きつけられようと厳しい視線に晒されようと、それでも走り続けていた。  進み続けた彼方その先に光があると信じて、前を向き走り続けていた。  そして……ティアラ路線を進み実績を残したウマ娘に贈られる賞である最優秀クイーンウマ娘、その年度表彰を四年連続で受けた史上初のウマ娘となった。  更に、後にウオッカが更新するまで破られることがなかった、ティアラ路線を進んだウマ娘で最多となる中央G1レース五勝の記録だって打ち立てた。  エリザベス女王杯の連覇の偉業、連覇時に女帝エアグルーヴをも破った。  ”今はまだか弱くとも──そして女帝を超えた強き女王”  人々はメジロドーベルのその歩みをそう評した。 「走って、走って、最後には彼方その先にある唯一つの光にたどり着いた。メジロが誇る無二の輝きの一つとなった……僕が見ていたメジロドーベルは、そんな”強いウマ娘”だよ。こうして折れかけてしまった僕とは、違う……」 「何が違うの?」  ドーベルは俯くファーゴの手を取った。 「アタシは最後まで走り切って、やりきってようやくそこまでたどり着いた……自分の強さを証明できた。でも、ファーゴはまだ走り切ってないでしょ? ファーゴがアタシと違うかどうかなんて、”まだ”分からない」  そのウマ娘が強いか弱いかなど、走りきった最後の時を迎えるまで分からないことだ。  強くあり続けるウマ娘もいるだろう、目も当てられなくなるほど凋落していくかつては強かったウマ娘だっている……でも、メジロファーゴはまだその旅を終えていない。 「ねえ、ファーゴ。トゥインクルシリーズを走り切るまでの長いようで短いその旅の中で、アタシ達ウマ娘は何度も限界に突き当たる。時には肉体的に、あるいは精神的に……もうダメだ、これ以上はムリ、走れないって」  ドーベルが羅列したそれらの言葉は、今のファーゴの状況をこの上なく示していた。  肉体と精神の双方が摩耗し、限界を迎え、自身から走る活力を奪っている。  胸を焦がすほど燃え盛っていたはずの心の熱も消えかけている。 「アタシも何度もそう感じてきた、でもね……その度に夢を乗せてくれた人達のことを思い浮かべてきたんだ。アタシを強いと信じてくれたあなた達のことを。最初にかけられたその願いと夢を」 「最初の夢と、願い……?」 「忘れかけてしまったのなら……ファーゴ、思い出して。あなたに最初に夢を乗せた人のことを、支えてくれた人のことを、一緒に───夢を見てくれた人のことを」  ドーベルに言われて、ファーゴは胸に手を当てて思い起こす。  そして、これまでメジロファーゴに願いと夢をかけてきた人々の姿と言葉が走馬灯のように過ぎていった。  --- 『あの子が走らないのなら、もうメジロ家がG1を勝利してレースの世界に貢献することは出来ないのかもしれない』  トレセンに入りデビューする前、メジロの重鎮達がそんな話をしていたのを聞いた。  シンボリルドルフの無敗の三冠に続くようにメジロラモーヌが築いたトリプルティアラ。  レースの世界はシンボリとメジロが並び立ち作り上げていく、時代に先駆けて来た黄金の時代を知るものほど走るウマ娘を輩出出来なくなった現状は口惜しいものだったであろう。 『ファーゴはデビュー前からあんなに期待されて……』 『あの子は私達とは違うのよ』  年の近いデビュー前のメジロのウマ娘達がそう噂しているのが聞こえてきた。  彼女達の多くが一つ勝利を上げるのがやっとのままターフから消えていき、やがて自分を遠巻きに見るようになっていくのを感じてきた。  ”メジロに再びの栄光を、先達に続けなかった私達の無念を晴らすため……強くあれ”  メジロの重鎮達に、名もなきメジロのウマ娘達からメジロファーゴにかけられた願いは強くあることだった。  それを、メジロの再びの栄光の為に必要なことであることと理解しながらも心が灰色のまま躍らない自分がいる。  なんて、”退屈”なのだろう。  人々が強いウマ娘を求めるのは当然だ、でも強いだけのウマ娘にはなりたくはなかった。  ”絶対の強さは時にヒトを退屈させる”と、そう評されたマックイーンに憧れはあるものの自分はそうなろうとは思わなかった。  夜空の天頂に多くの星が瞬いているのを見れば分かる。  たった一つの星がいくら強く輝いたところでそれが照らせる範囲のなんと狭いことだろう。  でも、そんな小さな光でさえも今のメジロには必要とされている。  かつてメジロの始祖が降り立った羊蹄山の地を照らすのは、今や黄昏時の残照のみ。  昔日に消えゆくかつての栄光と輝きを懐かしみながら、ただ夜の帳が降りていくのを不本意ながらも受け入れざるを得ない。  そこに、かつて自分がメジロアルダンと語らった”永遠”はなかった。  いつか訪れる終焉の足音がメジロに刻一刻と迫る時代の只中に、自分は走ることを宿命付けられてしまった。  このまま請われるまま、言われるまま、ただの使命のためだけに走る退屈な競争生活に明け暮れることになるのだろうかと───灰色に染まりかけた心に色がついたのは、些細な言葉だった。 『だからさ、シンボリルドルフの無敗の三冠のように初めて何かを達成するということはこの上なく偉大なことなんだよ。この先幾度も同じ偉業を成し遂げる者が将来現れたとしても、その度に初めて達成した者の名は再び人々の心に刻まれるだろう。すなわち”永遠”に人々の心に残るんだ』  そんなことを、トレセン学園のカフェテリアで同僚のトレーナー相手に語っていたのは若い男だった。  いかにも未熟で、野心的などこにでもいそうな青年。  そのうち打ちのめされて、やがてつまらない中高年になっていく前の、途方もない夢を胸に抱えた卵。  バカな夢だと一笑に付し聞き流して、通り過ぎることも出来た。  ”永遠に人々の心に残るんだ”  なのに……どうしてか、彼の言う”永遠”に惹かれる自分が居た。  ◆  その人と再び会った日のことは、昨日のことのように思い出せる。 『なあ、あそこの練習場にいる子は……』 『メジロ家のメジロファーゴ、最近G1レースじゃ振るわないメジロ家が新しくトレセン学園に送り込んできた秘蔵っ子さ。なんでも模擬レースでロジユニヴァース相手に勝ったらしい』 『近々デビューする中じゃ最強格だって言うあのロジユニヴァースをか!? もう誰かスカウトしに行ったのか?』 『いやあそれが……ちょっと事情が難儀でね』  僕の姿を見かけたトレセン学園のトレーナー陣が何やら騒いでいるが、いつものことだ。  おばあさまが見定めてくれた通り、嬉しいことに僕には才能があった。  でも…… 『でもさ、今のメジロのウマ娘を担当する勇気があるやつはいないよなあ』 『斜陽を迎えつつある名家を担当してしくじったらお互い不幸になるもの、生半可な覚悟で声をかけにはいけないわよ』  トレセンのトレーナー達はこのように誰も彼も難色を示して、才能があるのは分かってるんだけど自分が受け持つのはちょっと……という雰囲気になっている。  G1レースをなんとしても取りたいサトノ家のように、この時メジロ家も神経をとがらせていた。 『見た目はステイヤーっぽいけど、走りはマイラーっぽいしこれは路線でも揉めそうだぞ……』 『メジロ家って言ったら春の盾だもんな……マイル路線を素直にいかせてくれるかどうか』 『トリプルティアラのラモーヌ、ティアラ路線に限るとは言えG1五勝のドーベル、春天連覇のマックイーン、両グランプリ制覇のパーマーと、先達が偉大すぎてなあ……』  覚悟を持って声をかけてきたところで、生半可な実績ではメジロがこれまで積み上げてきた歴史と物語の前に霞んでしまうだろう。  積み重ねた歴史は名家にとっては誇りだが、こうしてトレーナー達を萎縮させる枷でもある。  誰もが、高すぎる壁を見上げて躊躇していた中で────練習場のターフに風が吹き抜けた。 『メジロ家というと、誰かが言ったよな? メジロマックイーンを凱旋門賞に連れていきたかったって。メジロ家から一人ぐらい連れてってみたらいいんだ。無駄に歴史を重ねてる名家に名を刻んでやろうって言うならそれぐらいのことをやって見せなきゃな」  風が、聞き覚えのある誰かの声を運んできた。  聞こえてきた言葉に、僕は思わず耳を傾ける。 『もし、あの子がレースの世界の”永遠”になりたいっていうのなら。海外遠征をしますって言葉の一つでも引き出したいところかな』 『お前なあ……メジロ家は国内しか走らないんだぞ。海外遠征への意識と見解の違いで、共にレースの世界を盛り上げてきたはずのシンボリ家と袂を分かったっていうのはこの界隈じゃ常識じゃないか』 『関係ないね。メジロ家がどうかじゃなくて、最後はあの子がどうしたいかだよ』  見つけた。  あまりのビックマウスぶりに、周りに呆れられたように首を振られているその人を、見つけた。  あの日カフェテリアで”永遠”を語っていたあの人を、見つけた  彼のいる場所に向かって歩を進める。 『なあに、一度やっちまえばメジロの国内特化だ日本のウマ娘のジンクスだなんだとうるさい声も全部吹き飛ぶ! 名誉はいきなり日本レース界の頂点だ! 何事も挑戦しないで何になる!』 『趙括みたいなことを言い出したぞこいつ……』 『若いトレーナーが陥りがちなエゴイズムだ』  そう、ただ期待された道を歩むだけに見える退屈さを吹き飛ばすなら野心的な人がいい。少しばかり無謀なぐらいがちょうどいい。 『俺はあの子が史上初の何かをやってのけるところを見たい。もし、仮にあの子が俺の担当ウマ娘になってそれを望むなら、あのメジロの妖怪ばーさんとやりあってでもどこにだって連れてってやる。例え、世界の果てまでだって』  そうだ、それぐらいのことをやって見せずして、挑戦し続けずしてどうして歴史に名を刻めるんだ。  遠くへ行きたい、世界の果てまでだってたどり着きたい。  バカみたいな夢と願いだって、叶えてしまえばそれは素晴らしき物語や英雄譚の始まりだ。  誰もが胸を踊らせ自分に願いをかける……そんな光景と未来をもし掴み取れたのなら……。 『どれだけ御大層なこと並べたってメジロ家のあの子が何かと素行の悪いお前をトレーナーにするわきゃないから安心するんだな』 『そこまで言うなら試してみましょうか? おーい君ー!』  彼が、僕の方に向かって走ってくる。  やがて僕達は、互いに向かい合った。 『君、俺の担当ウマ娘にならないか? 俺の夢は、ありきたりだけど目指せ海外だ。まずは国内をいい感じに勝って実績を残して……』 『いいですよ』 『えっ』  あっさりと返事をした僕に彼は面食らったようだ。  困るなぁ、これぐらいでおどろいてしまっては……これからもっと貴方とあっと驚くような物語を作っていくのに。 『貴方となら、世界のどこにだって行けそうな気がする……いいや、行きたいんだ。だから、僕が望んだのなら……世界のどこへでも連れて行ってくれますか? ”トレーナーさん”』  灰色の心に彩りが、胸の奥に確かな熱が灯る。  それがバカで、途方もない夢であったのだとしても、この先何度も打ちのめされて膝を屈したのだとしても、貴方が最初にかけてくれたこの願いを忘れたりなんかしない。 『──あぁ! よろしくな相棒!』  共に誰よりも遠くへと行こう。  僕達なら、どこへだって行ける。  どこにだって、たどり着けるはずだ。  --- 「……っ」  ドーベルの言葉で、トゥインクルシリーズの一歩目を踏み出すことを決意した日のことをファーゴは思い出した。  人々に永遠を刻む為に、挑戦し続けることを誓ったその日のことを。  誰もが胸を躍らせ、自分に願いをかけていくそんなウマ娘になることを誓ったその日のことを……その為に誰よりも遠くへたどり着くという願いを、その果てにこそ”永遠”があると信じたことを。  その願いと言葉をかけられるに相応しい自分であり続けるために、今日まで走り続けてきたのではないか。 『マックイーンはね、ファーゴがクラシック三冠全部に挑むことを聞いて喜んでたんだよ。捨てたはずの夢を拾ってくれたって』  最初に三冠ウマ娘になることを目指した時に、メジロライアンがファーゴにそう教えてくれたことがある。  メジロのおばあさまから長距離を走るように告げられたマックイーンが春の盾を制するために、半ば捨てたクラシックレース。  同世代の誰もが三冠を目指し、ライバル達と人生でただ一度の熱い青春をかけて全力でぶつかり合うその機会から、彼女は背を向けざるを得なかった。  それは、ある意味で”退屈”なものであっただろう。  やろうと思えばファーゴもメジロの栄光の為にマックイーンと同じような道を歩むことが出来ただろう。  しかし、そうすることを選ばなかった。  勝利の為に”退屈な”孤高の王者の道を歩むのではなく、大勢のライバル達と全力でぶつかり合い共に最高の舞台を作り上げ続けるターフの名優となる道を選んだ。  その道の最中で共に走った誰もが、強かった。  誰もが強かったから、ファーゴもまたそれに恥じぬように強く在り続けてきた。  星は一つだけでは夜空を照らせない、多くの星が瞬く中で自分もまた強く光り輝くために、何度だって奮起した。 『私が何故凱旋門賞を目指すのかって? センセイが好きだったからだ。歌劇に宝塚、そしてパリが……”宝塚記念”はお前に取られちまったが、もっとデケェもんをぶん取ってきてやるよ』  ライバル達と全力でぶつかり合い続けるその中で触れ合った過去の物語。 『速さも、運の良さも、一度脚を止めてしまえば走り続けて来たあなたの”強さ”には勝てなかった。追いつけなかった! もう誰も、私をあなたのライバルと思ってなんかくれない……』  散らばり捨て去られ、忘れ去られていく夢の欠片を拾い集めて、メジロファーゴは強くなってきた。  全ては誰よりも遠くへ行くために、道半ばに倒れてしまった人々の想いと心を連れていくために、その背に多くの夢と願いを乗せて走り続けてきた。 