「ヒメ、行くなら早くしないとダメだよ」 「うん、分かってはいるんだけど……」 姫野サクラコは今、大いに悩んでいた。 男湯と女湯のどちらに入るべきか、いや、そもそも入浴をするべきなのかどうかを───。 彼女達は今デジタルワールドと呼ばれる異世界において遭難生活を送っている。 そんな中でたまたま見つけた温泉宿で一晩を明かす事となったのだ。 彼女の悩みというのはそこで肌を晒さなければならないという事。 世間一般的な日本人としての感覚を持つ彼女は実際久しぶりの入浴に飢えてはいるのだ、しかしそれをリスクを恐れるもう一人の自分が抑えようとする。 秘密を知られたらどうするのかと。 誰も知り合いがいない異世界というある種の開放感の中で彼女は一つの秘密を持っていた。 『自分らしく生きてみたい』というささやかな願い。 初めてこの世界に来た時ジャングルの中に存在した有名服飾店(本当に突拍子もないところに現実世界の建造物がそのまま現れたりするのだ)を見つけた時にそう思ってしまった時の事は今でも忘れられない。 “ここでならこの服を着て思うままに振る舞っても許されるのではないか”という誘惑。 それを実行する絶好の機会が訪れて、試着室の鏡で着替えた己の姿を見てからはもう一直線だった。 服を男性のものからユニセックスのものへ、そして女性のそれへ。 自身の名も姫野サクラコと読み替えて別の人物だと装った。 今まで自分を抑えていたしがらみから解き放たれたような開放感の中、彼女は物心ついてから初めて心からの自由を存分に味わっていたのだ。 ───しかしそんな生活も数週間と保たなかった。 ある種当然の帰結だったと言えるだろう。デジタルワールドに流れ着いたのは自分だけではなかったし、そんな中生き抜くために遭難者同士で集まっていくのもごく自然な事、そして人が集まれば人間の体に則した“あたりまえ”から生まれたルールが彼女が享受してきた自由を縛り付けてゆく。 誤魔化せるものは女性として誤魔化してきたし、身嗜みには今まで以上に心を砕き、自分よりも「女らしい」女性陣に悟られぬようにしてきた。 しかしどうしても切り抜けなければならない瞬間は存在し得る、例えば今がそうだった。 「ヒメ、誰もいないよ」 「ありがとう、アルラウモン」 先に入って調べてくれたアルラウモンが脱衣所の入り口から顔を出す 時間は日も変わった午前1時 夜の見回り組も少し前に出発したばかりでしばらくは戻ってくる事もない。 散々悩んだ後結局男湯を選んだのはなんて事はない、万が一誰かに見つかったとしても「まだ言い訳も出来てマシ」だと思ったから。 元の世界にいた頃は誰の目も気にしなくていい入浴の時間が気楽で好きだった、それが今はこんな誰もが寝静まった深夜に忍び込むように入りにきている。 バレにくいように服はユニセックスのものを選んできた、急いで脱いだそれを素早く布袋に詰め込み、脱衣カゴに入れ、キツく紐を縛り、タオルで前を隠す。 そもそも初めから自分は男だと言っておけばこんな苦労はしなかったのに、と自嘲する。 そもそも女物の服を着ようなんて思わなければ。 ───そもそもこんなカラダに生まれなければ。 堂々巡りの思考を頭から振り払って脱衣所の引き戸を開け浴場の湯気に裸身を晒す。 「わぁ」 「凄いね、ヒメ」 岩を集めて形作られた浴場は乳白色の温泉を湛え、鼻腔をくすぐる硫黄の香りも今は非日常感を演出するいい香りだ。 まずはかけ湯で軽く楽しみ汗を流しにかかる。 本当は一目散に湯船へと飛び込んで旅の疲れと垢をふやかしてしまいたかったがそこは集団で利用する場なので自重する。 石鹸を泡立てて身を清め、湯で洗い流してようやく体を温泉へ沈めてゆく。 