それは当然の帰結である――その機能を備え、成すべきことを成したなら。 それでもなお、彼は――否、彼女は己の現状を実感あるものとして受け入れられなかった。 あたりには、“彼”の歳からすればいくらか“早い”本やら何やらの中に出てきたような、 皮を剥いた人の指――あるいはつるりとした海洋性蠕虫を思わせる、 赤黒く、生臭く、不気味な肉の蔦が数えるのも億劫なほど蠢いている。 そしてそれらが組み上げた特製の背もたれ椅子に、“彼女”は今、座らされているのだ。 ぼとり。どこかで粘性の強い液体が、塊となって落ち――弾けた音がする。 ずっと遠くかもしれない。すぐ近くかもしれない。けれどあまり意味のないことだ。 彼女は四肢を手首ほどもある無数の赤黒い肉の縄によって縛り上げられているし、 粘液が落ちた場所を一々振り返って確認するまでもなく、その粘ついた――生々しい白は、 ごく目の前の、太く、不規則に脈動する一本からも同じく垂れていたから。 それが重力に引かれて落ち――爆ぜるまでの、気の遠くなるほどの一瞬のうちには、 そこから沸き立つ、青臭い――“彼”の嗅ぎ慣れた匂いが、常に湧き上がっていた。 粘ついた“それ”ごと、肉の蛆は彼女の肌の上を這う。ぞくり、と背筋が震える。 不快であるはずの――“出して”すぐに片付けてしまいたくなったはずのその臭いは、 こうして己の肌に塗りたくられていると、魔法の膏薬のように香り立つ。 身体の内側が、ぐるりと裏返されている――喉の奥が、不愉快に渇く。 うめき声が、自分の声でないように甘ったるく聞こえる――これは本当に、“僕”か? 自意識とかけ離れたところで、彼女の肉体はどうしようもなく“雌”である。 そしてまた、“母”としての機能をも十二分に果たしうる。 それが嘘だと言うのだ。誇り高き女騎士の姿を得たことに舞い上がる気持ちはあったろう。 そのような存在が、だからこそ貶められ自己の雌性を突きつけられるのも、 凌辱の果てに、肉体の側に精神が隷属する結末に流されていくのも――知っていたはずだ。 それらが今、まさに自分の肉体の上で再現されていることが、嘘でなくてなんであろう? 粘ついた塊は彼女の肌の上で、てらてらと濁った光沢を吐いている。 薄っすらと黄色くもあるその膜は――逆説的に、彼女の肌の白さを際立たせていた。 そうとも、“彼”が望んだのは強さと美しさを兼ね備えた存在だ。透き通る肌は当たり前。 本来、“彼”の肉体にはない――大きな乳房だとか、丸みのある尻だとか、くびれた腰も、 手に入れた当初は、それだけで何回も――と、思えるほどのものだった。 それが今や、押し上げられてだらしなく左右に垂れた乳房へと変わり、 あまつさえ黒々と下品に濃く、広くなった乳輪に置き換えられているとなったら? 腹部は、冗談のように大きく、丸く、重くなってしまった――されてしまった。 “彼”が日頃蹴り回していたあの白黒の球もこれと比べられては立つ瀬があるまい。 観測可能な事実として、“彼女”は今、この触手どもの苗床とされているのである。 できれば、このままずっと息を止めていたかった――その先にある、緩やかな、“死”。 それを彼は望んでいた。現状を否定したくても、押し通すだけの力は既にない。 何が女騎士だ、民草を守るだ。そんなことより、“ここ”から、この悪夢の中から、 一瞬でも早く、抜け出して――家族だとか、幼馴染だとか、友達だとか―― そんな、元々の居場所に帰りたいと思っていた。無論、ただの逃避でしかないのだが。 生命の灯が、蓋をした蝋燭のようにすっと絶えてくれるならどれだけよいだろうか。 そんな夢想を否定するほどに、魔法少女としての身体は強い。生半なことでは死は遠い。 重ねて、精神がどれだけむずがったところで――肉体は、本能に准じて息を継ぐ。 死にたくない、と怯えているかのようだった。刻まれた恐怖ゆえか? あるいは既に、胎内に宿ったいくらかの生命に対する義理でもあろうか。 “母”が否応なしに呼吸を再開するたびに、子宮内にみっちりと詰まった“何か”―― 物理的には彼女の“仔”にあたる存在は、生の悦びを甘受して踊るのである。 