「僕の背には、あまりにも多くの願いが乗ってる……」  かつては退屈とさえ思えた、メジロの人々からかけられた強くなって欲しいという願いさえも、今や自分の一部となっていた。  自分が強くあることで救われる人々がいる……。 『まだ私達のことをライバルだと思っているのなら、世界の頂で待つと言ってみせろっ!』  踏み越えていったはずの自分にまた追いつき追い越そうとしているかつて戦ったライバル達がいる……。 「願いを一つ叶えるごとに、背負うごとに強くなって、いつの間にか世界で一番強くあって欲しいと願われるようになった」  自分が走り続けることで、強く在り続けることで終わっていったかに見える彼女達のことを、人々は思い出すだろう。  自分という存在が、彼女達がいたという証と記憶を何度でも思い起こさせる契機となるのなら、それは”永遠”に等しい。 「みんなにとっての”永遠”……僕はそれに相応しい自分であり続けられるのかな。こんな所で泣いてしまうような弱い自分でも」  ファーゴが零した言葉にドーベルは応えた。 「涙は、弱いから流れるんじゃない。強くなりたいとまだ願っているから、諦めてなんかいないから涙を流すんだ。ファーゴのその涙は、強さの証。こんな所で独りで走っていても微塵も諦めても折れてもいない、誰よりも強いウマ娘の証。  だから、”弱い自分”でさえも受け入れて、本当に強い自分が明日を迎えられるように……その一歩目を踏み出す勇気をあげる為に、アタシは言うよ────メジロファーゴは”強いウマ娘”なんだって」  強い君が、強くなった君が、強い目線で僕を見つめていた。  強い私が見ているから、僕に強くなって欲しいのだと。 「ドーベル……」 「ようやく、あの日貰った勇気と言葉をアンタに返せたよ」  本当の僕は、君の思うほど強いウマ娘じゃないかもしれない。  それでも……君がそうしたように、自分が歩んで来た道を誇れる自分ではありたいとは思うから。 「強いアタシが見ているから……ファーゴ、世界で一番強くなって」  強くなってと言い切る君を、嘘つきにしたくなんてないから、熱を失いかけた心と身体にもう一度、君のくれた勇気の焔を灯した。 「みんながアンタに夢を見ているから、ファーゴ……みんなの”永遠”になってっ!!」  燃え尽きかけていた心と身体に再び火がついていく。  凍りついた血管に、心臓から熱が送り込まれ全身を駆け巡っていく。  終わるべき時は今ではないのだと……魂が叫んでいた。 「ありがとう、ドーベル」  さあ、立ち上がろう。  さあ、走り出そう。  行く先は彼方……永遠へ至るその道の果てへと。    13.その道の名は  これまでのあらすじ  クラシック級での菊花賞、シニア級一年目での天皇賞春、宝塚記念とG1レースを三勝し、  年末の有馬記念こそ惜敗に終わったものの、同世代のスターウマ娘に負けず劣らずの活躍をしたメジロ家のウマ娘メジロファーゴ。  年も明け、偉大なる先人メジロマックイーンの後を追うように天皇賞春の二連覇へと歩みを進めようした矢先、  メジロ家がレースの世界にメジロのウマ娘を輩出することを今後取りやめるという発表を聞いてしまう。  今や、トゥインクルシリーズ現役のメジロ家最後のG1ウマ娘となったメジロファーゴ。  思い起こされたのは、幼き日にメジロのおばあさまより言い渡された”終わり”を見届けろという言葉。  受け継いできた誇り、受け継ごうとしてきた歴史に”終わり”を突きつけられた彼女はメジロ家の禁を犯すことを決意する。  それは、メジロの総帥が禁じたとされる海外遠征。目指す先は仏のロンシャン芝2400mG1レース凱旋門賞。  いずれ訪れる終わりを座して待つより、最後まで抗うことを彼女は選んだ。  メジロの新たな至宝としての地位を盤石にした春の天皇賞の連覇達成。  ようやくこれまで後を追ってきたメジロ家の偉大なる先達、メジロマックイーンに並び立つことが出来たものの、それは同時にこれまで後を辿ってきた目標を喪失することであった。  これからは自分自身の道を選びゆかねばならない。  衰えを自覚し、引退を決めかけている親友のドリームジャーニーを勇気づけるために凱旋門賞に勝って帰るという誓いを立てた。  旧くから日本のレースを盛り上げてきたメジロ家の末裔として、日本の誇るべきウマ娘達の一人として世界へと挑むという矜持と覚悟もある。  親友たちと共にレースを走った戦友たちの夢と、自分自身の証明をする為に、メジロファーゴは自らに課した貴顕の使命を果たすべく海外へと発つことを改めて決意した。  そして、紆余曲折ありながらも凱旋門賞への前哨戦としてドイツのバーデン大賞に挑んだメジロファーゴであったが、  ドイツのクラシック級ウマ娘デインドリームに敗れたことで希望を持って踏み出したはず夢の旅路に暗雲が立ち込め始めた。  人々が最強と信じたウマ娘達が……背負った夢と理想もろともロンシャンの地で打ち砕かれて、これまで何度も失望と絶望を繰り返した人々の声が今年の挑戦者達のファーゴ達へと向けられた。  ”どうせ今年も勝てやしないのだ”  ”夢は夢のままなんだ”  当事者としてそれらを肌身で感じ取ったメジロファーゴの心は灰色に彩られていく。  天へと、世界の頂きまでへと駆け上がらんと手を伸ばした結果、経験することとなる凋落。  地の底へと叩き落され、これまでに築き上げて来たはずの自らの”強さ”でさえも、信じられなくなるこの状況にあってメジロファーゴは足掻いていた。  人々の思い描く理想と、今の自分自身の姿がかけ離れていくことを、彼女は誰よりも恐れていたのだ。  凱旋門賞まで三週間を切ろうとしている中で、そんなメジロファーゴの様子を見ていたトレーナーは決意する。  受け継いできた過去の物語とそこにかけられた人々の想い、その一つ一つがこれまでファーゴを強くしてきたのならば、今この時にあって彼女が受け継がねばならぬ物語があるはずだ。  君が誰よりも”遠くへ”と羽ばたくために祝福の物語を始めよう。  逃げ出すよりも進むことを君が選んだその時からずっと、自分は最後まで支えると決めたのだ。  すぐ傍で、近くで、君と同じ夢を見続けると決めたのだから。  そしてトレーナーのそのような決意を知らず、一人深夜のフランスのトレーニングで自分を追い込んでいたメジロファーゴの前に現れたのは同じメジロ家のウマ娘メジロドーベルだった。  かつては弱かったはずの彼女は、今や強さを手に入れていた。  そんな彼女に今の自分の弱く、情けなくあがくみっともない姿を見られたくはない。  気がつけばファーゴの瞳からはずっと心にくすぶり続けた弱さが、涙となって零れ落ちた……。 『アタシ達ウマ娘はトゥインクルシリーズを走る中で何度も限界に突き当たる。時には肉体的に、あるいは精神的に。もうダメだ、これ以上はムリ、走れないって』  やがて崩れ落ちてしまったファーゴに歩み寄ったドーベルがかけたそれらの言葉は、今のファーゴの状況をこの上なく示していた。  そして、ドーベルは言う。  そうやって限界に当たる度に、自分は乗り越えてきた。心の中に自分に夢と願いを乗せてくれた人達を思い浮かべて、ずっと隣で自分を見て信じてくれた人のことを想い走ったのだと。  忘れてしまったのならば、ファーゴも思い出して欲しいと。  ”初めて何かを達成した者は、続く誰かが現れる度に何度も想起されて人々はその偉業を心に刻む、すなわち永遠に人の心に残る存在になるんだ”  ”君、俺の担当ウマ娘にならないか?”  ドーベルに言われ、メジロファーゴはトレーナーと出会った日のことを、彼が語っていたことを思い出した。  ただメジロのウマ娘としての使命のため、緩やかな衰退をほんの少しだけ遅らせる為だけに走るという退屈な未来に彼は彩りを与えてくれた。  彼となら、どこへだってたどり着けるはずだ。どんな夢だって、願いだって叶えられる。  自分は、永遠に人々の心に残るような存在になるのだと、そんな途方も無い夢物語を信じて走り出した日のことを。 『みんなにとっての”永遠”……僕はそれに相応しい自分であり続けられるのかな。こんな所で泣いてしまうような弱い自分でも』 『”弱い自分”でさえも受け入れて、本当に強い自分が明日を迎えられるように……その一歩目を踏み出す勇気をあげる為に、アタシは言うよ。メジロファーゴは”強いウマ娘”なんだって。  世界で一番強くなってファーゴ……みんなの”永遠”になってっ!!』  世界で一番強いウマ娘になって、みんなの永遠になって欲しい。メジロドーベルのそんな激励は、無力さと諦めに熱を失いかけたファーゴの心に再び闘志の炎を付ける。  それは、熾し火のようにいつまでも熱く燃え続けた強き女王からの最大のエールであった。  メジロの為だけの永遠ではなく、みんなの永遠となるためにメジロファーゴは再び走り出す。  行く先は彼方、永遠へ至るその道の果てへと。  --- 【とある老婦人の回想】  これは私の独り言。  己の歩んできた生涯の回顧であり、その道の最中で失った僚友達への悔恨であり、あなたへの独白である。  始まりの私から、終わりのあなたへ。  あなたは私を恨んでいるでしょうか? 一族が斜陽を迎えた時代に遣わされた最後の光の子であるあなたに、ただ終わりを見届ける道を歩ませたことを。  ”私達の子や孫、一族で天皇賞を勝て”  メジロのものならば誰もが知っている、前総帥が残したこの言葉こそが私の願いであり夢でした。  私より先に亡くなったあの人の夢を終わらせぬために、この夢と物語がいつまでもいつまでも続いて行く……そんな途方もない夢物語を私は信じていた。  いいえ、信じたかったのです。 『シンボリ家は、スピードシンボリは日本のレースの世界を作り上げていくものとしての義務を果たした。並び立つ僚友たるメジロがそれに続いて義理も責務も果たさずして、どうするつもりだ?』  総帥の席に座して黙する私を、僚友と信じていた彼女が責め立てている。  前総帥の遺言通り、国内のレースを盛り立てていく決断をした私の姿が、彼女には愚かしく不義理に見えていただろう。  この先の未来の全てのウマ娘に先駆けて、海外のかのレース……”凱旋門賞”に挑んだスピードシンボリに続いた彼女にとって、メジロから続くものが出さない決断をした私の行いは、彼女の誇りと気高さに泥を塗るひどい裏切りに見えただろう。 『シンボリとは、もはや袂を分かちました。あちらが海を渡る道を往くというのなら、メジロはメジロの道を往くまでのこと。メジロの名を持つウマ娘として、あなたは現在の総帥である私に従う気はあるのですか? ”ムサシ”』 『もはや……貴方とは交わす言葉もない。そのまま死んだ男の遺した夢だけを背負って老いてゆくといい。貴方がシンボリと袂を分かったように、私と貴方の歩む道も今こうして分かたれたのだ、”総帥”』  主人を亡くし、無理矢理にでもこれからのメジロの往くべき道を示そうと気勢を張る他無い私の心情を、我が友であるメジロムサシは汲み取ってはくれなかった。  踵を返して部屋を出ていく彼女は去り際に言葉を付け加えた。 『メジロに大恩あるかのロンシャンの歌姫、シェリルさんの願いは私が叶える。いつかメジロの名を持つものが彼の地に凱旋し、恩を返すその時まで私は……海の向こうへの夢を捨てはしない。積み重ねこそが、いつか彼の地に勝利を穿つのだから』  友の手によって閉じられた扉が、この世界から私を独りだけにした。  時は残酷にも過ぎ去って、私と亡くなったあの人が夢を語らった部屋にはメジロの栄光の軌跡が増えていく。  ティターン、マックイーン───ファーゴ。  飾り棚を彩る盾とトロフィーが増える度、自分の決断が間違っていなかったことを確信し、その為に失ったものの多さと捨て去った夢を想い独り胸を痛めた。  いずれ私達の血脈も枯れ果てて、想いも誇りも受け継ぐものがいなくなり、終焉を迎える日が来るのだとしても、あの人が私に残してくれた夢と物語をこれほどまでに続けられたのだから、私自身に悔いはない。  積み上げてきた過ぎ去りし栄光の日々にみっともなくしがみついて、今を生きるあの娘達の未来とあの人の夢を穢すぐらいならば、潔く終わらせるべきなのだ。  仮に、悔いがあるのだとすれば……  ”メジロに大恩あるかのロンシャンの歌姫、シェリルさんの願いは私が叶える”  去り際に僚友が残した、海の向こうから私達メジロに唄と走りを伝えに来たかの歌姫に恩を返すという夢。  自分を愛してくれた祖国を発ち、この国に骨を埋める覚悟で私達メジロに走りを伝えに来た彼女を始めとした多くのウマ娘達に、まだ恩を返せていないこと。  日本のウマ娘達は、私達は独力で強くなり世界に追いついたのではない。  祖国を、その地で築いた名声と愛してくれるファン達を振り切り、骨を埋める覚悟で尽力し続けた彼女達の積み重ねがようやく花開いたのだ。  ”積み重ねこそが、いつか彼の地に勝利を穿つのだから”  友が残した言葉が再び胸の内に蘇る。  そう、これこそが今日まで夢を受け継ぎ、物語を続けてくれた愛しいメジロの娘達の誰にも語らずに来た私の夢。  生前のあの人と、若かりし頃のシンボリ家の当主、スピードシンボリ、メジロムサシと無邪気に語らった夢……。 『メジロの奥方、私が何故故郷であるフランスの地を捨ててまでこの国に来たのか、お分かりでしょうか? 私を引き止める人は大勢いて、なぜ日本になど行くのだという方もいました……答えは簡単です。  生まれ故郷の誰よりも”遠くへ行きたかった”のです。ここではないどこか遠く、陸の果て海の果て空の果ての彼方にある私達ウマ娘がいつかたどり着くべき場所に』  ……シェリルとも、語らった夢。  走りだけではない、多くのものをメジロにもたらしてくれた彼女。  ムサシがメジロの屋敷を出ていった後にも、彼女は傷心の私を心身共に支えてくれた。 『貴方様とムサシ様との仲違いは残念なことですが、私は悲観してはおりませんの。