夜は嫌いでした。朝も昼も嫌いじゃないと言えば嘘になるけど、夜がとびきりに嫌いでした。  午後8時、塾の終わる時間。塾が終わる鐘の音が嫌いでした。外に出ると大人の声がしたけど、そのうちの一つもわたしに向けられた声はないのです。  おつかれさま、という大人の声、繋ぐ手の柔らかい温度、暖かな団欒、家族の会話。  そんなものは何一つ、わたしにはないのです。わたしには許されないものなのです。 「あなたはお父さんみたいになっちゃいけないから」 「お前は母さんみたいな生き方をしてはいけないから」  わたしは踵を返して、暖かな雑踏から離れていきます。古い街灯が照らす薄暗い路地を歩きます。塾の帰り道ももちろん惨めですが、あんな家族の待つ家に帰ること自体がいちばんに惨めでした。  でも、この日、私は初めて、夜を好きになりました。   「やぁやぁ、初めまして! いい夜だね、お嬢さん」 「……だ、誰、ですか?」  目の前に現れたのは、何だか奇抜な格好をした人でした。図工の教科書で似た服を見たことがあります。この服装は、ピエロというもののそれに似ています。 「ああ、ゴメンね。ボクから名乗るのが礼儀だネ!? ボクはジョーカーモン! 子供を笑わせるのが趣味なんだ」  そう言って、ジョーカーモンと名乗ったその人は懐から小さな箱とサイコロを取り出しました。 「まずはお近付きの印にひとつ」  サイコロを箱に入れると、ジョーカーモンはその箱を私に差し出してきました。サイコロをもらっても嬉しくはありませんが、本物のサイコロを手に取るのは初めてなので、好奇心から箱を開けてみます。 「……?」  ですが、箱の中身には何も入っていませんでした。なぜ? 今、確かにこの人は箱にサイコロを入れたはずなのに。 「実はボクはマジシャンなのサ、サイコロを消すくらいお手のものなんだ」  ……すごい。どうして、今箱に入れたはずのサイコロがなくなったんだろう? わたしは何度も箱を開けたり閉めたり、振ってみたりします。ですが、サイコロはどこにも入っていません。 「ねぇキミ、もしかして手品を見るのも初めてだったりする?」 「……テジナ、って、なんですか?」 「はぁー!?」  ジョーカーモンは、大袈裟すぎるくらいに頭を抱えて、信じられない、と言いたげな表情を浮かべました。 「手品を見たことないなんて、人生の半分は損してるよ!」  そう叫んで、ジョーカーモンは今度は懐から黒い小さな棒を取り出します。指で作った輪っかに棒を通すと、不思議なことに、棒の半分が花束になりました。 「どうぞ、小さなお嬢さん」  赤くて、花びらが沢山ついた花です。綺麗でした。 「それはキミにあげるよ! その代わり、またボクに会いに来てね。えーと……お嬢さん、キミのお名前は?」 「……満咲姫、です」 「ミサキ! いいね、素敵な響きだ!」  それからしばらく、ジョーカーモンはわたしに毎晩色んなテジナを見せてくれました。切れたはずのカードが元に戻ったり、箱の中から鳩が出てきたり、サイコロを何回振っても同じ出目が出たり。  不思議なことが沢山できるので、多分ジョーカーモンは魔法使いなんだと思いました。  朝も昼も夜も嫌いだけど、ジョーカーモンと過ごす時間だけは好きになれました。楽しかったのです。魔法を見せてもらえて、面白いことを教えてくれて。  でもある日、帰りが遅いことに気付いたお母さんが、わたしを無理やり迎えに来ました。 「満咲姫! あなた、こんなところで油を売って……!」  いつもの路地でジョーカーモンを待っていたわたしの腕を、お母さんは痛いくらいに掴みます。明日は長袖を着ないと、と思いました。 (いままで、全然気付いてなかったくせに)  たまたま気付いただけで、この剣幕です。きっと今日はお父さんにも怒られるのでしょう。  朝が来なければ、昼が来なければ、夜が来なければ、ずっとジョーカーモンと一緒にいられれば、こんなこともなくなるのかな、と思いました。 「ミサキ! 昨日は来なかったけど、どうしたの?」 「お母さんに、怒られていました」  嘘をつく理由もなかったので、わたしは正直に何が起きたのかをジョーカーモンに話しました。ジョーカーモンはわたしから少し目を逸らして、なんだかよくわからない表情をしていました。多分、考え事をしていたんだと思います。それから、少しの間があって、 「ねえ、ミサキ。どうかな、もっと沢山面白いものを見てみない?」  と、急に言い出しました。 「おもしろい、もの……?」 「そう! キラキラした綺麗なものも、さっき見せたような不思議なモノもたぁ〜っくさんある場所があるんだけど!」 「……みて、みたい、です」  けど、と続けようとして、わたしは目の前の光景を疑いました。なにもないところに、穴が空いているのです。 「一名様、ご案内」  ジョーカーモンは丁寧に頭を下げて、その穴の向こうに行くように私を促します。向こうの景色は緑色の原っぱで、向こうの空は明るい青空でした。  気づけば、思わず踏み出していました。 「ここにいる間は、勉強なんかしなくていい」  わたしの後ろからついてきたジョーカーモンの声がします。 「家に帰らなくていいし、好きなだけ遊んでいいんだよ」  非現実的な光景とできごとに、たぶん、わたしの頭はキチンと回ってはいませんでした。今思えば、多分、わたしはジョーカーモンに言葉巧みに誘拐されたと言えるでしょう。  でも、別にそれでもいいと思いました。 「ミサキ、ここにいる間、キミはお姫様なんだ」 「おひめさま、ですか?」 「そう! だから勉強もしなくていいし、やりたいように遊んでいい! したくないことはしなくていいし、誰のことも気にしないでいい! ……キミの好きなように、わがままに過ごしていいんだ」  ジョーカーモンは、大きく一歩踏み出すと、わたしの歩みを止めるようにわたしの前に出て、それからわたしと目線を合わせました。 「ただし、一つだけ守って欲しい約束がある」 「約束?」 「ボクに敬語を使わない! 何たってキミはお姫様だからね、道化師に謙る必要なんてないのサ」  そういって、ジョーカーモンはにっこりと笑いました。  私の顔もつられて、口角が歪に釣り上がりました。 「……まずは、笑顔の練習がいりそうカナ?」