どくん。どくん。どくん。自分の心臓の鼓動とは違う、明らかな別の“生命”。 その存在感を思い知らされるごとに、彼女は内臓を一気に押し潰されたようになる。 絞り出された肺の空気が、誰ともつかない名前の切れ端として生臭い大気の中に溶ける。 また別の時は、たすけて、だとか、いやだ、だとか。そこに差はないだろう。 不安と絶望に“彼”がその美しいつり目を、目元に施された青紫の化粧を歪めると、 彼女を“そう”した張本人の触手たちは、まるで慰めるかのごとくに、 膨らんだ腹をすりすりと――見ようによっては愛情たっぷりに――撫でてやるのである。 するとどうであろう。底まで沈みきっていた精神は、ゆっくりと吊り上げられていき、 浅くなっていた呼吸は、また自然に短、短、長、の繰り返しに戻っていく。 腹部を撫でられて――内側からも、どん、どん、と蹴り返されていると、 胎の皮一枚を隔てた内と外から、自分が作り変えられていっていることに彼女は気付いた。 捕らえられ、“処女”を奪われ、逃げることを許されぬままに孕まされて―― その一切を目の前の触手たちが自分に投げ掛けてきたのであったとしても、 こうして子宮の中に生ったものを、彼らは、祝いでいるように感じられる。 同じく、望むと望まざるとに関わらず――“これ”は自分の子なのだと認識せざるを得ない。 時間の感覚を失って久しいが、およそ人間のそれと同等かやや短い程度の期間でもって、 ゆっくりと、胎内の受精卵が今の状態にまで肥え太ってきたのは確かなのだ。 他ならぬ、彼女自身の肉体から――臍の緒を通じて、栄養と酸素とを受け取って。 “彼”はその事実に愕然とした。肉体はとっくに、雌としての本懐を果たしている―― そのことはいい。もうどうにも取り返しのつかないことだから。 それよりも、自分の――人間の、中学生男子としての自我、そしてまた、魔法少女の―― 女騎士としての自我。後者は、単なる“作り物”、そうあろうとした、というだけのはず。 その女騎士が、自分を辱め手籠めにした卑しい触手に絆されつつある。 このまま、ここで“この子”を産んであげてもいい――と、思い始めているというのだ。 いつの間にか、“自分”の心が“自分ではない”ものに乗っ取られつつある―― その境界線を、今更明確に引きなおすこともできない。とっくに身体同様ぐちゃぐちゃで、 刻一刻と、“僕”は“私”に、その主導権を明け渡そうとしているらしい。 ――それを自覚したところで、やはり彼にはどうすることもできない。 鼻先に、一本の細い触手が垂れ下がる。空腹を覚えていた彼女はそれにしゃぶりついた。 どろり、生臭い液体が喉を通って食道へと降りていく――生命を繋がせるために。 初めは強烈な生理的嫌悪感を覚えたものだが、飢えとの天秤のうちに慣らされてしまった。 口内から管が引き抜かれていく間も、彼女はぺろぺろと名残惜しそうに唇を舐める―― 露悪的な見方をするなら、その様子は口づけの終わりを切なく思う乙女めいてもいた。 それに応えるかのごとく、触手は彼女の唇の上をぺたぺたとなぞっては、 触れてくる舌先に合わせて、ぴゅっ、ぴゅっと唾液のように補給液を出してやるのである。 “彼”は自分がそんな浅ましい行為をしていることに、ひどく無自覚なようであった。 一際大きく、胎が蠢く。いよいよ、と彼女にその時が近いことを悟らせる。 女は犯されたら孕む。孕んだら、産む。そこまでは、“彼”も当然知っている―― 産むまでの時間の永さと、待ち受ける痛み、不安感は――これからだ。 ずきずき痛む子宮、それのあることを“彼”は呪った。だが“彼女”は喜んでいた。 一度失ったはずの生命が、こうして見知らぬ世界にまた再構築されただけでなく―― 雌としての正しい使い方を知る機会を与えられたのだ、とばかりに。 込み上げてくる一切、肉体と精神の両方に打ち上げる信号の津波、そのうねりの中、 “彼”と“彼女”、“僕”と“私”は不可分なまでにこね合わされ、混ざってしまう。 いつしか歪んでいた口端は――果たして歓喜であったのだろうか。