だって、”道”は必ずどこかで繋がり、交わるのですから』  ムサシに言われるまでもない。  どれほど言葉を尽くしても足りない、メジロの”母”とも言える彼女に、私も恩を返したいと何度思ったことでしょうか。  そんな彼女に恩を返すという夢を捨て去ったその日に、奇妙にも彼女は遠い未来のことを予見してみせた。 『分かたれた様に見えたあなた達の歩みも、いつかどこかで交わり、それを拾い上げるものが遠い未来に現れますわ。時に優雅で、正道を行き、光り輝き、曲がりくねりながらも続き積み重ねられていく様々なメジロの娘達の紡ぐ”道”……ラインの中で、”永遠への道”へと至るものが、いつか私達の願いを叶えてくれますわ。  その日までどうか、メジロの始まりを……スタート・ラインを拓いた者達の一人として、胸を張り続けてくださいな』  遠い未来に、私が捨て去ったはずのその夢を拾い上げるものが、現れる。  そう慰めてくれた彼女にうなずきながらも、そんな日が来るわけがないと諦観していた──── 『僕は、凱旋門賞に出走します。前総帥の願いを守るために、あなた自ら禁じたそれを……誰よりもメジロのウマ娘であることを体現して来た僕自ら破ります。ファーゴの身勝手を、お許しいただけますか?』  ──本当に、その日が訪れるまでは。  シェリル、あの時のあなたには既に視えていたのですね……あの子の姿が。  私の知りうる限り、世界で最も自由なオンナであろうあなたには……私達の生き様がさぞ不自由に見えるのでしょうか。  ---  オペラ賞。  凱旋門賞ウィークエンドにフランスのパリロンシャンにて集中開催される14の重賞レースの一つであり、現在のクラスはG1。  創設当初はG2クラスのレースであったこのレースは凱旋門賞より少し短めの1850mの距離で行われ、現代においては2000m戦となった。  一般的にこのレースはティアラ路線のウマ娘達の”凱旋門賞”と位置づけられていて、その制覇者は名誉ある”歌姫”の称号を賜ることになるのだ。  その初代制覇者、オペラ賞の初代歌姫シェリルの名は……フランス人ならば誰もが知っている。  ──フランスのパリ観光ガイド、凱旋門賞ウィークエンド各レースの項目からの抜粋  ファッションと芸術の街、パリに店を構えることは至難であり、ましてそこで成功することはもっと難しい。  特にウマ娘の勝負服のオーダーを請け負う彼らはその中でも選りすぐりの職人達であり、ほとんどのデザイナー達は誰かからの紹介状なくして仕事を受けることはなかった。  そんな誇りある職人達の彼らの集まりに、一つの噂が飛び込んできた。 「あそこのアトリエの店主が日本人からの依頼を受けたらしいぞ」 「日本人嫌いで有名なあのじいさんが? 凱旋門賞当日のロンシャンに雹でも降るんじゃなかろうね?」  昼時のカフェテリアで口々に噂をする彼らの中で事情を知らない新参の服飾職人が疑問を挟む。 「その人、日本人に恨みでもあるんです? 女でも取られたんですか?」 「あー……お前、オペラ賞の初代歌姫シェリルの事は知ってるよな?」 「そりゃあ、もちろん。オペラ賞を制する未来の”歌姫”の一張羅を仕立てるのは俺達ウマ娘の勝負服デザイナーや職人の夢ですよ。で? その話に何の関係が?」 「あのじいさんはシェリルの大ファンで、若い頃にシェリルの勝負服を手掛けてたんだよ」  フランス人ならば誰もが一度は聞いたことがあるウマ娘、オペラ賞の初代歌姫シェリルの逸話。  多くの名ウマ娘を排出し、それを導き育て上げてて来た実績を持つフランスの名家に生まれた彼女は、まだ創設されたばかりのG2クラスのレース、オペラ賞を制し初代歌姫の称号を得た。  そして、これからもフランスの地で走り続けることと、いずれは多くのウマ娘を導き育て上げる役目を担うことを多くの人々から望まれたが、彼女は故国フランスの地にとどまることを選ばなかった。  ”メジロ家”を名乗る日本人に、『日本の地であなたの走りを伝えて欲しい』と頼まれ、その誘いを受けた彼女は故国を捨てて海の向こうの日本の地へと旅立った。  多くの人に惜しまれ、引き止める者が大勢いたにも関わらずそれでも遠い国へと旅立った彼女の真意は未だに諸説あるとされている……。  この一連の流れは、演劇や映画など様々な形で現在に至るまで多くの作品や物語が作られた。  専ら、凱旋門賞ウィークエンドのこの時期はそうした過去の名ウマ娘達の物語のリバイバル作品やメモリアル作品達が封を切られ、パリの町並みと訪れる世界各国のウマ娘達ファンを賑わしているので街全体が世界名ウマ娘劇場となっている。  この時期は、誰もが過去の名ウマ娘達に想いを馳せるのだ。 「知っての通り、当時のオペラ賞はG2だったからさ。あのじいさんが若い頃に手掛けた勝負服にシェリルは一度袖を通すこともなく、肝心のシェリルは日本に行ってしまって……それ以来どうも東洋人全般に当たりが強くなったんだ」 「ただの逆恨みじゃないですか」 「まあ、シェリルが日本で日本のウマ娘やメジロ家だかで走りを教えるだけならまだし傷は浅かったんだろうけど。そのまま向こうで帰化してしまってるわけだし気持ちは分からんでもない。それこそ好きな女やアイドルでも寝取られた気分だったんじゃないかね?」  一人が、冗談めかして言うと周囲からふふっと笑いが漏れる。  さあこれでランチタイムはお開きだ、仕事に戻ろうと彼らが動き始めた所で、彼らの話を黙ってじっと聞いていた一人から爆弾のような一言が投じられた。 「あのじいさんが受けた依頼、今年の凱旋門賞に出るメジロ家のウマ娘の勝負服を仕立てろって依頼だとさ。一体どういう心境の変化だろうね」 「え、ちょっと待て詳しく聞かせろ。あの人、親の仇かってぐらい逆恨みしてそうな日本のメジロ家だかの依頼を受けたのか!? シェリルを連れ去ったあんちくしょうとか言ってたのに!?」 「ほんとにロンシャンに雹か槍でも降るんじゃないか……?」  再び賑やかになるカフェテリアの一角、彼らは後に噂話にかまけて仕事をほうったツケを睡眠時間を犠牲にして補うことになった。  ◆  パリのカフェテリアで交わされる人々の噂話の風景から移り分かって、ここはパリの街でウマ娘達の勝負服のデザインから作成まで手掛けるとあるアトリエ。  そのアトリエの前に立ち、入っていこうとしているのは噂の当事者達であるメジロファーゴとそのトレーナーである。 「はー……またここのクソジジイと顔を合わせなくちゃならんか。あのジジイ俺が店に入るや否や口に出すのもはばかられるような用語で罵倒してきてだな」 「トレーナーさんの話を聞く限り昔気質な人っぽいですね。一応、メジロ家の紹介でこのアトリエを勧められたんですよね?」 「あぁ」  トレーナーは口には出さなかったが、何故かメジロの名前を出した途端にここの店主が激怒した経緯はあえて伏せた。  色々あったが、とりあえず紹介状を叩きつけてやったら向こうは仕事を受けてくれたので、あちらが余計なことを言い出さない限りはファーゴには無関係な事情だと思ったからである。 「新しい勝負服の大まかなデザインは向こうには伝えてある。メジロ家のカラーの白、緑縞や緑単色の線のイメージや意匠はそのままで、大きな違いとなる点は旧勝負服はアウターに緑生地のナポレオンジャケットと黒色のインナーで緑と黒を強く押し出したが、新勝負服は白を強く押し出した。ちゃんと形は希望通りに出来上がってると思うから、実際に目にして全然違うものが出てくるなんてことはないから安心してくれ」 「楽しみです! いつの頃か今までの勝負服を着ても昔ほど気分がアガらなくなったというか、しっくり来なくなってきたんですよね。鏡の前に立つと今の自分はもうちょっと白かったような気がして、どうも座りが悪かったというか……」 「芦毛のウマ娘は個体差はあれどちょっとずつ毛の色が白に近づいていくと言うし、何かが噛み合わなかったのかな? とっくに真っ白な髪になってる年頃のおじさんおばさんが髪を染めて若く見せてるとかそういう感じの」 「……例えがいやですけど、大まかにはそうです」  デリカシーのない例えをしてしまったせいか、ジト目になったファーゴにトレーナーは表情で抗議されてしまった。  要するに”大人”になって勝負服の色合いの好みが変わったということなのだろう。  メジロマックイーンも漆黒のコートドレスから白基調の勝負服にキャリア後半に変更をしているので、芦毛のウマ娘はジュニア級とシニア級にかけて色が黒から白へと変化すると言われることもある。  ファーゴもこの例に漏れず、なんとなく黒色が気に食わなくなったので白色を増やした勝負服をここになって作り直すことになったのだ。  そうした経緯もあって、メジロファーゴが来る凱旋門賞に向けて勝負服を新調する予定があることをメジロ家に伝えると……。 『私からの紹介状をあなた方にお送りいたします。あちらにお見せすればきっと快く仕事を受けてくださるはずですわ』  フランスについて生まれ故郷と同じぐらいに詳しいらしいメジロの重鎮の一人が結構ノリノリでこのアトリエを勧めて来たのであった。  ここ最近スランプに陥っていたメジロファーゴを元気づけようと、トレーナーはこういう形で裏で色々動いていたのである。  メジロ家からメジロドーベルがフランスに早めにやって来ることは聞いていたので、メンタルのケアは見知った彼女に任せてもいいだろうと判断できたことが大きかった。 「それはそうと、メジロの重鎮達とテレビ会議でやりとりしたわけだから当然あちらさんの顔も見えてたわけなんだけどさ。このアトリエを薦めてくれた重鎮が喋ってた時メジロのおばあさまが見たことない顔してたんだけどあの人何者なの?」 「前総帥が存命の時からいらっしゃる方で、フランスから日本に渡り、メジロ家と日本のウマ娘達に向こうでの走りを伝えてくれた大恩ある御方だと聞きました。確か、名前は”シェリル”と」 「えぇ……パリの観光ガイドにも載ってるオペラ賞の初代歌姫じゃん。いくつなんだあの人」 「いくつなんでしょうね……気になるけれども、深く考えてはいけない気がするんです」  世の中には深く考えてはいけないことがある。  ずっと生徒会にいるシンボリルドルフ、何人もいるダービーウマ娘。  年に一度のダービーを勝ったウマ娘が十人いるとすれば十年間の歳月が少なくとも経過しているというわけで、今年三冠に王手をかけている二冠ウマ娘のオルフェーヴルは七十八人目のダービーウマ娘だ。  単純計算で、最初に日本ダービーが開催されてから七十八年の歳月が経過している……。 「かんがえるのやめようか……」 「ですね……」  世の中の真理というか禁忌に触れかけた気がした二人は考えるのをやめた。 「ああそうだ。これから店に入っていくが、ファーゴは俺が呼ぶまでは入って来ないように。実際に君とここの店主とをご対面させる前に、ちょっとあちらさんと遠慮のない文化的コミュニケーションを取る予定だからさ」 「物理的なコミュニケーションに発展させることがないようにしてくださいよ。鳴りを潜めているとは言え、トレーナーさんは基本的に喧嘩っ早いんですから」 「もちろんだとも、君や日本のウマ娘に恥をかかせるようなことはしない。無論侮辱してきたら全力で応戦するが」  そう言って、のしのしと店の中に入っていくトレーナーの後ろ姿を見送ったファーゴは不思議と彼の姿がドリームジャーニーの姿に……日本に残してきた小さくて喧嘩っ早い親友の姿に重なって見えた。 「どっちも困った人達なんだから、もう」  親友のラッキーナンバーである数字の9をあしらったアクセサリー、かつて譲り受けたそれを指でいじりながらファーゴは小さな親友と初めて会った時のことを思い返して時間を潰すことにした。  ◆  ファーゴのトレーナーが中に入っていくと、如何にも気難しそうな老爺が凱旋門賞ウィークエンドの特集記事が載っている新聞を読んでいた。  店の中に入ってきた彼をじろりと一瞥して、再び紙面に視線を戻したのでトレーナーは咳払いをして話しかける。 「店主、頼んでいた品は出来上がっているんだろうな? 最後の仕上げに着る本人がいるって言うからちゃんと連れて来たぞ、今店の前にいる」 「ちゃんと出来てるよ。あとはほんの少し手直しするだけだ……若造、お前さんまで来なくてよかったんだがな」 「手直しの為の再採寸だと称してベタベタさわられねえように見張りに来てんだよジジイ。こちとらあの子の保護責任者だ」 「この道数十年のわしをスケベジジイ扱いとは随分な口をききやがる、客じゃなけりゃその口を縫い付けて喋れなくしてやるところだ」  入って早々だが、トレーナーと店主の間には剣呑な雰囲気が流れている。  というのも、この二人のファーストコンタクトは最悪なものだったのでその時の空気を引きずっているのだ。 『メジロ家のさるお方の紹介であんたのアトリエを訪れたが、うちの担当ウマ娘の勝負服を仕立てて欲しい。期限は三週間ちょっとだ』 『そうか、わしには嫌いなものが三つある。一つは東洋人で特にメジロを名乗る連中、二つ目と三つ目は、クソ忙しい時期に無茶なオーダーをぶん投げてくる客とクソ生意気な若造だ……全部該当してんじゃねえかえーっ!! 喧嘩売りに来てんのかチビジャップ野郎っ!!』 『貴様ーッ! メジロと東洋人を愚弄する気かぁっ! ジャップだチビだと挨拶代わりに愚弄しやがって、なめてんじゃねぇぞ! こら!』  このようにメジロファーゴ抜きのファーストコンタクトの時には、こんな感じに全力で売り言葉に買い言葉で怒鳴り合っていたメジロファーゴのトレーナーとアトリエの老爺。  プリティーなウマ娘達が近くにいないヒトオス共はこうしてすぐにタフタフして口が悪くなる。  新しい勝負服を仕上げるにあたって、色んな意味でメジロファーゴはいないといけない存在であった。 「メジロ家から紹介状をもらって、このアトリエに辿り着くまでにお高く止まった勝負服の職人共に薄ら笑いをされて来た中で、まともに仕事を受けたのはあんただけだった。