絵空言  盛大な拍手に見送られて今日の公演がすべて終わり、演者たちが袖へと捌けていくのを見届けてから『私』は興奮気味に手近なスタッフに声をかけた。  いつもの気まぐれと言ってしまえばそれまでだけど、なんだか無性に彼女と言葉を交わしたくて、居ても立っても居られなかったからだ。  終演後の熱を引き摺ったままでうまく説明できたかは自信がなかったけれど、首から下げていた演者関係者と印字されたパスのお陰ですぐに意図が伝わったみたいで、身分証の確認後にSTAFF ONLYの札が掲げられた扉の向こうへと案内してもらえることになった。  表動線に比べていくらか簡素なつくりの廊下を進んでいく。バックステージなんて私自身も何度か歩いているというのに、今日はお客様の立場ということもあってかどきどきとやけにやかましく胸が高鳴った。  やがて通された小部屋の椅子でしばらく待ちぼうけ。部屋には私の他にも挨拶を希望した関係者が何人か座っていて、私と同じようにどことなくふわふわそわそわとした様子で演者が扉を開いて会いに来てくれるのを待っていた。  急に扉が勢いよく開き、小さくて可愛らしい頭がドアの隙間から現れて、きょろきょろと部屋を見回す。私の方を向いて目が合うと、少しだけ不安そうに寄せていた眉の間の緊張がほどけて、花のような笑顔が浮かび上がった。 「みかみ!」  東條悠希といえば私の中では今でも少し癖っぽい髪をふたつに束ねているイメージだったけれど、今日は役に合わせて前髪を作ったストレートのサラサラヘアー。しばらく見ないうちにいつの間にかストパーをあてるような年頃になったのねと、たったのひとつしか歳が違わないのにまるで姉になったような心持ちだった。 「ゆーちゃん久しぶりぃ。舞台、カッコよかったしキレイやったし、ウチもう見ててどうにかなりそうやったわぁ」 「ありがとな!話はどうだった?面白かったか?」  聞かれて思わずどきりとしてしまった。もしかしたら身振りにも出てしまっていたかもしれない。いろんな人にオーバーリアクションだと言われるけれど、こればっかりはいつまで経っても直りそうになかった。 「うーん、お話はウチにはちょっとだけ難しかったかもしれへんけど、ゆーちゃんがカッコよかったんはほんまやで」 「そっかー、わかんなかったかー……でも見に来てくれて嬉しいぞ」  そう言ってゆーちゃんはにっと歯を見せた。出会った頃となにひとつ変わらない笑顔が時の流れを曖昧にさせる。何者かになりたいのに何者にもなれないのだと、出口の見えない情勢とままならない現状の中で膝を抱えて頬を濡らしていた少女と同一人物とは到底思えない。 『みかみはすごいよ。頑張り方も立ち上がり方もボクにはわかんないから』  レッスンを何日も連絡もなしに休み、事務所にすら顔を見せなくなって、何度もコールしてようやく取ってもらえた電話の切り際の絞り出すような声と、事務所の床を揺らす地下からの轟音が耳の奥にこびりついている。  いまさら、言えようはずもないのだ。きっと厭な記憶を呼び起こしてしまうだろうから。きっとこの無邪気な笑顔に陰を落としてしまうだろうから。卒業していったメンバーは他にもいるけれど、やっぱり私にとってはゆーちゃんとつーちゃんだけは特別で、大好きで、どうか幸せであってほしかったから。  だから、「一言多い」と言われ続けている私にしては珍しく、ついぞその日は「ウチたちのことも見に来てほしいなぁ」とは言えずじまいに終わった。 ◆  脚の疲労感に耐えきれなくなって、『私』は思わずぷるぷると震える膝に手をついた。  はぁはぁと肩で呼吸をしていると吐く息が白いのが目につく。標高が上がったせいなのか人里を離れたせいなのかはわからなかったけれど、夢中になって脚を動かしていたから今の今まで気が付かなかった。振り返ってみれば、木々の隙間からのぞく近代的な建物群はいつの間にかはるか彼方だ。  稀に見る記録的な暖冬のせいで年の瀬が近づく今日でも登山口ではまだ暑いくらいだったというのに、頬に触れる空気はまさしく実に一年ぶりの冬のそれで、かいた汗が急激に冷やされて身震いを覚える。 「大丈夫?もう少し登ったところに休憩所があるから少し早いけどそこでお昼にしよっか」  先を行く小柄な少女、永峰楓は既に満身創痍な私とは対照的に、まるで水を得た魚のように生き生きと輝いていた。