ふぅ、と思わず声が漏れる こうして体を湯に沈めるのもしばらくぶりで、急速に拡張された手足の血管が心地よい痺れと痒みを返してくれる。 吐き出す息と共に疲れも、心の底に溜まった澱も肺から吐き出されていくように感じたその時だった。 ───がらり、と。 突然の物音に震える 脱衣所の扉が開き誰かが入ってきたのだ 声を出して中に居る事を伝える?ダメだバレているのと変わらない 物陰に隠れる?無駄だすぐに見つかってしまう あれほど暖かかった湯の中に居るのにも関わらず緊張で手指が冷え、耳鳴りが鳴り響き視界の色が失われていく。 事前に考えていた言い訳の言葉も頭の中から消えてしまって言葉にならず、いくつも取るべき行動が浮かんではその行動は無駄だと理性に否定される。 事ここに至って彼女は今誰にもバレる事なくこの場を切り抜ける事など出来はしない事を理解してしまっていた…… <<事ここに至って久能ナヤムもまた、今誰にもバレる事なくこの場を切り抜ける事など出来はしないと理解した>> <<“後から入ってきてしまった女の子と混浴してしまっている”事実をどう言い繕っても弁明するなど出来はしない>> <<自分だけが変態の誹りを受けるならばまだいい、だが誤って入って来てしまったであろう女の子に一生物の心の傷をつけてしまうであろう心苦しさの方が余程耐え難かった>> <<ならばする事はいつも通り、堂々と正面からピンチを切り抜ける、どうせ今の俺はたまたまデジタルワールドに来た身の上、旅の恥はかき捨てと言うじゃないか───!>>  S P R I  T   完    覚 E V O L U T I O N   了    悟 『どなたですかー?』 その時聞こえた声は脱衣所ではなく温泉の奥湯煙と岩の影から聞こえていた 女性の、声? そしてその声の主湯煙の向こうから唇に人差し指を当てながらこちらに近づいてくる。 「えっ!女の人!?こっち男湯だよ!」 『えっ本当?間違って入っちゃったから、出るまで待ってもらえるかな?』 自分の頭を飛び越えて行われる数度のやり取りはもう耳に入らなかった、しばらくバタバタと慌ただしく片付ける音の後に脱衣所から人の気配が消えた。 「あ、貴女は」 『ボクはフェアリモン、貴女は?』 「姫野……サクラコ…です。」 『そう、サクラコさん。今日は災難だったね、折角のお風呂だったのに』 そう言いながら彼女は寄り添うようにゆっくりと湯船に身を沈めていく 「あの?どうして」 『気にしないで、ヒーローはピンチにやってくるものだから』 「……どうか、この事は」 『大丈夫、二人だけの秘密、ね?』 三人かな?悪戯っぽく笑ったフェアリモンはそう言いながらアルラウモンを抱き上げる 喉が詰まる、緊張からの解放と、申し訳なさと、気恥ずかしさとがない混ぜになり涙と嗚咽が止まらなくなってしまう。 フェアリモンさんは全て分かっているのだ、私のカラダの事も、そしてそれでも助けてくれたのだ。 『大丈夫、大丈夫、こわくなーい、怖くないから……』 まるで幼い子供をあやすようにフェアリモンさんは落ち着かせようとしてくれている だからつい甘えてしまったのだ。 助けられた身の上なのに、そんな事など自分の嫉妬と八つ当たりに過ぎないのに……拗ねたような事を口走ってしまった。 「私の事……おかしいって思わないんですか?」 「私の事……可笑しいって思わないんですか?」 <<久能ナヤムにとってこれは難しい質問だった>> <<間違えて男湯に入ってしまい恥ずかしさで泣き出した女の子のフォローをやった事のある男子なんて世の中にまずいまい>> <<ましてや相手はこちらを同性に近いデジモンとして見ているのだ>> <<つまり慰めというよりは気持ちの吐露の話で、今自分にに求められるのは共感であり……女子トークであり…気持ちの代弁。