仕事をちゃんとやってくれれば、無礼な発言を詫びてジャパニーズ土下座でもかましてやるよ」  トレーナーが店に入る前にファーゴは彼のことを評していたが、ファーゴのトレーナーは理性で抑え込んでいるだけで基本的に喧嘩っ早いしはっきり言って人間的にはクズの部類に入る。  ウマ娘のトレーナーでいる限りはギリギリまともな人間をやれているので、彼は恐らく一生ウマ娘に関わる仕事をやめられないだろう。 「ふんっ、いいことを教えてやるよ若造。大体な、パリの服飾職人相手に日本のウマ娘が凱旋門賞に出るための勝負服手掛けろって時点で大抵のやつはやる気を出さねえもんだ。毎回負けて帰る奴らの一張羅を本気で作るやつがいるか? 凱旋門賞じゃなくてパリコレにでも出てろって仲間内での笑い話にされるのがオチだ、なんなら今からでもパリコレに出れるように作り直してやるぞ。パリ観光の思い出にゃちょうどいいだろう」  ピクリ、とトレーナーのこめかみが動く。  人間のクズ同士の口プロレスで終わるなら適当にいなして終わらせるつもりだったが、日本のウマ娘達の挑戦を揶揄うかごとき向こうの言動だけは鼻についた。  ”物理的なコミュニケーションに発展させることがないようにしてくださいよ” (ああ、分かってるよファーゴ。ちゃんと文化的にやるさ、人間は理性と文明を持つ生き物だ)  深呼吸を一つ。  店に入る前にファーゴに言われた言葉を思い出して彼は人間らしい理性を持って老爺の物言いに反論した。 「偏屈なじいさんよ。ウマ娘達のことを持ち出してくるのはいくらなんでも口が過ぎるぞ、もうちっとリスペクトしてくれないかね? 世界に追いつき追い越そうと、各国からウマ娘を招聘しそのノウハウを学んだ日本のウマ娘達がその成果を示しに来てるのが海外への挑戦であり、俺達が凱旋門賞へ挑戦し続けた理由だ。この国、フランスからだって大勢のウマ娘達が日本に渡ってその発展に尽力して来た……その恩義に報いようと今年もやって来る彼女達を嘲笑えるほど、あんたのようなパリの連中は性格が悪いのか?」  最強の証明、日本のレース界が後世に残した宿題。  偉大なる挑戦者スピードシンボリと、それに続いたメジロムサシ。 「パリの観光ガイドにだって載ってるオペラ賞の初代歌姫シェリル、彼女だってフランスから日本に渡ったウマ娘だ。今ではメジロ家の重鎮の一人として、俺達にあんたを頼るように紹介状を寄越したヒトでもある」  日本のウマ娘達が凱旋門賞に挑む理由は、今日に至るまであらゆるものが積み重なり続けているが、その根底にあったのは日本のウマ娘はこれほど強くなったのだと、日本のレースの発展に尽力するために日本に渡ってきた各国のウマ娘達への恩返しという側面だ。  少なくとも、古くから日本のレースの発展に尽力してきたURAやメジロ家のようなレースの世界における重鎮達はそう認識している。 「俺のような人間性が終わってる男相手にどんな口をきこうが構わないがね。ウマ娘達の……いいや、誰かの努力と生涯をかけた挑戦を笑うことは回り回ってあんた達自身をも貶めることになるんだ。……じゃないと、お互いに不幸になる」  自らの強さと優位性の証明のために、他者を貶めようとする類の人間は後を絶たない。  そういう人間はどうしようもなく愚かだ。  周りを貶めた所で自分の価値は上がらないし、今まで貶めて来たものに何かの拍子に打ち勝ってみせた所で、その程度のものに勝てることは”当たり前”のことだ。  自らの手で価値を貶めてきているのだから、誰かを称え、称えられるという行為の意味合いさえもなくしていくことだろう。  努力が努力でなくなり、心血を注いだあらゆる挑戦がその価値を失う……他者へのリスペクトや最低限の尊重が失われた世界と思想が行き着く先は、そうした袋小路だ。 「これからあんたの前に連れてくるメジロ家のウマ娘は、シェリルが心血を注いでその走りをメジロ家の祖達に授けた”シェリルの子供達”の末裔だ。あの子の前でさっき言った様なことは謹んでくれよ。それこそ……シェリルが悲しむことになる」 「”シェリルの子供達”の末裔? あんた、何言って……」 「ファーゴ、入ってきていいぞ」  入り口の戸が開かれて、ファーゴと呼ばれた芦毛のウマ娘が入って来て店主の老爺の前に姿を表した。  身長はかなり高く、成人男性と並んでも見劣りはしない長身の持ち主だ。  体型も顔つきも中性的で、ウマ娘の証である耳やしっぽが見えていなければ細面の男と見違えるだろう。  ”シェリルの子供達”の末裔などと、この子のトレーナーらしい口が達者な日本人は言っていたが、自分の心に残り続ける”歌姫”の姿に似てはいないと老爺は感じた。 「ボンジュール、店主さん。僕の新しい勝負服を手掛けってくださったようで、最後の仕上げの為に伺いました」  なのに………どうしてだろうか。似ていないと心の中で断じたはずなのに、それでも目の前のウマ娘のどこかに共通点を見出してしまうのは。 『Bonjour, Monsieur.』  胸に手を当てて話しかける姿も、出来上がった勝負服を早く見たいと目を輝かせている様子も、何もかもが若かりし頃のあの日……自分がシェリルに勝負服を仕立てた時のようで───目頭が熱くなった。  若い時分に、この世のどんなものよりも彼女という存在に焦がれた。ただの一人のファンとして終わりたくなんてなかった。  ほんの少しでも彼女の歩みに関わりたいと願い、ウマ娘達の勝負服や服を仕立てる道を選び、初めて手がけた仕事が彼女の勝負服を作るということだった。  ……結局、自分が初めて作り上げた作品は一度も主に袖を通されることなかった。  シェリルが”メジロ”を名乗る日本人に誘われ、この国を去った日から長い月日が経ち……時に彼女を憎らしいとさえ思うことがあった。  自分の生涯をかけた仕事が軽んじられたような気がしたからだ。  それでも、青い情熱を向けて身につけた技術と感性までをも捨てる気にまではなれず、美しかった思い出だけを愛していた中で……異国の若造の手から紹介状だと渡された、”歌姫”から自分に宛てられた手紙の内容を、老爺は一字一句違えず思い出す。  ――――――――――――――――――――  Chère admirateur.  私のことを覚えておいででしょうか? あなたが初めて勝負服を仕立てたウマ娘として、あるいはそれに一度も袖を通すことなく海の向こうへ渡った不義理な女として、そのどちらかでも私はあなたの記憶に残っているでしょうか?  覚えてくださっているのでしたら、どうかこれからあなたの元を訪ねるであろうウマ娘の為に勝負服を仕立ててやってください。  あの日祖国を去る決断をし、引き止めるあなた達を振り切って日本へと渡った私の代わりに、その子は走りに来てくれました。  私が愛したもう一つの故郷の誇りと、一族の名を背負って、あの日あなた達の中で終わってしまった物語をまた始めるために、私が彼の国で走りを伝えた”子供達の末裔”は私が受け継いできた血脈と共に……ロンシャンの最高峰の舞台の主演俳優として凱旋を果たすことでしょう。  その素晴らしき名優の纏う衣装を仕立てる権利を、あなたに差し上げます。  ――――――――――――――――――――  あの日からずっと、やり残したままやり遂げられなかった最後の仕事を行い、止まってしまった時計の針を動かすことが出来るのならば……自分は新しい物語を紡ごうとする者達を愛せるだろうか?  そう思った老爺は、目の前のウマ娘に恭しく頭を垂れた。 「メジロのお嬢さん、あんたの晴れ舞台を飾る一張羅だ。誠心誠意仕事させてもらったよ、奥にあるスタジオのトルソーに完成品がかかってる。後は見栄えや寸法を微調整するだけだ、来てくれ」 「分かりました」  どことなく穏やかな顔つきになった店主の老爺に促されてファーゴはついていく。  その後ろをトレーナーは訝しげに見ながらついていったが、あえて老爺に理由を聞いたり茶化したりしない程度の良識は彼にあった。  理由は分からないが、機嫌よく仕事してくれるならいい。誰にだって、心の中に自ら紡いだ自分だけの物語がある。  そこに納得を見出すことが出来たのなら、いいじゃないか。 「ムッシュー、聞けばあなたはオペラ賞の初代歌姫シェリルの勝負服を手掛けたことがあるのだとか、フランスから日本の地へと渡り走りを伝えた彼女はメジロにとって大恩ある御方です。差し支えなければ合間にお話を伺っても?」 「もちろんだともメジロのお嬢さん。しかし、彼女の話をするその前にわしも聞きたいことがあるんだ」 「なんでしょうか?」  たどり着いたスタジオで試着した勝負服の微調整をしながら、見栄えを確認するためにライトを当てたり簡易的な舞台に立たせたりと、仕事を進めながら老爺はファーゴに問いかける。 「国内に留まり、走り続けることを大勢のファンや人々から望まれながらもそれでもシェリルは故国を捨てて旅立った。どうしてだと、あんたは考える? 自分には分からなかった。分からなくてずっと苦しんできたんだ……」  老爺の問いかけに、ファーゴは顎に手を当てて少しばかり思案する。  分からないわけではない。  ただあまりにも簡単な答えで、そのまま口にした所で真剣に問いかけている彼のことをバカにしたり茶化していると思われかねないだろうかと思っていたのだ。  ファーゴは、近くで腕を組んで見守っているトレーナーの方を見た。 (ウマ娘を間近で見てないと案外わからないものさ、そのまんま言っちまえ。ファーゴ)  そんなことも分からないなんてウマ娘のトレーナーじゃない人間はかわいそうだなと、肩を竦めて見せながらトレーナーはGOサインを出した。  ファーゴはそのまま、老爺が長年求めながらも分からなかった疑問の答えを口にする。 「誰よりも”遠くへ行きたかった”……ただそれだけだと思いますよ。たどり着いた場所がたまたま日本だったというだけで、その脚と運命が赦す限り行けるところまで行きたかっただけだと……そう思います」  この脚が許す限り、どこまでも大地を駆けて遠くへ……それはウマ娘が抱える原初の願いであり、本能。  シェリルはただ心の赴くままそれに従っただけでそこに深い意味などないのだとファーゴは答えた。 「……」  答えを聞いた老爺は呆気にとられたような顔をしてしばらく無言であった。  やがて、笑い出した。 「はっはっはっ! ただ、遠くへ行きたかっただけ! だから世界中にウマ娘はいて、その歩みに必死についてついていった人間もまた世界中に広がったんだろうよ」  老爺は一頻り笑って、最後の仕上げのための針を抜いた。  老爺は詩の一節を詠うように、言葉を紡ぎながら最後の仕上げにかかる。  人々に愛された”歌姫”は故国を旅立ち、東の果てにやがてたどり着いた。  彼女が根を下ろしたその大地は慈愛に潤い、緑と花が芽吹く……やがてそこから”巨人”が生まれた。  ”巨人”が均した大地に、人々は極光に照らされた舞台を作り上げ、そこに人々を楽しませる”名優”が立った──名優が立ったその舞台と共に共演した役者達から、様々な物語達が生まれた。  その中から”遠くへ行く”という名前と宿命を背負った子が──世界を巡り巡って、歌姫が愛した故国に紡いで来た物語を携え凱旋を果たす──。 「───無限に、永遠に続くその旅路の名……ああ、この勝負服にぴったりの名だ」  最後の仕上げを終えた新しい勝負服を老爺はファーゴに手渡す。 「さあ、出来たぞ。貴方の新しい勝負服だ mademoiselle Fargo. そちらから提案されたデザイン名のイメージ通り、仕上がったはずだ。この勝負服の名前は───」 【エンドレス・ライン】  厳かにその名を告げられた新しき舞台衣装を受け取って、名優とその従者は仕立て屋を後にする。  永遠への旅路を意味するその名は、彼女のこれからの歩みに新たな力を与えるだろう。  この世にいくつも存在している打ち捨てられ、終わったかに見える無数の物語達。  ただ忘れ去られていくだけに見えるそれらは、こうしてひょんなきっかけからその場に訪れた名もなき未来の名優達が拾い上げて、止まっていたはず時計の針と物語がまた動き出す……そんなこともあるのだ。  もし仮に、終わった物語でさえもいつか遠い未来で誰かが拾い上げてまた新しく始めてくれるのだと、人々がそう信じることが出来たのならば……誰もが穏やかに自らの物語に幕を下ろすことが出来る。  結末とその過程に、僅かでも自分の中での折り合いと納得を見いだせるだろう。  まだ見ぬ未来を信じ、後世に託すこと。  その営みの繋がりと、連なりが人々の記憶や記録となり。  人々の記憶と記録の連続が、やがて歴史となり。  歴史がそうして未来永劫無限に紡がれ続けるその様を、ヒトは”永遠”と定義した。  永遠を続けるため、そこに至るために続く無限の旅路……人はそれを”エンドレス・ライン”と呼んだ。  ◆  スタート・ラインから、ラスト・ラインのあなたへ。  時を超え、打ち捨てたはずのその夢と物語を、あなたは拾い上げてくれました。  メジロの長として振る舞うために、胸に秘めたまま終わらせるはずだった物語を、もう一度あなたは始めてくれた。  これまで幾数百と築かれ、時に分かたれながらも歩き続けた私達の”道”は遥か彼方にてあなたへと交わった。  ……それだけでもう、十分だったのですよ。  羊蹄山の深雪の中に、我らの始祖は降り立った。  其は"母なる山"を起こし、慈愛に潤った大地からは"巨人"が生まれ――やがて全ての子らが目覚め始めた。  私達が興し、”巨人”が均したその大地に築かれたその舞台には人々を楽しませる”名優”が立った。  私達が紡ぎ、そしてあなたへと受け継がれた永遠のようにも思える物語。  あなたが紡ぐべきその物語と、歩むべきその”道”の名は……”エンドレス・ライン”。  斜陽を迎えし、我らのもとに。メジロの中興の祖は降り立った。  ──メジロアサマ  第十三話、その道の名は  終  ---    14.最終章:凱旋門賞編 偉大なる挑戦者達  これまでのあらすじ  クラシック級での菊花賞、シニア級一年目での天皇賞春、宝塚記念とG1レースを三勝し、  年末の有馬記念こそ惜敗に終わったものの、同世代のスターウマ娘に負けず劣らずの活躍をしたメジロ家のウマ娘メジロファーゴ。  年も明け、偉大なる先人メジロマックイーンの後を追うように天皇賞春の二連覇へと歩みを進めようした矢先、  メジロ家がレースの世界にメジロのウマ娘を輩出することを今後取りやめるという発表を聞いてしまう。  今や、トゥインクルシリーズ現役のメジロ家最後のG1ウマ娘となったメジロファーゴ。  思い起こされたのは、幼き日にメジロのおばあさまより言い渡された”終わり”を見届けろという言葉。  受け継いできた誇り、受け継ごうとしてきた歴史に”終わり”を突きつけられた彼女はメジロ家の禁を犯すことを決意する。  それは、メジロの総帥が禁じたとされる海外遠征。目指す先は仏のロンシャン芝2400mG1レース凱旋門賞。  いずれ訪れる終わりを座して待つより、最後まで抗うことを彼女は選んだ。  メジロの新たな至宝としての地位を盤石にした春の天皇賞の連覇達成。  ようやくこれまで後を追ってきたメジロ家の偉大なる先達、メジロマックイーンに並び立つことが出来たものの、それは同時にこれまで後を辿ってきた目標を喪失することであった。  これからは自分自身の道を選びゆかねばならない。  衰えを自覚し、引退を決めかけている親友のドリームジャーニーを勇気づけるために凱旋門賞に勝って帰るという誓いを立てた。  旧くから日本のレースを盛り上げてきたメジロ家の末裔として、日本の誇るべきウマ娘達の一人として世界へと挑むという矜持と覚悟もある。  親友たちと共にレースを走った戦友たちの夢と、自分自身の証明をする為に、メジロファーゴは自らに課した貴顕の使命を果たすべく海外へと発つことを改めて決意した。  そして、紆余曲折ありながらも凱旋門賞への前哨戦としてドイツのバーデン大賞に挑んだメジロファーゴであったが、  ドイツのクラシック級ウマ娘デインドリームに敗れたことで希望を持って踏み出したはず夢の旅路に暗雲が立ち込め始めた。  人々が最強と信じたウマ娘達が……背負った夢と理想もろともロンシャンの地で打ち砕かれて、これまで何度も失望と絶望を繰り返した人々の声が今年の挑戦者達のファーゴ達へと向けられた。  ”どうせ今年も勝てやしないのだ”  ”夢は夢のままなんだ”  当事者としてそれらを肌身で感じ取ったメジロファーゴの心は灰色に彩られていく。  天へと、世界の頂きまでへと駆け上がらんと手を伸ばした結果、経験することとなる凋落。  地の底へと叩き落され、これまでに築き上げて来たはずの自らの”強さ”でさえも、信じられなくなるこの状況にあってメジロファーゴは足掻いていた。  人々の思い描く理想と、今の自分自身の姿がかけ離れていくことを、彼女は誰よりも恐れていたのだ。    やがて、己の不甲斐なさからフランスの深夜の練習コースで崩れ落ちてしまったメジロファーゴ。  そこに歩み寄ったのは現地に早めに応援に来ていたメジロドーベルであった。  彼女は言う。    『アタシ達ウマ娘はトゥインクルシリーズを走る中で何度も限界に突き当たる。時には肉体的に、あるいは精神的に。もうダメだ、これ以上はムリ、走れないって』  メジロドーベルがかけたそれらの言葉は、今のファーゴの状況をこの上なく示していた。  そして、ドーベルは続ける。  そうやって限界に当たる度に、自分は乗り越えてきた。心の中に自分に夢と願いを乗せてくれた人達を思い浮かべて、ずっと隣で自分を見て信じてくれた人のことを想い走ったのだと。  忘れてしまったのならば、ファーゴも思い出して欲しいと。  メジロドーベルに言われ、メジロファーゴはトレーナーと出会った日のことを思い出した。  ただメジロのウマ娘としての使命のため、緩やかな衰退をほんの少しだけ遅らせる為だけに走るという退屈な未来に彼は彩りを与えてくれた。  彼となら、どこへだってたどり着けるはずだ。どんな夢だって、願いだって叶えられる。  自分は、永遠に人々の心に残るような存在になるのだと、そんな途方も無い夢物語を信じて走り出した日のことを。  『世界で一番強くなって……みんなの”永遠”になってファーゴっ!!』  世界で一番強いウマ娘になって、みんなの永遠になって欲しい。メジロドーベルのそんな激励は、無力さと諦めに熱を失いかけたファーゴの心に再び闘志の炎を付ける。  それは、熾し火のようにいつまでも熱く燃え続けた強き女王からの最大のエールであった。  メジロの為だけの永遠ではなく、みんなの永遠となるためにメジロファーゴは再び走り出す。  行く先は彼方、永遠へ至るその道の果てへと。  --- 【とあるウマ娘の回想】  今で言うG1レースがまだ八大競走と呼ばれていた頃の話だ……メジロ家の総帥が亡くなった。  まだこれからだという御年であられたというのに、三女神様はウマ娘を祝福しても人間の男にまでは加護を与えてはくださらぬようだ。  トレーナーでもあった彼が妻としたのは私の”僚友”でもあった女で、私としてはようやくかと思っていた。  ウマ娘が強く育つ土地、水や食べ物の豊かな場所を探す為と称した単なる新婚旅行の進捗を聞かされることに正直うんざりしていたし、徐々に丸々と肥えていく僚友の姿にいい加減に危機感を覚えていたこともある。  彼女達のおかげでと言うべきか、そのせいでというべきか、現代のメジロのウマ娘達で抜けた強さを持つ者は大抵は健啖家であった。  それだけ仲睦まじい夫婦であった二人だが、その間には中々子供が出来なかった。  周囲の口さがない者達が石女だの、種無しスイカだのと騒ぎ立てて、一悶着があったが……それでもようやく身ごもり子を授かった後、メジロの若き総帥は亡くなった。  ”私達の子や孫、一族で天皇賞を勝てたら思い残すことはない”  つい先日まで、私達の前でそう語っていたあの方は、夢にまで見たであろうその光景を見ること無く、突然にこの世を去ってしまった。  もみぢ葉を風にまかせて見るよりも、はかなきものは命なりけり。  命というものは紅葉よりも儚い。  そして、空席となった”総帥”の座についたのは、夫をなくして傷心であろう我が僚友であった。  今や総帥となった、かつての僚友から示された指針は二つ。  メジロは今後海外への挑戦は打ち切り、国内のレースに専念する。  前総帥の遺言に従い、天皇賞の盾を取ることを至上の目的とする。 『メジロの名を持つウマ娘として、あなたは現在の総帥である私に従う気はあるのですか? ”ムサシ”』  彼女から示された方針は、海外への挑戦を行い敗れて今なお、海の外への夢を捨てていない私という存在を否定するかのごときものであった。  海を渡るのはシンボリだけでいい、メジロはメジロの道を往く……私がこの胸に抱く夢はメジロにとって異分子だということだ。  ヒトというものは、これほどまでに変わるものなのか?  かつて彼女も混じえ、スピードシンボリらシンボリ家の人々と海の外のへの夢を、凱旋門賞への挑戦を語らったあの日々は泡沫の夢であったのか? 『もはや……貴方とは交わす言葉もない』  月やあらぬ春や昔の春ならぬ、わが身一つはもとの身にして。  私以外の何もかもが変わっていく。  だから私は、かつて”僚友”と呼んだ眼の前の女との決別を選んだ。 『そのまま死んだ男の遺した夢だけを背負って老いてゆくといい。貴方がシンボリと袂を分かったように、私と貴方の歩む道も今こうして分かたれたのだ、”総帥”』  あるいは、二人で支え合いながら共にメジロ家という大樹の芽を育み守っていく道もあったのかもしれない。  共に来いといってくれたのならば、友として私はそれを受け入れられただろう。  しかし、彼女は言ったのだ、”私に従う気はあるのかと”。  私達の関係は、対等の友人同士から主従のそれへと変わり、その瞬間に私達の友誼は砂上の楼閣のように崩れ去った。 『メジロに大恩あるかのロンシャンの歌姫、シェリルさんの願いは私が叶える』  彼女の下とメジロの屋敷を去る前に最後にただ一言、付け加える。向こうがどんな顔をしているのか伺いしれないが、もう知る必要もないだろう。  共に歩んできた私達の”道”はもはや分かたれた。この先、交わることはないだろう。  メジロの屋敷を出て、自由と引き換えに得た孤独の身に残ったのはかつて抱いた夢。  今なお我が心に焼き付いてやまない、偉大なる”老雄”スピードシンボリの姿。  それに続かんと競争に明け暮れ、海外への挑戦を志した青春の日々。  この胸にある我が願い……それは、かつてシンボリ家の当主やスピードシンボリらと語らった夢。 『毎年のように多くの金銭やコネクションを用いて世界各国から実績あるウマ娘達を招聘し、日本のレースの発展と日本のウマ娘達の能力の向上に心血を注いでおきながら、そのノウハウを学んだ私達が国内のレースしか走らない。それはとても残念なことだと思う。私達は証明しなくてはいけないんだ、世界に向けて』  日本は世界各国の名ウマ娘達の”墓場”だ。  毎年のように多額の資金とコネクションを使って大勢のウマ娘達を世界各国から呼んでおきながら、何の成果も出ていない。  海外に挑戦して勝ち負けできるほどのウマ娘を排出できていやしないじゃないか。  そう、世界から嘲笑されることさえあるかつての日本のレース界とウマ娘達の現状を知った上でシンボリ家やスピードシンボリは憂いていた……私も全くの同感だった。  メジロ家も、シェリルさんを始めとして海外から実績あるウマ娘を招いている。彼女達には恩義があり、私達はその恩を返さねばならない。  それが、私達の共通認識だった  私達はこの先の未来のウマ娘達に先駆けて海外のレース……凱旋門賞に挑んだウマ娘として、私達の後に続こうとする者達を生涯支援していく道を歩むことを誓いあった。  いつか凱旋門賞を制覇する者が現れる日を見届けること、それが私達の夢になった。  そして、永い永い月日が経つ───  スピードシンボリ 着外  メジロムサシ 18着  シリウスシンボリ 14着  エルコンドルパサー 2着  マンハッタンカフェ 13着  タップダンスシチー 17着  ディープインパクト  メイショウサムソン 10着  ヴィクトワールピサ 7着  ナカヤマフェスタ 2着  今年こそは。  今度こそは。  積み重ねこそがいつか勝利を穿つと信じ続け、幾度かのレース……”凱旋門賞”に挑む者達を送り出し、見送ったことだろう。  託した夢が一つ敗れ去る度に俯き、歩んできた道を振り返る度に斃れた者達と支払った代償の大きさに慄いた。  この繰り返されるだけのように見える愚行が、いつの日か全てが成った時、勝利への布石へと変わることを信じて……私達はまた今年も積み重ねる。  夢が敗れ去る度に、人々は俯き。  歩んで来た道を振り返る度に、支払った代償と高すぎる壁に脚を竦ませた。  だが、ただいたずらに繰り返されるかに見える愚行は、奇跡をなし得たその時を以て全ては布石へと変わることだろう。  私のように続くものがいる限り、初めて世界に挑んだかの”老雄”の姿は永遠で有り続けると、私はそう信じたのだ。  ──メジロムサシ  ---  宝塚記念には”メジロ記念”という俗称がある。  近い世代のメジロ家のウマ娘がその勝利や着順を独占したことがその由来で、ライアン、パーマー、マックイーンの三年連続でのメジロ家の制覇での偉業によってついた俗称だと言うのが通説だ。  宝塚記念を勝ったメジロ家のウマ娘と言うとこの三人が近年のレースファンには思い浮かぶが、旧い時代のレースを知るものはそこにもう一人の名を上げる。  その名はメジロムサシ。  重賞レース目黒記念の制覇から続けて、宝塚記念においてメジロアサマとワンツーを決めてメジロ家の名を国内に轟かせた彼女は、旧い時代のレースを知る者達からは今なお畏敬の念を持たれている。    黎明の時代、メジロに並び立つ二人の両雄ありけり。  彼女達は良き友であり、同じ道を歩み、同じ志を持つ僚友同士でもあった。  ──URA発行のウマ娘年鑑、八大競走の時代を駆け抜けた者達の項目から抜粋  公開トレーニング。  それは、レース本番が近づく頃にレース関係者や報道陣にウマ娘達の練習光景を公開して行うトレーニングのことだ。  これを行う理由は複数あり、ファンが人気投票を行う際にその根拠とするデータを一般に提供するという意味合いがある。 『あの子は調子がいいな! 絶対一着を取ってセンターでライブをするぞ! 一番前の席のチケット買わなきゃ!』 『いつも応援してるあの娘は今回は調子悪そうだな……むっ! あの娘もいいねぇ!』 『あいつは一番人気になって俺が最前列のSチケットを勝った時に限って負けるから投票は絶対しねぇ! グッズは買うけど!』  このように例を示したが、人気投票や推し活には欠かせないデータとなっている。  もう一つは……少なくとも国際的なグレードのレースや中央では行われない八百長行為を防ぐという意味合い。  何かしらの形で出走ウマ娘やトレーナー同士での合意のもと、タッグを組んで特定のウマ娘を邪魔したり、あるいは手を抜いて誰かを勝たせるなどといった行為を防ぐ意味合いがある。  なぜ公開トレーニングを行うことで、八百長や談合を防げるのかと言うと…… 『あの娘、公開トレーニングで出した時計よりも随分遅いけど体調を崩したんだろうか?』 『急に最終直線で失速したけど故障したんじゃ……』  今のは一般ファンの目線からの心配として例を示したが、事前にこの娘はこれだけの能力がありますよ示しておくことで、そこから大きく逸脱するようなことがあれば何かしらの原因究明が行われるということだ。  