それこそ、嘘のように。  彼女の言ったとおり、数分歩いた先の見晴らしのいい高台に寂れた、けれどしっかりとしたつくりの東屋が現れてほっと息をつく。  ベンチの枯れ葉を払って腰を下ろすとかえちゃんはてきぱきとした手つきでクッカーを並べ、材料を放り込んでバーナーに火を点けた。丸いものや四角いもの、クッカーと一口に言ってもそれぞれに別の名前がついているらしいけど、私から見ればそれらは等しくお鍋であり、前に何度か名前を教えてもらったものの聞き慣れない単語ばかりで右から左だったのを思い出して苦笑する。 「どしたのほたるぅ」  湯気のたちのぼるメタルマグを差し出しながらかえちゃんは怪訝な表情を浮かべていた。なんでもないよと返してカップを受け取って、息を吹きかけてゆっくりと口をつける。砂糖と香辛料がたっぷり入ったチャイが疲れた体に染み渡っていった。 『トイレに行きたくなるから普段はあんまりお茶は飲まないんだけど』とは言うけど、一緒に山に登ると決まって水筒に入れてきてくれるチャイが私は大好きだった。山登りはしんどいけど、これ目当てについてきているようなものだ。  ほう、と甘ったるい息を吐いて顔を上げるとくつくつと音をたてはじめた鍋に気がついていないのか、かえちゃんは上の空といった様子で景色を眺めているのに気がつく。視線の先を目で追ってみると、いつからそこにあったのか稜線の向こうにぼんやりとだけど日本の最高峰が聳えていたのが目に留まった。 「やっぱり物足りない?」  近所の山なんてとうに登り尽くしてしまっただろうし、退屈から未登頂の山に意識がもっていかれるのも無理のないことだろうと思う。そこまで登山に慣れているわけではないお荷物な私が一緒だったらなおさらだ。 「……そんなことないよ。ただ」  彼女は一度言葉を切ったあと、ぽつりと零した。視線は交差しないまま。 「登ってみたかったなって」  テーブルの隅に置かれたピルケースが視界に入らないように斜に構える。崖際の柵の隙間から見える葉の色づいた木々がやけにきれいだった。  先輩がお二人も卒業していって、もの寂しさを感じていた私達に追い打ちをかけるように、同期が二人卒業する運びになった。気付かないふりをしていたわけではないけれど、ぼんやりとまだまだずっと先のことなんだとまるで他人ごとのように思っていたから、予想外にがつんと頭を殴られたみたいで息ができなかった。だって叶愛ちゃんもかえちゃんもそんなそぶりはひとつも見せていなかったから。  中腹の神社でお参りをした時に、彼女は熱心に何を願っていたのだろう。知る由もないし、私には内容を尋ねる度胸も勇気もなくて、ただ開きかけた口をかたく結んで衝いて出そうになる言葉を飲み込むことしかできなかった。 「定期検診、めんどくさいな」  煮立ちはじめた鍋をかき混ぜながら、かえちゃんが誰にともなく言葉を発する。 「ちゃんと受けて、結果が良かったから特別に今日は来れたんでしょ」  だったら受けないと、とお行儀のいい優等生のような綺麗事を並べ立てた。なんて機械的で自動的な受け答えだろう。  やっぱり私は一言足りない。いや、言えるわけがないのだ。「そんなの放り出してずっと一緒に」だなんて無責任な言葉、冗談でも口にするべきじゃない。 ◆  踊ることは特別好きというわけではないけれど、特段嫌いでもなかった。  幼い頃に親に教えてもらった伝統舞踊で身についた体幹やリズム感は今のこの活動でも役立っているし、トークのフックにもなるから他のメンバーにはない私の武器でもあった。まぁ、私を知っていくにつれてなぜかはわからないけどだんだんとそちらの話題はあまり振られなくなるのだけれど。  だけどその日はダンスレッスンでの手応えが芳しくなくて、先生やメンバーが退室したあとも時間ぎりぎりまで鏡の前で指摘された箇所を黙々と反芻していた。鏡の中で踊る私はどうしたことか苦しそうに顔を歪めている。  おかしいな、以前はもっと楽しそうに踊っていたような気がするのに。  それまできっと何者でもなかった私がアイドルという道に足を踏み入れた当時はそりゃあ、厳しい練習に音を上げたことも一度や二度じゃなくあった。