>> 『……まず、どんな事でも自分の気持ちが落ち着く時間が必要ね』 <<だから、何も飾らない己の経験を言葉にするしかなかった>> 『誰にだって他人に明かせない秘密を抱えてしまうというのはあるものだよ』 『それは他人に言っても解決のしない問題だったり、誰かの期待を裏切りたくなかったり、ただ自分が恥ずかしい思いをしたくなかったり』 『そんな中でいっそ消えてしまいたいと思う事もあるかもしれない……でもね?』 『どんなに辛くて恥ずかしい思いをしても、その先にたくさん良いものがあるからそれだってきっといい思い出に変わってくれる』 「その先?」 『例えば綺麗な景色だったり、美味しい食べ物だったり、誰かの笑顔だったり、後は将来の夢とか、やってみたい事とか』 『今死んでしまいたいほど恥ずかしいってだけで全部投げ出してしまうのはとても勿体ない事だと思うし、そう思わない?』 『だからボクは貴女の事可笑しいなんて思わないな』 <<ちょっと、いやかなりクサかっただろうか。確かに恥ずかしい思いをしたのはそうだが死ぬほどの経験ではないだろうにまるで自殺を止めさせるような説得を始めてしまっていて明らかに回答として不適切なそれだったし……>> <<ああ、やめてくれサクラコさん、そんな鳩が豆鉄砲を食ったような顔で見ないでくれ……>> ……言ってからフェアリモンさんを困らせるような事を言ってしまった自分を恥じる。 これは私の個人的な悩みだ、少なくとも性別の概念が薄いデジモンの彼女に打ち明けたところで理解を得られる事も無い。 貴女のようになれたらどんなに楽かと嫉妬のような気持ちが口から嫌味のように出てしまったのだ ───分かっているのに、言ってしまった。 『だから私はあなたの事おかしいなんて思わないわ』 こんな答えじゃダメかなとはにかむように笑うフェアリモンさんの声には強い決意のようなものが感じられた。 きっとそれはフェアリモンさん自身の経験から出た言葉で……今まで彼女が戦い続けてきた理由なのだろう。 別の世界で人々の為に戦ってきた彼女に向けられる人々の目はあまりにも、ともすれば人型をしていないデジモンよりも遥かに人間扱いされていないものだ。 「負けろ」「尻を見せろ」「胸を映せ」相手を人とも思わない好奇と性欲に塗れた視線に晒されて、そしてそれを恥ずかしい事であると知りながら戦い続けている。 そしてそんな心ない声に晒されながらもあの人は真っ直ぐ立って進んでいる。 涙で滲んだ視界で今まで以上にフェアリモンさんが眩しく見えた。 30分後。 『さて……さっき出くわしちゃった子はもう風呂済ませたかな?』 久能ナヤムはとりあえずサクラコを落ち着かせた後、先に脱衣所から出て見張りをし、彼女を無事寝室まで送り届けた後再び男湯の脱衣所に戻って来たのだ。 『さっきの件、トラウマにならなけりゃいいんだけどな……』 そう独り言を呟きながら脱衣カゴを確認する、風呂で変身したので当然これを解いてしまえば素っ裸だ。 『───?』無い、自分の着替えが。 いやそんなまさか、だってあの場にいたのは僕と彼女と後から来た子ぐらいのもので…… ピーッと絶望を告げる音が背後から響く。 そこにあるのは中がよく見えるドラム式の洗濯機で中には見覚えのある服が一揃い。 マジかよと悲鳴が喉から出る前にその耳が音を拾う。 ───がらり、と。 突然の物音に震える。 玄関の引き戸が開き誰かが帰ってきたのだ。 久能ナヤムは今、大いに悩んでいた。 半乾きの服を着て部屋に帰るか、いや、そもそも変身を解除するべきなのかどうかを───。