タイムが極端に遅ければ故障や不調を疑われる。或いは不自然なほどに調子が良ければ何かしらのドービングの検査が行われる。  こういう体制を作っておくことで、トゥインクルシリーズでの競争は健全さと公平さを保ってウマ娘達が全力で競い合うことが出来るのだ。  もっとも、この世の終わりのような顔をして公開トレーニングを行ったくせに本番で強さを発揮するようなウマ娘もいるので、必ずしも公開トレーニングはウマ娘の本番での強さを測る絶対の指標としては機能しない。  あくまで参考程度に、しかし無視はできないというほどほどの距離感を持ってそのデータを参考にするべきだろう……。 「デインドリームの公開トレーニングを見に来ましたが……思ってたよりも日本の記者や報道陣もこっちに来てますね?」  凱旋門賞が近日に迫り、フランスのトレーニング場各地で一斉に週末のレース出走者達が公開トレーニングを開始した。  メジロファーゴとそのトレーナーは、先日のバーデン大賞で自分達を破ったドイツのクラシック級ウマ娘デインドリームの様子を見に来ている。  彼女も凱旋門賞に出走することが確定しているのでライバルの偵察といったところだ。 「皮肉なことにデインドリームはこれまで本場ドイツでもあまり注目されてなかったし、日本との関わりもURAの有力者が彼女の学費を半分出してスポンサーになってるぐらいだったんだけど……」 「だけど?」 「ここ最近のG1連勝、その片方のバーデン大賞でファーゴ、君を破ったことで随分名が売れたらしい。日本の報道陣も取り上げざるを得ないというわけさ」  見学スペースで雑談を交わしつつ、二人はデインドリームの様子を観察し続けた。  バーデン大賞の敗因分析で嫌になるほど彼女の走りを分析のために見ているが、あいも変わらず小柄な身体に似合わぬストライド走法を以て洋芝のコースを駆けている。 「どう思う?」  デインドリームがコースを一周して戻ってくる頃にトレーナーはストップウォッチを止め、ファーゴに問いかけた。 「勝つならスピード勝負に持ち込みたいところです」 「だな」  素の能力だけで言うならば、メジロファーゴとデインドリームの間には大きな差はない。  ただ日本の高速化していくレースに対応する為に瞬発力とスピードに能力を振ったファーゴと、ジュニア級から欧州各地に遠征を繰り返しタフなレース場を走破するパワーとスタミナに振ったデインドリームとでは伸ばした能力のツリーが違かった。  故に同じ土俵で戦う選択肢は最初から捨てるべきだ。なにせ、安易にそれをやって失敗したのが前回のバーデン大賞なのだから。 「それにしても今どき時計のかかるレースの方が得意なこってこてのステイヤーを出してくるとはね、 日本のご当地化も激しいがドイツも人のこと言えんレベルで特化してるよ」 「世界的に交流が多くなって良くも悪くも各国のウマ娘達の技術は似たりよったりになった中で、ドイツは未だに可能性を秘めたフロンティアとも聞きますよ。事実彼女達は時計のかかるレースへの適性を裏付けるスタミナ同時に、それを活かしたスピードも備えているので日本のウマ娘も学ぶ点が多いです。  メジロ家に僕が出てきてその理想をモノにするまで出せなかったアンサーを……ドイツのウマ娘達はとうに出していたとも言えます」 「だからURAの有力者も、彼女の学費を半分出してまで唾を付けたってわけだ」  聞けばデインドリーム陣営は、日本のスポンサーから秋華賞出走を求められていたそうだが、”より格式の高い”レースを求めた結果凱旋門賞を選んだ。  表向きは2400m戦を得意とするデインドリームに2000m戦はやはり厳しいということを理由にしたが、分かるやつは分かっている。 『ドイツでシニア級混合G1を二つ制覇して王者となり、その途中でメジロファーゴという現在の日本のトゥインクルシリーズのシニア級トップクラスウマ娘の一人を破った私達が、日本のクラシック戦にわざわざ顔を出すことに意味を見いだせない』  それを、言外に彼女達は語っている……日本のティアラ路線の三冠目のあなた達では私のお相手にならないのだと。  昨年のエリ女では海外からやってきた”雪の妖精”が大暴れしたこともあって、ここ最近の日本のティアラ路線のウマ娘達にとっては海外のティアラ路線のタフ・ゴリラ共に続けて愚弄された形になる。  こうした流れに、トリプルティアラウマ娘アパパネや非公式クラブ桜と樫の会、会長ブエナビスタなどを筆頭にティアラ路線で実績を残したウマ娘達の多くが、海外からの刺客に『来れるもんなら日本に来てみやがれ、私達の美しさと可憐さを教えてやる!』と、怖い顔をしていたのは記憶に新しい。  ……個人的に桜と樫の会の会長さんは見た目が未勝利戦さまよってる娘みたいなだけで、タフ・ゴリラ側だと思うけどなぁ。 「ジュニア級、クラシック級辺りで担当がイケイケだと調子に乗っちゃうよね俺もすごくわかるよー……分かりすぎて辛いな」 「今だから言いますけど僕も最高に調子に乗ってました……」  もはや過ぎたことだが、メジロファーゴをデビューさせてラジオNIKKEIステークス、スプリングステークスと世代重賞を連勝し、あっという間にクラシック級最有力のコンビとして名を馳せた日のことをトレーナーは思い出した。  最高にイケイケで調子に乗って、ウッキウキな所に皐月五着、ダービーハナ差二着をぶつけられて一気に頭が冷えた若気の至りの日々である。  ファーゴもとっくに通り過ぎた日々だったが、メジロ家が取れなかったクラシック全部取るぞー! ぐらいに思ってたことを時々思い返して恥ずかしくなることがある。 「だが、そんな俺達コンビにもいい所がある! それは、一回負かして来た相手には負けてないことだ! やられたらやり返す! 前哨戦で俺達を負かしたことを本番で後悔させてやるぞファーゴ!」 「はいっ!」 「ファイト・オー! メジロ・オー!」 「最後の掛け声は縁起が悪い気がするのでやめませんか!?」  メジロオー。  第28回日本ダービー二着。  メジロはダービー勝てないジンクスを作ってしまったかもしれないお方であった。  ファーゴは日本ダービーで二着になった後、走る前にその名をうっかり口にしていたことを思い出し、顔を青くしたことがあった。 「真面目にメジロ家にとって、その言霊が将門公ぐらいには怖いんですから迂闊に口にしないでください」 「やあ、ぼくメジロオー。メジロ家のみんなにダービー勝てない呪いをかけてあげるね……(トレーナーの裏声)」 「やめてください! 怒りますよ僕でも!!」 「はっはっはっ!」  かつての苦い経験もこうして、笑い話に出来るぐらいにはこの二人はこれまで色々乗り越えてこれたのだ。  このシマラない雰囲気も、これまで気を張り詰めすぎていたことを思えばこれぐらい緩い方がいい。 「……ふざけておいて何だけど将門公みたいに祟ってきたりしないよな? メジロオーさん」 「知りません、神社におでかけしてお参りでもして来たらどうですか?」 「ここフランス……神社、どこ?」 「神社の代わりに、セーヌ川を眺めながらバゲットサンドでも食べてみますか?」  一応お祓い代わりに、偵察からの帰りにセーヌ川を眺めながら歩いてバゲッドサンドを食べてみた。 「どうでしょう?」 「ファーゴ、君ほんと顔がいいよね。周りで女の子達から黄色い声が上がってるよ」  ウマ娘は元々顔がいいが、ファーゴの場合は中性的な容姿もあってどちらかというと女性からの評判が大変よろしい。  おまけにフランス語もばっちりでパリジェンヌ達はメロメロだ。  自分の知っているフランス語学は”H”と”O”の発音の区別がないことしか分からんのと比べたらあまりにも眩しい。 「俺の方はさしずめ君という絵画の端っこについてるゴミだよ」 「トレーナーさんが端っこのゴミだなんてとんでもない。あなたはさしずめ額縁です」 「それ褒めてるかぁ?」 「絵画も入れる額縁がなければ、見ようによっては色が付いてるだけの紙ですよ。誰が僕を飾り立てて、パリの町並みという美術館に並べてくれたんですか? ちゃんと役目を果たしてください」 「はい、私はファーゴ様を飾り立てる額縁にございます。よろしければ、お側に付き添っても?」 「えぇ、よろしくてよ? ……ラモーヌ様の真似です」    ふざけ合いながらセーヌ川のほとりを歩き、自分達の公開トレーニングを行う場所に移動していく。  実は、自分達が公開トレーニングを行う場はすぐ近くなのだ。  ◆ 「それでは、みなさん! よろしければ一緒にご唱和下さい! メジロ讃歌ーっ!!」  メジロファーゴの公開トレーニングに集まった記者達を前にトレーナーの自分は音頭を取った。   ウマ娘の最新のトレーニング学によると、オペラ式呼吸法がスタミナトレーニングにいいらしく、その題材として歌うのが”メジロ讃歌”だ。 「メージロ メージロ。栄光(ひかり)の道を~♪」 「メージロー! メージロー!」 「メージロっ! メージロっ!」 「メージロぉ! メージロぉ!」  ファーゴに続いて、集まった記者や関係者達も斉唱し始めた。 「いいよいいよ~! ここら辺にメジロパワーが溜まってきましたねぇ~! はいっ! メジロの強さでファーゴも、もう一回!」  音頭を取りながらなんだかテンションがおかしくなってきた気がする。でも悪い気分じゃない。 「永い歴史の中で 今を駆けろぉ~♪」 「メージロー! メージロー!」 「メージロっ! メージロっ!」 「メージロぉ! メージロぉ!」  おぉ、何という一体感! フランスの地でメジロの名の元に人々の心が一つになるっ!!  こうしてメジロパワーをフランスのパリに集めることで、なんやかんやでメジロは不滅となり新しく生まれ変わるっ!  新しいメジロはただのメジロじゃねえぞ……っ!  何度でも光り輝き、憧れが憧れを生む一族、その名は! 「新しいメジロの名は、ネオ・メジロだっ!」 「「「うおおおおおおおおおおお!!!」」」  今、全てを理解した。  これが……頭がメジロになる感覚なんだ! 「ねえペーター(※デインドリームのトレーナーのこと)。あいつら、変な宗教でもやってんの……?」 「セーヌ川をカヌーで下るトレーニングをしながら偵察に来たが無駄足だったかもしれんな……」  傍目に見て異様過ぎるこの光景は、遠目にデインドリーム陣営に目撃されてドン引きされていたが、ファーゴ達はそんなことを知らずにメジロ讃歌を歌い続けたのであった。  なお、普通のトレーニングもちゃんとやったことは付け加えておく。  ---  凱旋門賞、当日。  日本のトゥインクルシリーズにおいては、一般的に11番目にメインレースは開催される。  これは移動する人々で現地が混雑するのを緩和するために、その日の目玉となる大レースを後半で開催することで人の移動に余裕をもたせることが理由だ。  理由はもう一つあって、必然的に大掛かりとなるライブの準備があるのと、メインレースへ出走するウマ娘達には大掛かりな記者会見の場が設けられるのもあるのだ。  この傾向は各国である程度は踏襲されると考えていい。  《さあ、今年もやってまいりました! 凱旋門賞!! 世界各国から最強の名を賭けて強豪が集い、その中に日本のウマ娘達も名を連ねています。大注目の合同記者会見は間もなく始まります!》  さて、本日のパリロンシャンで行われるメインレース、凱旋門賞は第5レースだ。  それに向けて、合同記者会見の場が設けられることになり、控室では軽食が提供されて出走ウマ娘達や関係者各位が待機していた。 「あら、テストステロン。マルレ賞以来じゃない?」 「デインドリーム……」  それなりに歓談を楽しんでいる会場の片隅で顔を合わせたのはドイツからの出走ウマ娘、デインドリームとフランスからの出走ウマ娘、テストステロンだ。  どちらも左耳に飾りをつけている。  デインドリームは日本のファンにはもう名が知られているが、テストステロンの方はというと彼女のトレーナーが昨年ヴィクトワールピサが凱旋門賞に挑みに来た際に日本勢をサポートしたという点では知られている。  残念なことに、テストステロン自身は日本では無名だ。 「そろそろエストロゲンちゃんに名前を変える気になったかしら? ”男性ホルモン”ちゃんなんて名前厳ついものね。豆乳でも飲む?」  そこに、デインドリームが絡みに行った形だ。  デインドリームが口にした通り、彼女達はフランスの重賞レース、マルレ賞でぶつかり合っており、その勝負はテストステロン一着でデインドリームが五着という結果で決着した。  少なくともデインドリームにとっては、多少は因縁がある相手というわけだ。 「随分威勢がいい、自分に足りないものがよく分かっているようだ。ちびでちんちくりんのデインドリーム、エストロゲンが足りていないのはあなたの方でしょう。大人しく日本の秋華賞に行っていれば良かったものを、わざわざ踏み潰されに来たか?」 「ふんっ、チビでも中身が詰まってるタフなドワーフみたいなもんよ私は。すぐに吠え面かかせてやるから覚悟しておくことねっ! あんたが最後の直線で見るのはゴールじゃない、彼方向こうにある私の背中よ」 「……っ!」  テストステロンは意外なことに、自分が気圧されているのを自覚した。  ホームのドイツでG1レースを二連勝、デインドリームは夏を超えてウマが変わったとは聞いていたが嘘ではないらしい。   「ホームの利点があるだなんて思わないことね? 私はマルセルブサック賞を走ったこともあるし、ロンシャンのコースだって初めてなわけじゃないのだから」 「ロンシャンのマイル戦を知っているぐらいで、2400mを走れると思うな……っ!」 「1600m走った後に、800m追加して走るだけでしょ? 簡単よ。そちらのお好きなペースで……エスコートして頂戴?」  今回の凱旋門賞においても、G1連勝に加えて内枠二番という有利な枠を引いたにも関わらず、デインドリームは十七人中十二番人気と人気の上では未だフロックと侮られているようだが……やはり、何かが変わっていた。 