それでも続けられたのは、同じスタートラインに立っていた同期の存在が大きかったのだと思う。  よーいどんで一斉に走り出して、追い付き追い越し、抜きつ抜かれつ高め合って、はるか前を行く背中を目指してがむしゃらに駆けていく。  レッスンでしこたま叱られた帰り道で一緒にやけ食いした安っぽい駄菓子の味だとか、仕事の合間を縫ってどうにかスケジュールを合わせて大急ぎで巡った夢の国の一時間だとか、お披露目の舞台の裏で震える手と手を握り合った湿り気の感触だとか、そういう他人からしたらとりとめのない記憶がたぶんきっと、覚束ない私の両足を支えていたのだ。  顎を伝う汗を拭って、ひとりきりで立つ鏡の中の私を睨みつけた。  浮かない顔をしていればふたりが帰ってきてくれるわけでもなし、無いものねだりをしてもしょうがないだろう。 ◆  レッスンルームの前を通りがかった時、扉の小窓から明かりが漏れているのに気がついて足を止めた。単に消し忘れか、今もまだ誰かが中で練習に励んでいるのだろう。  音を立てないようそっと扉を開いて隙間から内部を覗き見ると、少女がひとり長い髪を振り乱しながら脇目も振らずに踊っていた。その背中からは鬼気迫るものすら感じられて、少しだけ怖くて近寄りがたかった。  だというのに、ここで私の悪い癖が出てしまう。怒っていたり不機嫌な人を目の前にするとどうしても、笑った顔が見たくなっておどけてしまうのだ。  体を流れる関西の血がそうさせるのか、怖いもの知らずなだけなのかはわからないけれど、やっぱり怒っているよりも笑っている方がその人も私も周りの人もみんなハッピーで万々歳なはずだ。ポリシーというべきか本能めいた何かなのか、私は得体の知れない衝動に突き動かされて忍び足を開始した。  前傾姿勢をとってつま先をゆっくりと床につけて、音を立てないように慎重に。一心不乱に踊り続ける彼女の後ろ姿とつま先だけに全神経を集中させて、もうあと数歩 「……あのぅ……」 「どき!!!!!」  突然るーちゃんはまるで後ろに目がついているかのように背後に迫る私に話しかけ、困惑したような顔で振り向いた。悲鳴を上げて驚いた結果、私は尻もちをついて倒れ込む形になる。 「いったぁ……な、なんでバレたん?音はしてなかったと思うんやけど……」 「なんでって、そりゃあ……」  説明の代わりにるーちゃんは背後を振り返って視線でタネを明かした。壁一面に張られた鏡の真ん中に、やはり困り顔のるーちゃんと無様にへたり込んだ私がばっちりと写り込んでいた。 「わぁ!?バレバレやんか!もー、早く言ってよぉ、恥ずいわぁ!」 「言いました……」  思わず頭を抱えた。るーちゃんの動向にばかり気を取られていて、初歩の初歩、基本的なことが頭から抜け落ちてしまっていた。恥ずかしさのあまりに顔がかーっと熱くなる。きっと耳まで真っ赤だ。 「え、気付いてなかったんですか?」 「全然気付かへんかった……人生最大の汚点や……さーちゃんとかやーちゃんに見られてたら一生擦られるレベルや……」  両手で顔を覆ってイヤイヤと身をよじる。穴があったら入って埋まって、そのまま次の春に咲きたい気分だった。 「……っぷ、」  くつくつという音が聞こえてきて顔を覆った指の隙間からるーちゃんを覗くと、お腹を抱えてぷるぷると震える姿が見えた。  作戦は失敗に終わったけれど、どうやら彼女を笑顔にさせることには成功したらしい。 「あはは、なんですかそれ」  ほら、やっぱり眉間に皺を寄せているよりも笑っている方が何百倍も可愛いし、見ている方もハッピーだ。 ◆ 「なぁなぁ、るーちゃん」 「なんですかなんですか、みかみさん」  本番直前。舞台袖で深呼吸をして気持ちを落ち着けていると、ととと、と道端でよく見かける白黒の鳥みたいな小走りでみかみさんが駆け寄ってきた。  にこにことしながら両手を差し出されたので、握り返して指を絡ませる。強くも弱くもない、微妙な力加減。今日はどうやら少しだけみかみさんの方が緊張しているらしく、手のひらが冷たかった。 「んふふ」 「うふふ」  笑い合って、特に会話するでもなく絡んだ指をほどくと、用は済んだとばかりに来た時と同じようにみかみさんはととと、と離れていった。 「え、なに、なになに、蛍っち、今の」  私のすぐ隣で手のひらに人の字を書いていた塔子は、どこか儀式めいた今の一連の流れを見て目を丸くしている。 