「昨年ぶりだなナカヤマフェスタ、今年も新しいお友達を引き連れてアーク(※凱旋門賞のこと)に挑戦しに来たのかな?」 「ワークフォース、アンタか」  所変わって、日本勢が固まっている会場の一角を訪ねてきていたのは前年の凱旋門賞覇者にして英国のダービーウマ娘、ワークフォース。  右耳に飾りをつけた彼女は、前二走エクリプスSとキングジョージ六世&クイーンエリザベスステークス、英国でもっとも多くのファンが集まるG1レースと凱旋門賞に並ぶ格式高い英国最高峰のレースの二つでどちらも二着と好成績を収めており、前年チャンプとしての実力に申し分はなかった。  今年の凱旋賞挑戦には連覇がかかっており、なしえればこれまで八十九回行われた凱旋門賞の歴史の中でも五人しかいないウマ娘達の中に名を連ねることになる。  しかし、そんな彼女でさえも今回は七番人気だ。  これは、今年の凱旋門賞も役者が揃っていることを意味する。 「今年も日本のウマ娘達がアークへの挑戦にやって来ると聞いて、ボクは楽しみにしていたんだよ。何せ……今年は重い腰を上げてそちらのスターがお越しになられたそうじゃないか」 「ファーゴさんのことですか?」  ワークフォースに対してヒルノダムールが受け答える。  意外なことに、ヒルノダムールは日本勢の中で最有力とみなされていた。  人気は五番人気。  理由は有利な内枠一番を引いたこと以外にも、凱旋門賞の前哨戦に当たるフォア賞で二着、その前の日本の天皇賞春においても二着と好走していて、G1タイトルを保持してはいないものの実力は十分にG1級とみられていた。  ちなみに前年二着のナカヤマフェスタは今回十一番人気である。 「ふむ、君はヒルノダムールと言うんだったな? ボクよりも人気者なのは結構なことだ」 「むっ……」  ワークフォースが自分にはあまりに興味がなさそうな態度なのが見て取れて、ヒルノダムールはむっとして耳を絞った。  ワークフォースは続ける。 「昨年の凱旋門賞で、ナカヤマフェスタはGⅢ重賞を勝っただけのウマ娘なのにも関わらず、他の並み居る欧州の強豪を押しのけてこちらにアタマ差まで迫ってみせた。  そして、今年はこの博打打ちに先着し続けているやつが来るという、一体どんな奴なのか……これを堂々と迎え撃って見せずして前年チャンプは名乗れないと思っているんだよボクは」 「ようするに、私達よりもファーゴの方に会いに来たってわけか。あいつは今席を外してるよ、生憎だったな」 「なんと、それは間が悪い。ゆっくり話すのは今以外にないと思っていたんだが……仕方ない。合同記者会見までお預けとしよう」  そう言って、ワークフォースは去っていく。  その後姿を見送ってヒルノダムールは毒づいた。 「しっ、しっ! とっととあっち行けっ! 塩がないのが残念です! あの人、ナカヤマさんのことを”GⅢ重賞を勝っただけのウマ娘”なんて言いたい放題じゃないですか。昨年の宝塚記念を見てから言えってんですよ」  ヒルノダムールが言っているのは、昨年行われた宝塚記念。  メジロファーゴが一着を取り、春天と宝塚の同年制覇を成し遂げたという点で話題になるが、内容も日本の競争ウマ娘達やファンの間でも語り草であった。 「前で粘るブエナビスタさんとアーネストリーさんの競り合い、そこに外から飛んでくるナカヤマさんとファーゴさん……着順の結果だけ見てたら分からないものがあそこにはありました。レースの映像をちゃんと見てたらあんな発言出てきませんよ全く!  おまけにあの人の一人称、”ボク”なんてファーゴさんと一緒に居合わせたら被っててややこしいし!」 「あん時のレースと言えば、私達に交わされた瞬間のブエナの顔は今でも思い出すなぁ、ククク……」 (えっ、そっち?)  結構真面目にフォローしたつもりなのに、ナカヤマは一切気にしていないようなのでヒルノダムールは困惑した。  ……確かに芸術的なほどにグランプリに惜敗するブエナビスタのなしてぇー!? って表情は本人の悔しさを無視すれば面白かったかもしれないが、今その話をする? といった所である。  しかし、次の瞬間にはすぅっとナカヤマフェスタの顔が勝負師のそれに変わった。 「言いたいなら言わせておきゃいいさ、勝てば黙る。大穴をぶちあけてやろうじゃねぇか、なぁ?」 「それもそうですね……ところで、ファーゴさんいつ来るんですか? 記者会見は最悪すっぽかしても問題ありませんがパドックは流石に……」 「怖気づいて逃げたってわけじゃなさそうだが……何してんだあいつ。私達よりも先に出てたと思うが」  ◆  その頃のメジロファーゴ一行。  余裕を持ってロンシャンレース場に移動するつもりだったメジロファーゴとそのトレーナーであったが、トラブルに見舞われていた。 「ウ…ウソやろ。こ…こんなことが。こ…こんなことが許されていいのか!?」 「だから、メジロオー様を玩具にしたら祟られるって僕言ったじゃないですか! いや、ほんと怖いなぁ……」  先日、メジロオーの苦難を気軽に呪いだジンクスだとオモチャにしたせいもあって、凱旋門賞当日に恐ろしいアクシデントに直面することとなった。  宿泊所から出発しようとしたら黒猫が車の前を横切り、走り出してしばらくするとタイヤがすべてパンク……予備も含めて全滅であった。  頭上には真っ黒なカラスがカアカアと鳴いている。 「こんな不運に見舞われることってある?」 「こ、こう考えましょう。禍福は糾える縄の如し、ですよ。不運があった分だけ後から幸運が……あっ」  ぶちり。  嫌な音がしたのでファーゴは足元を見ると勝負服のブーツの紐が切れた。  慌てて脚を上げると今度はカラン、と音がして落鉄もセットだ。 「……二度あることは三度あるとも言いましたね」 「やめろぉ!! これ以上何が起こるっていうんだ!?」  もはや、泣きながら己の不運を嘆き助けを求めるしかない状況に陥ったその時であった。 「───お困りかね? お二方」  ファーゴ達の元にリムジンが停車して、中から女性が……ウマ娘が一人降りて来た。 「URAトレセン学園強化部門、海外遠征支援課の職員だ。凱旋門賞に出走するメジロファーゴとそのトレーナーで間違いないな?」  女性は鹿毛のウマ娘で、サングラスを掛けている。服装は日本URAの職員を表すバッジを付けたスーツであった。 「故あって、助太刀させてもらう。乗り給え、時間が惜しい」 「あなたはもしや、メジロオー様の……」 「ああ、メジロオー姉様を知っているなら私の顔も当然割れているか。メグロタケゾーなどというとってつけたふざけた偽名を名乗らず済んでうれしいというべきなのかな」  謎のウマ娘はサングラスを外して、改めて自己紹介をする。 「”メジロムサシ”だ、君にとっては色んな意味で先輩になるのかな? ファーゴ」  確かにその通り、メジロのウマ娘であり海外に挑んだという点でメジロムサシとメジロファーゴの二人は同じ道を行ったとも言える。  しかし、メジロファーゴは知っている。  彼女は、メジロムサシは海の外への夢を追い続けることを許されなかった。  国内のレースに専念して走るというメジロの方針から離反して、メジロの屋敷を出た後はURAの職員となって海外遠征に携わるほかなかったのである。  ウマ娘としても偉大なヒトではある、しかしメジロの中では迂闊にその名を口に出せない人物でもあった。 「貴方とおばあさまとの間にあった確執と決裂は若輩者の僕でも聞き及んでいます。先程は”故あって”と、貴方は言いました。何の理由があって……貴方にとって遺恨のあるメジロの申し子である僕達を助けてくれるのです?」  身構えるファーゴの問いかけにメジロムサシは淡々と答えた。  「夢を追う後輩の手助けをするのは先達の義務だ。私がかつてスピードシンボリに導かれたように、シリウスシンボリが私達に続いたように、これまで行われて来た栄光の門への挑戦の積み重ねをやり遂げるだけのこと……だが、何よりも」  そして、メジロムサシは一度言葉を区切って続ける。 「メジロの終わりの時にあって、私も自分の物語に納得と決着を見出したくなった……ただ、それだけだ」 「……っ」 「さ、分かったら早く車に乗り給え。栄光の門の入り口までならば案内してやれる。中に入れるかは……お前達次第だ。私は私で、メジロの今の総帥に用がある───来ているのだろう? あいつも」  第十四話、偉大なる挑戦者達  終  ---    15.最終章:凱旋門賞編 L'Arc de gloire  これまでのあらすじ  クラシック級での菊花賞、シニア級一年目での天皇賞春、宝塚記念とG1レースを三勝し、  年末の有馬記念こそ惜敗に終わったものの、同世代のスターウマ娘に負けず劣らずの活躍をしたメジロ家のウマ娘メジロファーゴ。  年も明け、偉大なる先人メジロマックイーンの後を追うように天皇賞春の二連覇へと歩みを進めようした矢先、  メジロ家がレースの世界にメジロのウマ娘を輩出することを今後取りやめるという発表を聞いてしまう。  今や、トゥインクルシリーズ現役のメジロ家最後のG1ウマ娘となったメジロファーゴ。  思い起こされたのは、幼き日にメジロのおばあさまより言い渡された”終わり”を見届けろという言葉。  受け継いできた誇り、受け継ごうとしてきた歴史に”終わり”を突きつけられた彼女はメジロ家の禁を犯すことを決意する。  それは、メジロの総帥が禁じたとされる海外遠征。目指す先は仏のロンシャン芝2400mG1レース凱旋門賞。  いずれ訪れる終わりを座して待つより、最後まで抗うことを彼女は選んだ。  メジロの新たな至宝としての地位を盤石にした春の天皇賞の連覇達成。  勢いに乗り凱旋門賞線の前哨戦にと挑んだバーデン大賞にて、ドイツのクラシック級ウマ娘デインドリーム相手の敗北。  己を見失いかけるような出来事に直面しつつも、誰かにとっての永遠となる為に走り出した日の誓いを胸に、メジロファーゴはついにその舞台にやって来た。  凱旋門賞の舞台へ……  ---  すべてのウマ娘が目指す夢の舞台『凱旋門賞』。  異邦のターフは日本のウマ娘の前に立ちはだかり、悉くその脚を怯ませていった。  それでも諦めなかった者だけが辿り着ける栄光、その勝利を歌うための凱歌。  『L'Arc de gloire』  この凱歌がいつか……彼の地に響き渡ることを願う。  ――トゥインクルシリーズ、ウイニングライブの作詞作曲者からのメッセージ。  パリロンシャンレース場。  凱旋門賞ウィークエンドの大目玉にして、世界の強豪ウマ娘達が目指す栄光の舞台、第五レース凱旋門賞パドックが迫るロンシャンレース場に黒いリムジンが到着する。  降りて出てきたのは芦毛のウマ娘、メジロ家のウマ娘のメジロファーゴ。  これまでの戦績は16戦9勝(9-4-1-1-1)。  勝ちレースは天皇賞春連覇、宝塚記念、菊花賞(GⅠ)日経賞・セントライト記念・スプリングS(GⅡ)ラジオNIKKEIステークス(GⅢ)。  容姿は長身、細身かつ細面、甘い表情で微笑めば人間の女性もウマ娘も等しくドキリとさせるであろう彼女は、並々ならぬ決意と闘志を漲らせてロンシャンレース場へとたどり着いた。   「メジロムサシ、こちらがトラブルに直面していたところを送っていただきありがとうございます」  続けて降りてきてリムジンの主に礼を告げたのはメジロファーゴに付き添っている若き青年のトレーナーだ。 「かまわんよ。メジロ家かつ、栄光の門の向こう側を目指すもの……私にとっては二つの意味で可愛い後輩のためだ」  メジロムサシと呼ばれたウマ娘はそれに応える。  かつて凱旋門賞に挑んだメジロのウマ娘、メジロムサシ。  現在のメジロの総帥の国内のレースに専念するという考えに反発して、彼女はメジロの屋敷を出た。  そして、凱旋門賞を目指すウマ娘達を生涯かけて支援することを選んだのである。  トラブルに見舞われたメジロファーゴ一行の現場に居合わせ助けに入ったのも、そうした所以からだ。 「総帥に、メジロのおばあさまに会いに行かれるのですか?」 「ああ、負けを認めに行く。正しいのはあちらで、私のやり方は間違っていたということを伝えにな。それでようやくケジメを付けられる……」  ファーゴに声をかけられて、メジロムサシは自嘲するように言葉を零した。 「私は、スピードシンボリの偉大な挑戦を人々から忘却させたくなどなかった。かの老雄には”永遠”でいてほしかった。  私が彼女に続いたように、凱旋門賞に挑戦し続けるウマ娘がいる限り、誰もが彼女を思い返す……そのことを信じ、積み重ねた蹄跡がいつか彼の地に勝利を穿つのだと挑戦を募り、希望をちらつかせて多くの者達を斃れさせた。  メジロの現在の総帥、彼女に向かって死んだ男の夢を抱いて老いて行けと罵った私自身が、同じような妄執に囚われていたのはなんと皮肉なことだろうな……」  己の歩んできた人生を悔恨するように、メジロムサシは言葉を吐き出す。 「結局、海の外への夢を見続けた私は何も遺せず……国内に夢を見せ続ける道を歩んだ向こうは、君をこの地へと送り出す余裕まであった。何より、私はこの年になるまで気付けなかったよ……夢を見続けることは、多くの人間にとって”疲れる”」  メジロムサシは自分の胸元を苦渋に満ちた表情で握りしめた。  見た目はまだ若く見えるのに、彼女はこの時だけ疲れ切った老人のようだった。 「例えば、大地を揺るがすような未曾有の災害に見舞われた時……築き上げたはずの人の営み全てが押し流されるような出来事に直面し、明日自分がどうなるかもしれぬと絶望している人々がどうして夢など抱けるだろう。  そこに希望と挑戦を煽ろうとする姿のなんと滑稽に写ることだろうか……今なら、メジロの総帥が前総帥の国内に専念せよという願いを受け継いだことの意味がよく分かる。  絶望に沈む人々の心の支えになるのは、無謀な挑戦ではなく手が届く希望、いくら時が過ぎようともそこに確かに在り続ける変わらぬ夢と憧れの姿だった。多くの人々が望む……”永遠”の姿だ」  生涯かけて自分がしてきたことは、無謀で無意味な徒労であったと彼女は長い旅路の果てに思ってしまっていた。 「私もあちらも、”永遠”を求め道を歩んだことは同じだと言うのに、私は結局、他人を自分自身の妄執に付き合わせて道連れにしてきただけに過ぎなかった。凡俗が不相応な夢など抱くものではなかったよ……時代を作り、後続に何かを託し残すことが出来るのは君のように”特別”な者達だけなのだから」  肩を落としながら言葉を吐き出し切ると、メジロムサシは顔を上げて促す。 「急ぎだと言うのに引き止めてしまったな。これから凱旋門賞に挑む君にとっては、私の夢も妄執も不要なものだ……行きなさい」 「……これは、僕の独り言です」  メジロファーゴは自身のトレーナーを伴って会場に向かいかけた脚を止めて、メジロムサシに背を向けたまま言葉を紡いだ。 「僕はメジロ家で初の三冠ウマ娘にはなれませんでした、ダービーウマ娘にもなれませんでした。これまでやって来たことは全てメジロの誰かがやって来たものだった……”特別”なんかでは、なかった」  菊花賞の制覇と第十走目での天皇賞春の制覇。人々はその様を見て、メジロファーゴをメジロマックイーンの再来と呼んだ。  唯一無二の存在になることが出来なかったからこそ、いつまでもついて回るマックイーンのようだという評判をうっとおしく思わなかったことが一度もないといえば嘘になる。  誰かのような何かではなく、自分になりたいと……ずっと思ってきた。  そして、思った所で手が届かぬ無力さも、悔しさもそれ以上に味わってきた……。 「最初に志した挑戦は全て潰えて、自分は特別でもなんでもない事実だけが突きつけられた。無力さと悔しさに膝を折って、俯いて、何者にもなれずに行先を見失ってあがく僕を照らしたのは……他の誰でもない。先を走ってきたメジロの先達と先輩方だった。  それでも見上げた憧れ達に向かって己を恥じるようでは自分ではありたくないのだと、ただ必死に、愚直に、遥か彼方にある後ろ姿と残された蹄跡をなぞって、たどっていく内に……いつの間にか僕はなっていたんだ。かつて自分も見上げていた憧れ達の一つに」  メジロのウマ娘といえばと問われた時にマックイーンより先にファーゴの名を挙げる人々が出てきた。  トゥインクルシリーズを志す幼いウマ娘達に憧れているウマ娘は誰かと問われた時、ファーゴの名前をいう子供達がたくさんいる。  昔は良かったと、過去への郷愁を誘うだけだった古い夢と憧れは、時が流れる内にいつの間にか新しい夢と憧れへと姿を変えていた。 「辿り着くまでに半ばで斃れた者達も途絶えた道も多くあるけれど、全てが僕に繋がったからこそ僕はここにいる───メジロムサシ」  振り返って、ファーゴは偉大なる先達の名を呼ぶ。 「貴方がスピードシンボリに導かれ、辿り着き歩んだ”道”もまた僕に繋がった。この奇跡と挑戦は、最後なんかじゃない。この道は、いつか誰かが来た道で……そしてこれからも沢山の人が目指す憧れと栄光への道だ!」 「……っ!」  奇妙なことに、メジロムサシはメジロファーゴの背に多くのウマ娘の姿を幻視した。  自分がスピードシンボリに憧れその背を追ったように……メジロファーゴの背を追って、これからも大勢のウマ娘が栄光の門に挑み続ける。  そんな未来を、誰もが目指し憧れる輝きを……メジロファーゴの中に幻視した。 「羊蹄山の深雪の中に降り立ったメジロの始祖達が紡いだ物語は、海の彼方向こうフランスの地で名を馳せたシェリルの走りと、誰よりも遠くへ行きたいというその心を受け継いだ者がロンシャンの地に帰還を果たすことで一度終わりを迎える……」    どこからか運ばれてきた柔らかな風が、彼女達の間に吹き抜けた。永い永いメジロのウマ娘達の物語とその旅路の終わりを祝福し、惜しむように…… 「そして、そこから始まるのは僕の……いいや、”私”が紡ぐ物語だ」  瞬間、柔らかに吹き抜けた風はやがて強くなりメジロファーゴの勝負服をはためかせた。 「メジロムサシ様。新たに紡がれる永遠の物語の開幕を、これより先は役者ではなく一観客としてごゆるりと照覧あれ。かつて、”メジロアサマ”と共に黎明の時代を照らしたメジロの二つの輝きのお二方を、退屈させることなどいたしません。開幕ベルが鳴るのを、どうか聞き逃さぬように」  そう言って、新しい白い勝負服を翻し、メジロファーゴは凱旋門賞出走を控えたウマ娘達が集う記者会見場に入っていった。  その姿と背中は、若き日の旧友の姿……メジロの総帥の姿を思わせた。 「蝦夷富士の麓(れい)降り注ぐ七光り 永遠(とわ)に刻みしその名彼方へ……か」  即興の和歌を詠み、愉快そうに笑ってメジロムサシは若者達の後ろ姿を見送った。 「メジロ家という七光りに照らされていたはずの若い娘がいつの間にか、メジロの誰よりも輝いている──なんの心配もいらないようだよ、アサマ」  かつて自分と共に、メジロの僚友同士と並び称されたそのウマ娘の名をメジロムサシは呼んだ。 「私達の夢も想いも全部あの子が継いで、繋いでくれる。かつては仲違いし、お互いに違う方向を向いて歩み、分かたれたはずの私達の道は……最後の最後に、あの子に向かって繋がっていた」  どんな物語もいつかは終わる。終わってしまう。  惜しまれようと、見向きもされなかろうと、様々な形で役目を終えて時の流れの中に朽ちていくことだろう。  けれども、いつか遠い未来で誰かが拾い上げてくれたのなら……同じ道を歩む誰かが現れて、自分の成し遂げられなかったことを誰かが成し遂げてくれるということを信じることが出来るのなら……安心して、自らの物語の幕を下ろすことが出来る。 「だから、あの子の言う通りに特等席で新しい物語の始まりを見届けてやろう。”メジロの巨人の系譜”がロンシャンの大地を均す様だ、さぞ見ごたえがあるだろうさ。お互いに全てを見届けて、舞台の上での役目を終えたのなら……私達はまた、親友同士に戻れるのかな?」  メジロムサシのその問いかけに答えるものはいなかったが、ロンシャンに吹く風は穏やかに彼女の頬をなでて行った。  ◆  第90回凱旋門賞出走ウマ娘達の記者会見会場。  世界各国から集まった強豪ウマ娘達が、付き添うトレーナー達がコメントや所信や決意表明を求められて答えていく。  歴史上数えるほどしかいない凱旋門賞を連覇したウマ娘に名を連ねるために、今年も自分は挑戦者でありたいと答えている前年覇者であるイギリスのウマ娘ワークフォース。  そして…… 「敬愛するファインモーション、そしてピルサドスキー両王女殿下に! アイルランドのウマ娘として私は祖国に勝利を齎しに来たっ!」  それに対抗するように声高らかに叫ぶのはアイルランドのウマ娘、セントニコラスアビー。 「伝統と文化、つつしみと礼儀。私達が誇れるものは確かに多い、だが自己満足に陥って多様性を否定すると成長も進歩もなく時代に取り残されてしまう……日本でエリザベス女王陛下の名を関したレースを制覇して来たからこそ。私はこの言葉を肝に命じておりますわ」  彼女達に挟まれて氷の女王のごとく冷たい視線を放っているアイルランド出身で、イギリスのトレセンに所属しているウマ娘スノーフェアリーがいた。 (あれがスノーフェアリーさん。昨年日本のエリザベス女王杯を蹂躙した雪の妖精にして、トリプルティアラウマ娘アパパネさんをあしらった女傑。まるでアンデルセンの”雪の女王”みたい……)  バ場の違いをもろともせず、”すんごい脚”などと呼ばれるほどの恐ろしい末脚を繰り出して日本のティアラ路線ウマ娘達を破った海外からの刺客の姿に畏怖を抱いたのは日本のウマ娘ヒルノダムール。 「ふうん、ではスノウ。日本のウマ娘をよく知るであろう君に今年もやってきた挑戦者達になにか言うべきことはあるかい?」 「少しばかり長い怪我と療養で、凍てついた私の心を熱くさせてくれることを期待しておりますわ。相手がどこの国のどなたであろうと、張り合いがないのはつまらないですもの」 「ゲルダの涙が溶かしてくれるのは少年の心だけだものねぇ、寂しい女王様の心を溶かすのはレースだけと」 「……何か? 仰りたいことがあるのでしたら言ってみてはどうですか? デインドリーム」  スノーフェアリーは茶々を入れてきたデインドリームをじろりと見つめた。 「ふんっ、じゃあよく聞きなさい。本バ場入場したら私が一番にゲートに入ってやるから、あんた達はゆっくり準備をしてくるといいわ。一番先にゲートに入るのは私、そして一番先にゴール板を駆け抜けるのも私よ!」 「おやおや、ドイツのリトルプリンセスが早く我々と踊りたいと駄々をこねているぞ。誰が彼女をダンスホールの中央までエスコートしてさしあげる? こちらはごめんこうむるけどね」  ワークフォースが冗談めかして言うと、周囲に失笑の声が上がった。 (みんな口も性格も悪っ!? 欧州ってこんな感じなんですかナカヤマ先輩!!) 「……」 (こっちもこっちでなんかそういう雰囲気じゃない……)  物憂げな顔でスミレの花を眺めているナカヤマフェスタの姿にヒルノダムールはこちらに助けを求めても無駄だと悟った。 (早く来ないかなぁ……ファーゴさん。この世界対抗の嫌味の応酬に日本勢代表として毒気を抜かれるようなお利口さんで無難なコメント一つでもして場を白けさせに来て欲しいのですが……)  胃がキリキリ痛むような気持ちを味わいながらヒルノダムールは心の中でこの場にいないメジロファーゴの到着を願った。      ───主役は遅れてやってくるとは、誰が言ったのか。  その芦毛のウマ娘は当然のように遅れて、この場に姿を表した。 「メジロファーゴだ、メジロファーゴがようやく会場に来たぞ」 「うおっ、新しい勝負服だ……白いな」 「遅れてくるなんて珍しいな、何かトラブルでもあったんだろうか」  メジロファーゴはどよめく人々を見回し、記者達の質問に答えるために席についている出走ウマ娘達の姿を認めると、彼女達の方に向かって歩き出した。 (来たなっ! 日本勢の大本命!)  記者会見場に姿を表したメジロファーゴを見て、密かに興奮したのはワークフォースだった。  昨年ナカヤマフェスタ相手に僅差まで追い込まれたこの凱旋門賞前年覇者は、そのナカヤマフェスタ相手に勝ち越し続けているファーゴが来ると聞いて楽しみにしていたのである。  ファーゴを破って見せることで、自分の強さがより揺るぎない形で証明されるからだ。  欧州と日本のウマ娘での強さの比較が難しくなる要因の洋芝のバ場適性の有無についても心配はいらない。ドイツのレース場の重バ場で二着に入れるほどの能力があって適正がないということはないだろう。 (ここは遅れてきた彼女を寛大に出迎えて度量の大きさと余裕を示すとするか……)  大げさに立ち上がって、ワークフォースは出迎えようと何か言いかけたが、それよりも先にファーゴが言葉を発した。 「デインドリーム」  不意に発したその言葉は、先ほど周囲から失笑を買っていたドイツのウマ娘デインドリームの名。  遅れたことへの謝罪や釈明もなく、そして多くの強豪を差し置いて、何故真っ先にデインドリームの名を呼んだのか……意図を測りかねて、首を傾げる記者達や群衆に構わずメジロファーゴは、会見席の中央に向かって歩きながら続ける。 「シャレータ、スノーフェアリー、ソーユーシンク、セントニコラスアビー、メオンドル、サラフィナ、シルヴァーボンド」 (あの芦毛の日本ウマ娘、何をしている? 突然名前を言い始めた?) 「ガリコヴァ、ヒルノダムール、ナカヤマフェスタ、ワークフォース、テストステロン、トレジャービーチ、リライアブルマン、マスクドマーベル……」  ここまでされてようやく、周囲はメジロファーゴがやっていることを理解した。 (ウマ番号順というわけではないようですが……これは、自分以外の全員の名前を言っている?)  そう、あの当然のように遅れて姿を表した芦毛のウマ娘は自分以外の凱旋門賞出走ウマ娘全員の名を読み上げているのだ。  メジロファーゴは名前を読み上げる度に出走ウマ娘一人一人の顔を見ていき、自分以外の全ての出走ウマ娘の名を読み上げ終えてから…… 「……」 「何よ?」  最後にデインドリームをもう一度見て、メジロファーゴはマイクを持って記者会見場の全員に向かって話しかけた。 「紳士淑女の皆様、そして出走ウマ娘の方達。所用があって会場入りが遅れてしまったから、僕のレースへ決意表明は手短に───」  一呼吸置いて、メジロファーゴは出走ウマ娘全員に向かってこう口にした。 「───君達が、今日僕のバックダンサーを務めてくれるウマ娘達なんだろう? よろしく頼むよ」  場が凍りつく。 「La victoire est à moi.(勝つのはこの僕だ)ちゃんと、センター以外の振り付けは覚えてこれたかい?」  呆気にとられたもの、一瞬何を言われているのか理解しかねたもの……しかし、次の瞬間には彼女達はそれぞれの国の言語で、同じ意味の言葉を発した。 「「「「調子のんなっ!!!」」」」  英語、アイルランド語、仏語、独語での怒号が一斉に飛んだ。 「無難なコメントで白けさせるどころか火に油ぁっ!!! 私達もバックダンサー呼ばわりですか、この頭メジロマックイーン!! 全身メジロ!!」  メジロファーゴの過激な所業にヒルノダムールも叫んでいた。 『誰よりも遠くへ』  時は満ちた   永きに渡る序曲は終わり  終止符を打つための戯曲が流れ出したのだ  先達が敗れては散りまた目指し   無謀だと言われ続けたその物語の大団円  観衆達よ、開幕ベルを聞き逃すな   栄光の門への道は今拓かれた  我が征く先はその向こう  遥か彼方にある  ──URA「名ウマ娘の肖像」メジロファーゴ  第十五話、L'Arc de gloire  終  ---