「なんかのおまじない?」  聞かれて答えに窮して、視線を宙に彷徨わせた。正直、特に意味なんてないのだけれど、強いて言うならそうなのかもしれない。 「そんなようなものかなぁ」 「ふーん」  困り笑いでそう返すと、塔子は頭の高い位置で結んだポニーテールをぴょこんと揺らしながら、みかみさんの去って行った方を不思議そうに眺めていた。 「緊張の解し方なんて人それぞれじゃない?純佳ちゃんと桜さんなんてあっちでずっと板人間に話しかけてたよ」 「そらっち」 「いたにんげん?」  聞き慣れない単語といっしょに現れたそらちゃんに首を傾げながらおうむ返しすると、「アクスタ」、と簡潔に返される。なるほど、板の人間。件の二人は推しにパワーを貰っている最中らしい。 「そういうそらっちはずいぶん堂々としてるよね。最初の頃は一番ガチガチだったのに」 「やめてよ〜!そう言われるとなんか緊張してきちゃうからさぁ!」  言ってそらちゃんは塔子の背中をばしばしと叩いて地団駄を踏んだ。顔色がみるみるうちに青くなっていくのを見るに、あえて考えないようにしていたことをうっかりと思い出してしまったようだった。 「ヤバ……手が震えてきた……」 「人の字、人の字!そらっち人の字!!」  不用意な一言で取り返しのつかない事態になって、流石の塔子も慌てたように眉を下げている。ただ、私はといえば驚くほど平静を保っていた。 「ふたりとも」  声をかけて開いた手のひらを二人に差し出した。四つの視線が集まって一瞬の沈黙のあと、意図を理解したのか私のそれにそれぞれの手のひらを重ねて、きゅ、と少しだけ力を入れて握った。 「さっきのみかみ先輩のやつってこういうことかぁ」 「みかみさんでも緊張することってあるんだ……」 「そらちゃんてば、失礼」  そりゃあそうだろう。みかみさんだってきっと私たちと何も変わらないだろうから。 ◆  Overtureが流れ始めて会場の照明が絞られると、呼応するように歓声があがった。  ライブに声援が戻ってきてまだ一年も経っていないというのに、今となってはもうこれなしは想像することすら難しい。  病というのはどういった形であれ、人の心を磨り減らす。人間やはり健康が一番だと思い知らされた三年間だった。無声援どころか無観客みたいな閉塞感しかない日々なんて、もう二度と御免被りたい。  舞台の上へと順に登壇して開幕曲のイントロがかかるまでの数秒間、薄暗い観客席に目を凝らした。いつも会いに来てくれる見知ったファンの顔を見つけるたびに、嬉しくて力がみなぎってくる気がする。  けれど、私はそれと並行してある特定個人の姿ばかりを探してしまっていた。  会場二階の関係者席。アリーナのいちばん後ろ。もしかしたらと最前列。  たった数秒では探し当てることなんて不可能だってわかりきっているのに、目を凝らしてしまう。会いに行ったのがつい最近だったからと、一縷の望みに縋ってしまう。  結局、その日も目当ての人物の姿は見つけられないまま、イントロが流れ出してしまった。落胆を顔に出さないように、笑顔を心掛ける。  やっぱりみんな横一列に並んで走り続けるなんて奇跡は、そうそう実現しない。神様が勝手に指を差して集められた、性格も考え方もバラバラな私達ならなおのことだ。 けれどそれでも、脳裏に浮かべずにはいられなかった。  もしあなたたちがまだ隣にいてくれたなら、いったいどんなステージになっていたのだろう。そんな絵空事を思い描きながら、曲に合わせて最初の振りに入る。  一緒に踊ることが大好きだった。練習も本番も、つらいことも楽しいことも共有できて、思い出に変えられたから。  本番前の彼女の手のひらの温度と感触を思い返す。幼稚な代替行為ではあったけれど、彼女の気持ちはなんだか私なら理解できるような気がしたから、そうすべきだと直感した。  ダンスの途中、淡い照明に照らされた彼女と目が合った気がした。微笑んでいたのできっと大丈夫なのだろう。安堵して踊りに集中する。  言いたかったけど言えなかった言葉を飲み込んで、いるはずもない二人の姿を探して踊りながら、開演の一声を待った。  この空間の共有を想像するくらいなら、きっと神様だって許してくれるはずだろう。 了